19.金の魔力
「ジュリアあああ!」
愛馬〈クレイジーアバウトユー〉を止めたリカルドお父様が、まるで狂った馬が嘶くように叫んだ。
「お前が好きだあああああ!!」
絶望感に包まれた。
(みんなみんな、この溺愛のせい。父上とお兄様と弟の異常な溺愛のせいで、私は友達が普通に恋愛する年齢になっても、男の人とまともに会話したこともない……)
そう。
思えば、近所の男の子たちは皆、父上を怖がって私を遠ざけるようにした。
やがて16歳になり、社交界デビューしてからも、男性はめったに近づいてこなかった。父上やお兄様の異常さは知れ渡っており、誰しも面倒に巻き込まれたくなかったのだ。
(そんな私の孤独を見抜いて、果敢に近づいてきてくれたのはエドモンド・アラベスターだけ。エディだけは、どんなに父上に嫌なことを言われても、いつも私に話しかけてくれた)
「いやあ、ジュリア。サクラの樹の下にお前がいるのを見つけたら、つい我を忘れて馬を襲歩させてしまった。中庭で襲歩なんて危なかったかなあ?」
「……ええ。危ないと思います」
「だって、1秒でも早くお前に逢いたかったんだもん! ブルルルル」
最後のブルルルは、〈クレイジーアバウトユー〉ではなく、興奮した父上が立てた音だ。
「興奮したところを娘に見られて恥ずかしい。いいや、よくよく考えれば、わしとお前は一心同体。同じ人間みたいなものだ。だから何を見られても恥ずかしくない。なあ、ジュリア。全然恥ずかしくないから、わしのすべてを見せようと思うが、どうだ?」
「どうだと言われましても……」
いったい何を見せようと言うのだろう。父上は馬からひらりと降り立つと、愛用のロングコートをバッと開いた。
「わしはお前になら、何を見られても恥ずかしくない。お前も恥ずかしくなかろう?」
「やめて下さい、お父様!」
リカルドお父様、何をなさるおつもり?
お父様はご存じないけれど、眼の前に生えているサボテンは、アラベスター家の三男のエドモンドなのよ。
だからお願い。小っ恥ずかしいことはやめて。
「ジュリアよ、これを見よ!」
父上のズボンは、パンパンに膨らんでいた。
サボテンが、一瞬たじろいだように見えた。
私はワナワナと震えた。
「お父様……いくら何でも、怒りますよ」
「なんで?」
「なんでですって? 娘にそんなものを見せて、いったい何が楽しいんですの!?」
すると父上が、ズボンのポケットに手を入れた。
「まだ中身を見てなかろう。こいつを見てから、判断してくれ」
と、父上は照れ臭そうな顔をして、ポケットから丸いものを出した。
「いやー、照れるなあ。これが、今のわしのすべてだ」
「意味がわかりませんけど……これは何ですの?」
「カブだよ」
言われてみると、それは確かに野菜の蕪だった。
「それがどうして、お父様のすべてになるんです?」
「いやー、恥ずかしい恥ずかしい」
「恥ずかしがらずにおっしゃって下さい」
「じゃあ、一心同体のお前にだけ教えるが、ほぼ全財産をはたいてこれを買った」
「は?」
頭が混乱して、つい敬語を忘れた。
「それ、どういうこと?」
「魔法だよ、魔法」
「さっきから、何を言ってるのか全然わかりません。ちゃんと説明して下さい」
「驚くなよ。何とこれは、来週には、買った値段の3倍になる。だから来週これを売れば、わしの財産も3倍になるというわけだ。まるで魔法だろう?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
呆れて物が言えないとはこのことだった。
が、父上は上機嫌に、まるで幼児に教え諭すように言った。
「まあ聞きなさい、愛するジュリアよ。アラン王国にノックス大賢者が来てから、いろいろと経済改革がなされたことは知ってるだろう?」
急にノックス大賢者の名前が出たので、私とサボテンはビクッとした。
「それから会社の形態が変わって、カブを売るようになった。これを買うと、カブ主になる。会社が儲かると、カブ主は分け前をもらう。これを『配当』というそうだ」
背すじがスーッと寒くなった。父上は、何か恐ろしい勘違いをしているのではないだろうか?
「つまり、儲けのよい会社のカブを持っていれば、どんどん金が入ってくる。だからそういうカブは高い値で売れる。で、わしの買ったカブだが、ある筋から入手した確実な情報で、値段が跳ね上がることがわかっている。急成長が期待されている会社なのだな」
「お父様」
「娘よ、皆まで言うな。これは元々、お前のために買ったものだ。だから黙って受け取りなさい。いいな、来週になったら売るのだぞ」
「お父様」
涙声になっていた。
「お父様は、騙されたのです。このカブは、どこで購入されたのですか?」
「むろん、八百屋だ」
地面にガックリと膝をついた。
「どうした、ジュリア。貧血か?」
「そうです、貧血です。これが貧血にならずにいられるもんですか!」
父上を見上げて怒鳴った。
「今頃その八百屋は、お父様の財産を持って国外に逃げたでしょう。だってそれは、ただの野菜ですもの」
「いやだから、カブというのはーー」
「株式会社の株は紙です! 野菜の蕪になんか、1ナーロの価値もありません!」
「なんと」
父上は絶句して、手の中の蕪を見つめた。
「これに1ナーロの価値もないと……」
父上は蕪を地面に投げつけると、天に向かって咆哮し、シャツの胸元を引き裂いた。
そのとき、
「あなた」
パトリシアお母様が、この場に現れた。
「いったいどうなさいましたの? またジュリアに興奮して、シャツをお破りなさったのですか?」
すると父上が、いきなり母上を張り倒した。
「オエッ!」
後ろにひっくり返った母上は、痛さを通り越して、吐き気を催したようだった。
「気持ち悪い! 気持ち悪い!」
「何だとコラ! わしはたった今全財産を失ったのだ。文句あるか!」
母上は焦点の定まらない眼を父上に向け、
「全……財産?」
「そうだ! わしを殺すか? それとも離婚するか?」
それを聞いた母上は、ガバッと起き上がり、
「離婚ですって!? どうして?」
「どうしてもこうしても、わしは無一文になったのだ。さっさと別れて、誰かほかの男に養ってもらえ」
「あなた!」
パトリシアお母様は、リカルドお父様をひしと抱き締めた。
「馬鹿なこと言わないで。あなたが無一文になろうが死刑囚になろうが、わたくしは決してあなたのそばを離れません」
父上の身体が、ぶるっと震えた。
「愛してるわ。あなた……」
母上の唇が、父上の唇に近づいた。
私はそっと、サボテンの眼(と思われる辺り)を押さえた。
しかし父上は、私の眼を気にしてか、母上から顔を背けた。
「すまん。株と間違えて、全財産をはたいて蕪を買ってしまった。お前に合わせる顔がない」
「なんだ、そんなことでしたの。それなら心配しないで」
母上はにっこりと笑った。
「そんなこともあろうかと思って、わたくしは貯金しておりました。資産運用に関しては、株よりも堅実な国債に投資してあります。一生食べていけるだけのお金はありますから、どうぞご心配なく」
父上はまじまじと母上を見て、
「……蕪よりも、白菜が堅実だったのか。まさかお前がそんなことに詳しいとは」
と、まだ間抜けな勘違いをしながらも、母上の知らなかった一面に感心していた。
「でもそんなことよりわたくしは、レオナルドちゃんとアンドレアちゃんのことが心配です。あの子たち、大賢者様をアラン王国から追い出すつもりだと言うの」
母上の眉毛が下がった。
「それで、外務大臣の第一秘書さんに掛け合うんだとか息巻いて。でもそんなことをしたら、暴動が起きるわ。だって今アラン王国は、大賢者様のお陰で経済発展しているんですもの。お願い、あなた。やめさせて」
「わかった」
父上は、威厳を取り戻して頷いた。
「なぜあいつらが大賢者を恨んでいるのか知らんが、説得してみよう。お前とジュリアも来てくれ」
そう言って〈クレイジーアバウトユー)に跨った父上が、
「おや?」
ようやく不自然なサボテンの存在に気づいて、眼を細めた。
「あんなところにどうしてーー」
「あなた、急いで」
不意に母上が声をかけ、父上を急かした。
その様子を見たとき、ハッとした。
(もしかしてお母様は、最初からエディの術を見抜いていて、あえて黙っていてくれたのでは?)
遠ざかるパトリシアお母様の背中に、そっと頭を下げた。