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EP28・悠久の時を刻む黄金樹

ヒュドラとの死闘で負った傷と消耗を抱え、バーレイグ一行は森の番人ベッカーの先導で、聖なる森の最深部へと進む。 重傷のフェンリルをベッカーが担ぎ、魔力を消耗したレネは、時折バーレイグの肩を借りながら、一歩一歩、歩を進めていく。


やがて、視界が開ける。 そこが、ヒュドラが破ろうと猛り狂っていた禁領区の境界だ。


空気そのものが、先ほどまでの森とは明らかに違う。 張り詰めているが、清浄な気配。


目の前には、息を呑むほどに美しい湖が広がっていた。 水面は磨き上げられた水晶のように澄み切り、湖底の白い砂地まではっきりと視認できる。


そして、一行の視線は湖の中心へと吸い寄せられた。


水面から突き出すように、ただ一本だけ、天を衝くかのような巨木がそびえ立っている。 その存在感は、周囲のどの木々よりも圧倒的だ。


森の番人であるトロールのベッカーが、湖の手前で静かに膝をつく。 先ほどの戦闘で見せた怯えとは別人のような、厳粛な面持ち。両手を大地につけ、古の響きを持つ奇妙で厳かな呪文を紡ぎ始めた。


「「――Illa anar, illa sulo, silma tenna’ sanwe.」」 (※意:陽よ、風よ、思考に光を)


詠唱と共に、それまで目には見えなかった「何か」が、湖の周囲で揺らいだ。 空間が陽炎のように歪み、行く手を阻んでいた不可視の結界が、光の粒子となって静かに消滅していく。


「…さあ、入るだべ。バーレイグ殿一行。フィン様が、お待ちだべ」


ベッカーが、一行を禁領区の中へと丁重に招き入れた。


厳かな気持ちで湖畔へと足を進める。 そして、湖の中心にそびえ立つ巨木の正体に、息を呑んだ。


その幹は白銀に輝き、枝に茂る無数の葉は、一枚一枚が陽光を反射して黄金色に煌めいている。


「…黄金樹…!」


エリオットが、知識としてしか知らなかった神聖な樹木の名を、畏怖と共に呟いた。 あれが、ベッカーが命を懸けて守っていたもの。そして、おそらくは、二人目の魔女が関わる場所。


警戒を解かずにその巨木を見据えていた、その時。


『――よくぞ、参られた。呪われし勇者よ』


声。 仲間たちの誰のものでもない。若くも老いてもいない、性別のない、荘厳で、それでいてどこか物悲しい響き。 声は耳からではなく、脳内に直接語りかけてくる。


はっと顔を上げた。 声の主は、明らか。目の前にそびえ立つ、黄金の巨木だ。


黄金樹は意思を持ち、確かに今、バーレイグに話しかけてきたのだ。


『――よくぞ、参られた。呪われし勇者よ』


声の主である黄金樹を睨み据える。


硬い樹皮が軋む重厚な音。 視線の高さにある黄金樹の幹、その表面が、まるで生きているかのようにうごめき始めた。


樹皮が寄り集まり、苔が編み込まれ、古木の繊維が隆起していく。 それは、まるで粘土をこねるように、ゆっくりと、しかし確実に「顔」の輪郭を創り出していく。 深く刻まれた皺。閉ざされた両目。そして、葉を編んだような髭。


やがて、その「顔」が動きを止め、閉ざされていた「瞼」がゆっくりと開かれる。 その奥に光はなく、ただ深淵のような闇が口を開けていた。


『我が名は、レント』


今度は、脳内ではなく、その形成された「口」から直接、声が発せられる。 巨木全体を震わせるかのような荘厳な響き。


『遥かいにしえの時から、この聖なる森を守りし、黄金樹』


レントと名乗った巨木の視線が、バーレイグを射抜く。 それは、人知を超えた存在が、矮小な定命の者を値踏みするかのような、冷徹な観照者の「目」だ。


『問おう。呪われし勇者よ』


レントの声は、問いを発しながらも、一切の感情の起伏を感じさせない。


『汝は、この『偽りの世界』を紡ぐ者か? それとも、破壊せし者か?』


「……なに?」


思わず眉をひそめる。 「偽りの世界」? 紡ぐ者? 破壊せし者? ヒュドラとの死闘で疲弊した頭には、あまりに唐突で、観念的な言葉だ。


レントは、こちらの困惑など意にも介さず、ただ淡々と選択肢を突きつける。


『前者…すなわち『紡ぐ者』であるならば、この地はお前の領域ではない。仲間を連れ、黙って去れ』


『だが、もし汝が後者…『破壊せし者』であるならば、この聖域を渡るに値するか、我が試練を与えよう』


「…………」


戸惑うバーレイグ。 (何だ…? 謎々か、これは…?)


目の前の人知を超えた存在は、明らかに自分たちを試している。だが、その問いの意図が全く掴めない。どちらを選んでも罠のような問答。


『さて、勇者よ。どちらだ?』 レントの「顔」が、感情のない深淵の「目」で、答えを待つ。


人知を超えた圧力を受けながらも、困惑から確信へと意識を切り替えた。 (…こいつの物差しに合わせてやる義理はねぇ)


目の前の巨木を真っ直ぐに見据え、揺るぎない声で己の信念を告げる。


「俺は、お前の言う『紡ぐ者』でも『破壊せし者』でもない」 「俺はただ、大事な人を救い、守りたいだけだ」


その言葉は、森の清浄な空気を切り裂くように、力強く響き渡った。 脳裏には、いまだ救えぬアーシェの姿と、今、隣で支えてくれるレネの姿がある。


「その結果、この世界が魔法の力を失おうとも。あるいは、あんた達の世界とやらを敵に回すことになろうとも」


呪われた右目を細める。


「俺は戦う。ただ、それだけだ」 「…………」


沈黙するレント。 まるで、バーレイグという存在の真意を測りかねるかのように、湖畔の風の音だけが響く。 仲間たちも、固唾をのんで見守っていた。


やがて、レントの「口」が再び重々しく開かれる。


『…そうか』


それは、肯定とも否定ともつかない、だが、答えを「受理」したかのような響き。


『ならば、勇者よ。その望み通り、試練を与えようぞ』


その言葉が引き金となった。 大地を揺るがす地響き。 黄金樹レントの巨体が、激しい軋み声を上げながら、その姿を変え始める。


水面が爆ぜる。


湖の底を突き破り、地中にあった巨大な根が、まるで生きた大蛇のように水面へと躍り出た。 黄金色に輝いていた幹の体表が、自ら裂け、ねじれ、変形していく。浮かび上がっていた「顔」もその形を失い、うねる木々の中へと飲み込まれていく。


それは、もはや「樹木」ではない。 黄金樹は、自らの身体を素材にして、湖の中心で急速に一つの巨大な「繭」へとその姿を再構成していくのだ。


やがて、全ての動きが止まる。 そこにあったはずの荘厳な巨木は消え、代わりに、表面を黄金の樹液で覆われた、巨大な繭が鎮座している。


生命の律動。


静寂の中、その繭は、まるで一つの巨大な心臓であるかのように、ゆっくりと脈打ち始めた。 それは、明らかに一つの生命体だ。


『勇者よ』


声は、今やその「繭」そのものから響いてくる。


『その繭に、触れてみよ』 『もし汝に、この偽りの世界のことわりを正す資格があるならば。その時、聖域の門は開かれよう…』


仲間たちと一度視線を交わし、覚悟を決めた。 ゆっくりと湖に足を踏み入れ、黄金の繭へと歩み寄る。


目の前で脈動する生命の塊。 ルシファーズ・ハンマーを握りしめたい衝動を抑え、言われたままに、そっと手を伸ばした。 ヒュドラを撃ち抜き、呪いを放つその武骨な手が、繭の表面に優しく触れる。


その瞬間。 繭の表皮に一筋の亀裂が走った。


触れた場所を起点に、繭の表面が、まるで硬い蕾が花開くように、ゆっくりと割れ、開かれていく。


眩い黄金の光の奔流。 目を細めながらその光の中を覗き込むと、そこには。


幼い一人の女の子が、まるで揺り籠に守られるかのように、安らかな寝息を立てて眠りに着いていた。

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