EP13・封印されし黙示録
その翌日、聖ノルヴァキア王国、王都。
光も届かぬ最深部の地下牢。 冷え切った石床に、アーシェは座り込んでいた。
手足には魔力を封じる呪印の枷。 だが、彼女を真に縛るのは、物理的な鎖ではない。
「……まだ、抵抗するか」
鉄格子の向こう。 ダルクニクスの怜悧な声。
彼の指先から滲み出る黒い靄が、脳髄を直接締め付ける。
《滅の法》の応用。 肉体ではなく、精神を蝕み、自我を塗り替える禁忌の術式。
「ぐっ……ぅ……!」
必死に自我の壁を保つ。 脳内に強制的に流し込まれる、偽りの記憶と絶望の幻影。
兄ハーヴィーが裏切り、冷酷に笑う光景。 それらが真実であるかのように囁きかけてくる。
(嘘……! 兄さまが、そんなこと……!)
抵抗を続ける精神は、確実に摩耗していく。
ダルクニクスは、その苦悶を、実験動物を見るような無機質な瞳で見下ろしていた。
「無駄だ。その強い意志も、兄への想いも、やがては我が『秩序』の一部となる」
彼は、さらに心を砕くべく、二つの「事実」を淡々と告げる。
「既に、追っ手を放った。夜の闇を統べる、最強の狩人を」
「そして、ハーヴィー・グリマルドは、世界を混沌に陥れる『魔王』として、全世界に手配される」
瞳が見開かれる。
兄が、世界そのものの敵として、永遠に追われ続ける未来。
「……あ……」
一筋の涙が零れ落ちた。 だが、その色は絶望ではない。
「……兄さまは」
震える声で、顔を上げる。 瞳には、消えることのない怒りの炎。
「兄さまは、絶対に貴方には負けないわ!」
「あんたみたいな、人の心を弄ぶだけの卑劣な男に……! 世界を救った兄さまが、負けるはずない……!」
魂の叫び。
だが、ダルクニクスの表情筋は一つも動かない。
「そうか。その気高い精神こそ、最上の素材だ」
「その心が憎悪に染まり、愛する兄を殺す刃と化す瞬間が……楽しみだ」
黒い魔力が、さらに強く、深く、精神を浸食する。 地下牢の闇に、悲鳴が虚しく吸い込まれていった。
◇◆◇
──時は、少しだけ遡る。
セレンチアの地下神殿。 ゴブリンの王が倒れた静寂の中。 エリオットから『蜘蛛の巣』の情報を聞き出す。
「……古代神殿が、海底に。か」
「ああ。俺たちの知る情報はここまでだ。この先は、誰も足を踏み入れたことのない未知の領域……」
エリオットは、迷宮のさらに奥、底知れない暗闇を見つめる。
「俺も行く。あんた一人じゃ……」
「来るな」
短く遮る。
「お前には、お前の戦場があるはずだ、リーダー」
エリオットが口をつぐむ。
「セレンチアの『目』と『耳』が欲しい。この街を裏から牛耳っている連中。そして、ダルクニクスの息がかかった奴らがいないか。それを探れるのは、裏を知り尽くしたお前たちだけだ」
単なる駒ではなく、対等な「協力者」としての言葉。
エリオットは、強く頷いた。
「……わかった。必ず、生きて戻って来いよ!」
固い握手。 二人は別れた。
フェンリルだけを連れ、迷宮の深淵へと身を投じる。
◇◆◇
迷宮の最深部。 空気の質が変わる。
肌にまとわりつく湿気と冷気。微かな潮の香り。
やがて、巨大な洞窟の入り口。 その先には、インクを流したような真っ黒な地底湖が、静かに揺らめいていた。
「……この先に、失われた古代神殿があるはずだ」
光の一切ない水面を見下ろす。
「潜るしかないか」
覚悟を決め、ためらいもなく冷たい闇の中へ身を躍らせる。
冷気が全身を締め付ける。 完全な暗闇。圧迫する無音の世界。
だが、その闇も一瞬で晴れた。
左目の【神晶球】が、水中で淡い光を発する。
視界に広がる、月光に照らされたような、銀色と影だけの静謐な世界。 苔むした巨大な石壁。上へと続く階段の影。
水面を割り、大きく息を吸い込む。
水没を免れた巨大な空洞。濃密な闇。
「フェンリル、灯りを」
『承知』
フェンリルの口から、数匹の蒼炎の幻影狼が放たれる。 狼たちは壁や天井へ駆け上がり、その身を蒼白く燃え上がらせる。 闇を払う、美しい生きた松明。
その蒼き光が、辺り一帯を照らし出した時。 息を呑んだ。
目の前に現れたのは、荘厳なる沈黙。 悠久の時を経て、闇の中に佇む古代の聖域。
崩れ落ちた天井や壁が、歴史の重みを物語る。 蒼白い炎が作り出す影と光のコントラスト。 幻想的に浮かび上がる神殿の輪郭。
ひんやりと澄んだ空気に、足音だけが反響して消えていく。
「……とんでもなく古いな。いつの時代の遺物だ?」
壁に刻まれた、風化して判読不能な古代文字に指を這わせる。
『うむ。幾千年以上を生きる我ですら、この神殿の記憶はない。原初魔法が生まれるよりも、さらに昔の時代のものやもしれんな』
フェンリルの言葉に、肌が粟立つ。
(流石、神様だな……)
神殿の深奥へ。
巨大な二枚扉の門。 片方は瓦礫の山と化しているが、もう片方は形を保っている。 その隙間から、内部へ滑り込む。
内部もまた、崩壊と静寂が支配していた。 だが、高く伸びる天井、寸分の狂いもなく並ぶ巨大な列柱が、かつての壮麗さを雄弁に語る。
最も大きな広間。 その中央に、「それ」はあった。
巨大な一つの石櫃。
内部に眠る「災厄」が目覚めるのを恐れるかのように、おびただしい数の極太の鉄鎖が、石櫃を雁字搦めに縛り付けている。 鎖の一本一本に、見たこともない呪印が赤黒く脈動していた。
「……これか」
ごくりと喉が鳴る。
間違いない。この中に、一人目の「黙示録の魔女」が眠っている。
引き寄せられるように、石櫃へと足を運ぶ。 一歩、また一歩。
指先が、冷たい石の表面に触れようとした、その瞬間。
視界が白く染まる。
凄まじい拒絶の衝撃が、身体を後方へと弾き飛ばした。
石櫃の周囲。 今まで視認できなかった半透明の光の壁──結界が、激しい火花を散らしてその牙を剥いたのだ。
神殿全体が、侵入者を排除せんと、低く、長く唸りを上げ始めた。




