27.親に売られる
「ジュ、ジュ、ジュ、ジュリアあぁぁぁ」
後退ると、リカルドお父様は、ゾンビのように両手を伸ばしてふらふらと寄ってきた。
まるで化け物。
もし銃を持っていたら、迷わず頭部を狙って連射してしまいそうだ。
(頬の肉があんなに落ちて……自慢の鼻髭も、すっかり萎びて間抜けなチョビ髭になっている)
何よりも胸を痛めたのは、父上の眼に、まるっきり生気のないことだった。
私を見るときは、必ず瞳にハートが輝いていた。それが今は、死んで池に浮いた鯉と同じ眼をしている。
「ジュ、ジュリ、ア……」
80代の老人のような声で、父上は言った。
「お、お前の姿が中の島に見えて、地上に打ち上げられた最後のマーメイドと間違えて、橋を渡ってきてしまったよ」
良かった。冗談を言う余裕はあるらしい。出来の悪い冗談だけど。
「我が子ながら、やっぱりお前は美しい。わしは例え死んでも地の底から蘇って、お前を骨まで溺愛したい」
「笑えませんわ、お父様」
むっとして、父上のゾンビじみた手を払った。
「レオナルドお兄様から聞きました。何でも悩み過ぎて、痩せ衰えられたそうですね」
父上は、死んだ魚の眼で虚ろに私を見ている。
「そんなに簡単に痩せられて、世の女性に妬まれるでしょうね。ダイエット本でもお出しになるといいわ。まあ、特異体質のお父様にしか実践はできないでしょうけれど」
「……ジュ、ジュリア。お前らしくもない。父親にそんな辛辣な口を利くなんて」
「辛辣? どこがですの?」
頭にきていた。
「娘を愛さない父親は、口を利いてもらえるだけマシだと思って下さい」
「な、何だと?」
父上が口を開けると、顎がガクンと外れた。
「痛たた。頬がこけたら顎がゆるくなった。しかしお前は何を言い出すのだ。溺愛しているに決まってるだろう」
「いいえ。お父様は私を愛していません。だって私より、王室のほうを愛していらっしゃるのですもの」
そう口に出したとたん、涙が込み上げてきた。
しかし泣くのはこらえた。
お父様の前では泣きたくない。
だって、私を手ひどく裏切ったのだから……
「ジュリアよ。お前は父の心を誤解しておる」
「いいえ。すでに答えは出ています。私をバーナード王子様のお妃にという打診が、内々にあったそうですね。もし私を愛していたら、すぐに断わるか、私の希望を尋ねて下さるはずです。そうせずに悩んでいるということは、私を嫁に出したくはないけれど、王室と姻戚関係になるチャンスも捨てがたい。その2つの重さが同じという時点で、はっきり言って、お父様の溺愛は偽物です!」
最後のほうは、悔しいが、涙声になってしまった。
悔しい。本当に悔しい。
「だから違う。誤解なのだ、ジュリア」
この期に及んで、まだ醜い言い訳を捻り出すつもりだろうか?
「わしが悩んでいるのは、お前を愛するがゆえだ。わしは365日、四六時中、1時間のうちおよそ59分59秒は、お前のことを考えて生きている。どうすればお前が幸せか、どうなるのがお前にとって相応しい人生か、などとな」
父上は、はらはらと涙をこぼした。
「今回、バーナード殿下の意中を伺ったときに、もしかすると、これは運命かもしれないと思った。王子の妃になることこそ、ジュリアにとって相応しい人生では? 王室の花となって、国民全員から溺愛されることが、いちばんの幸せではないか? そう考えると、父の胸は張り裂けそうだが、このお話を受けるべきではないかと……ああっ、む、胸がっ!!」
父上は天に向かって慟哭し、いきなりシャツの胸元を引き裂いた。
そのとき、
「あなた?」
パトリシアお母様が、中の島に現れた。
「またシャツをお破りになって……まあ、あばらが浮いてらっしゃる。いつからそんな、スペアリブみたいなお身体になられたの?」
そう言う母上は最近肥り気味で、ゆったりとしたハイウエストのドレスの上からでも、下腹がぽっこり出ているのがわかった。
すると父上が、いったいあの痩せた身体のどこにそんな力が、と思うほどの迫力で、母上を張り倒した。
「オエッ! オエッ! オエッ!」
後ろにひっくり返った母上は、あまりの痛みに吐き気を催したようだった。
「気持ち悪い! 気持ち悪い! オエーッ!!」
「やかましい! あばらがどうした! わしがこれほど悩んでいるのに、お前は呑気にバラ肉を増量させやがって!」
母上は焦点の定まらない眼を父上に向け、
「悩んで……いる?」
「そうだ。わしとしては、ジュリアはロイヤルファミリーの一員になるべきかとーー」
それを聞いた母上は、むくっと起き上がり、
「あら。そのことで、そんなに悩んでらしたの?」
「じゃあお前は、どうしたらいいと思うのだ?」
「それは簡単」
母上はにっこりと笑い、
「あの素敵なバーナード殿下が義理の息子になるなんて、こんなに嬉しいことはございませんわ」
「お母様!」」
絶叫した。
「ひどいです! どうしてお父様もお母様も、私の意思を尊重して下さらないのっ!!」
母上は薄く微笑んでいる。その顔を見ているうち、ハッと悟った。
(そうか。私が嫁にいってしまえば、お父様やお兄様や弟の溺愛の対象が、お母様に移る。だからお母様は、これを機会に邪魔な娘を厄介払いしたいのだわ)
足元の地面が揺れたように感じた。
乾いた北風が吹く。
私は立っているのがやっとだった。
「でもそれよりわたくしは」
パトリシアお母様が、北風より冷たい声で言う。
「レオナルドちゃんとアンドレアちゃんのことが心配です。あの子たち、あなたを説得するのが難しそうだからって、直接王宮に乗り込もうなんて相談していたの。殿下に直談判して、諦めてもらおうって。まあ、どうせ門前払いされるに決まってますけど、衛兵と悶着を起こしでもしたらーー」
「何だと!?」
父上は、また顎を外した。
「くそっ! 王宮に乗り込むだなんて、そんな不祥事を息子が起こしたら、わしは死なねばならぬ。レヴォワール家もおしまいだ。急いでやめさせろ」
「もう出ていきましたわ、あなた」
「なーにー!? 何をのんびりしておるのだ、馬鹿! すぐに馬車の用意だ。お前とジュリアも来い!」
そう怒鳴って走り出そうとした父上が、
「……あれ?」
ようやく不自然な石膏像の存在に気づいて、眼を細めた。
「あんな円盤で股を隠した下品なオブジェが、なぜうちの中の島にーー」
「あなた、急ぐんでしょ」
母上が痩せた父上をひょいと引っ張った。
その様子を見たとき、おや、と思った。
(どうもお母様は、最初からエディの術を見抜いていて、あえて黙っていてくれたように見える。いったいお母様の本心はどこにあるのだろう……)
今にも父上を担いでしまいそうな逞しい母上の背中に、私はじっと視線を注いだ。




