EP14・羅刹の魔女・レネ
神殿全体が、侵入者を拒絶するように、低く長く唸りを上げる。 結界を強制的に無効化し、踏み込む。
眼前。 玉座に鎮座する巨大な石櫃が、地響きと共に揺れ動く。
硬質な金属が弾け飛ぶ音。 極太の鉄鎖が、内側からの力によって、飴細工のようにねじ切られていく。 数トンはある石の蓋が、ゆっくりと、しかし圧倒的な力で押し上げられた。
その隙間から現れたのは、一人の少女。
永い眠りから覚めたとは思えぬ、血の通った白い肌。 月光を編んだような、長い銀髪。 この世の全てを見透かすような、静かで、どこか物悲しい瞳。
一人目の黙示録の魔女──「羅刹の魔女・レネ」。
彼女はゆっくりと立ち上がり、一切の言葉を発することなく、華奢な掌を向けてきた。
(……来るか!)
身構える。 だが、何も起こらない。
いや、違う。 周囲の空間が、悲鳴を上げている。
空気が鉛のように質量を持ち、フェンリルが放った蒼炎の狼たちが、その重圧に耐えきれず床へ叩きつけられ、霧散していく。
だが、俺本人には変化なし。 「破魔の肉体」が、直接的な魔法効果を完全に弾いている。
レネの瞳が、初めてかすかに揺らめいた。 (……効かぬ、か)
直感で、俺が常識の外にいると悟る。 次の瞬間。 彼女は戦術を切り替えた。
ふわり、とレネの身体が宙に浮く。 重力という楔からの解放。 自重0%。 物理法則を無視した軌道で、音もなく肉薄してくる。
「しまっ……!」
異常な速度。 動体視力ですら反応が遅れる。 氷のように冷たい無表情のまま、その拳が胸元へ突き出される。
拳が当たる、その瞬間。 大気が圧縮され、破裂した。
一点にのみ凝縮された、数百倍の超重力。 それはもはや「パンチ」ではない。 「極小の隕石衝突」。
ズンッ!!
【神晶球】が危険信号を発する。 反射的に腕をクロスさせて防御。 だが、そのガードごと、至近距離で砲弾を浴びたような衝撃で吹き飛ばされ、神殿の壁へと叩きつけられた。
「ぐっ……はっ……!」
肺から空気が強制的に搾り出される。 内臓が揺さぶられる感覚。
(……威力半端ねぇな、おい……!)
壁から剥がれるようにして立ち上がり、即座に反撃の弾丸を放つ。
乾いた銃声。 だが、弾丸はレネに届く寸前で、ありえない角度に「曲がり」、虚空へと消えた。 まるで、彼女の周囲に見えない惑星が存在し、その引力に吸い寄せられたかのように。
「……ほう」
鈴を転がすような、しかし温度のない声が響いた。 レネが、小首をかしげてこちらを見下ろしている。
「私の**《重なりの法》**を喰らって、まだ動けるか。人間にしては頑丈だな」
「……《重なりの法》、だと?」
口の端から滴る血を拭い、ニヤリと笑う。
(……なるほどな。重力操作か) (直接魔法は効かねぇ。だが、物理現象への干渉で『空間』そのものを捻じ曲げられたら、話は別か……!)
俺の「魔法無効」を無力化する、最悪の「天敵」。
「……面白い」
隻眼に、獰猛な歓喜の光が宿る。 これほどの強敵。 これほどの理不尽。 それをねじ伏せてこそ、「最凶の銃神」。
「───」
音は、なかった。 目の前にいた少女の姿が、陽炎のように掻き消える。 【神晶球】ですら捉えきれない。 「距離」という概念そのものが、消し飛んだかのような挙動。
(速い……!)
思考が追いつく前に、背後から迫る氷点下の殺気。 ルシファーズ・ハンマーを盾にするが、遅い。
衝撃波が空間を震わせる。 華奢な拳が、銃の側面に叩きつけられた。 見えない攻城槌となって、全身を襲う。
「ぐっ……ぉおおっ!」
骨が軋む音。 魔法には滅法強い肉体だが、純粋な物理的衝撃までは殺しきれない。 数メートル後方まで弾き飛ばされる。
「……なるほどな。こいつは、ヤベェ……」
痺れる腕を押さえ、立ち上がる。 まともに殴り合えば、数合も持たずに圧し潰される。
ならば──。 銃口を、再び接近してくる少女の心臓に合わせる。
銃声一閃。 神速の弾丸。 だが、少女は避けない。 ただ、小さな掌を弾丸の軌道上にかざすだけ。
次の瞬間。 信じられない光景を目撃した。
掌の前に出現した、拳ほどの大きさの**「絶対的な無」**。 光すら吸い込む、完全な黒。 事象の地平線。
弾丸は、その一点の闇に触れた瞬間、音もなく、火花もなく、ただ「消えた」。 初めから存在しなかったかのように。
(……消えた……だと!?)
『重力レンズ』による弾道歪曲ではない。 そのさらに奥の手……『無限黒穴』。 俺の《天の法》ですら、「無」に還す究極の防御。
「───」
少女は、初めてその口元に、かすかな笑みを浮かべた。 獲物を追い詰めた捕食者の、無邪気で残酷な笑み。
ここからが、本当の地獄だった。
無数の瓦礫が宙に浮遊し、超重力を与えられ、砲弾のように射出される。 【神晶球】が捉える無数の殺意の軌跡。 針の穴を通すような体捌きで駆け抜ける。
だが、ジリ貧だ! 瓦礫の雨の僅かな隙間を突き、あえてレネの背後の壁へ向かって弾丸を放つ。 跳弾! ゴブリン共を葬った、必殺の弾道計算。
だが、少女は振り返りもしない。 死角である背後から襲い掛かろうとした弾丸の軌道上に、寸分の狂いもなく『無限黒穴』が出現する。 音もなく、消滅。
(……軌道予測すら、意味をなさないのか……!)
『ウォン!』
主の窮地に、フェンリルが動く。 無数の蒼炎の幻影狼が殺到する。
だが、少女はただ冷ややかに見下ろした。 軽く指を振るう。 空間そのものの重力が、数百倍に膨れ上がる。
悲鳴を上げる間もなく、狼たちは自重に耐えきれず、地面に叩きつけられ、圧し潰されて消えた。
神殿が破壊されていく。 柱が粉砕され、床がクレーターと化す。
防戦一方。 反撃の弾丸は全て黒穴に吸い込まれ、意味をなさない。 徐々に、しかし確実に蓄積していくダメージ。
そして、ついに。 瓦礫を避けた着地の隙を、少女は見逃さなかった。
ゼロ距離。 超重力を乗せた回し蹴り。 咄嗟に腕をクロスさせて防御。 だが、その防御ごと、木の葉のように宙を舞った。
「が……はっ……!」
背中から壁に叩きつけられ、その場に崩れ落ちる。 口の中に広がる鉄の味。 カラン、と硬い音が響いた。 ルシファーズ・ハンマーが、手から滑り落ちる。
片膝をつき、荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、無表情で、無傷で、ただ静かにこちらを見下ろす、銀髪の少女。
弾丸は、届かない。 物理攻撃では、勝てない。 魔法は、元から使えない。
バーレイグの隻眼に、今まで見たことがない絶望という名の闇が、支配しようとしていた。




