2.人間になりたい
それから、長い月日が経った。
あたしはサトルとの生活にすっかり慣れて、サトルのことが大好きになった。あ、サトルっていうのは例の男の人のこと。中野サトルっていうんだって。
あれからサトルはあたしの飼い主を探していろんな人に頼んだけど、結局新しい飼い主は現れなかった。 動物病院の貼り紙をはがしに行った日の夜、サトルはあたしに向かって言った。
「おまえ、ウチの子になる?」
うんうん、なるなる!!あたし、あなたのウチの子になります!!
あたしはしっぽをブンブン振って精一杯喜びをアピールした。
そんな訳で、あたしはサトルの飼い犬になったのだ。そして、リリィという素敵な名前をもらった。
「リリィ、お散歩行くよ」
「ワン!ワン!」(はいはい、行きます!)
わーい!お散歩大好き!早く行こー!!
「あら、こんにちは、中野さん」
「あ、斎藤さん、おはようございます。おー、ハナ、元気か?」
斎藤さんは、おとなりのおばさんだ。あたしがサトルの次に会ったこのおばさんのおかげで、あたしは
ミルクをもらえて命を助けられたのだ。
そして、その飼い犬のハナ。あたしより大きくて、あたしと同じ垂れ耳で、優しい目をしたあたしのお姉さん的存在だ。
「リリィちゃん、あいかわらず元気いっぱいね。もういくつだったかしら?」
「だいたい生後3カ月くらいでウチに来たので、今は1歳くらいです」
「もうそんなに経つのね。結局、中野さんが飼うことになっちゃったけど、これでよかったんじゃない?」
「そうですね。でも、なかなか言うことを聞かなくて、毎日手を焼かされてますよ。ラブラドールは賢いから苦労しなかったでしょう?」
「そんなことないわよ。どこも子犬の頃は手を焼くわ。それにリリィちゃんももう大人よ、ねえ?」
サトルとおばさんが話してる間、あたしもハナにごあいさつ。
「ハナ、おはよー!」
「おはようリリィ」
ハナもしっぽを振り振り、あいさつしてくれた。
「ねー、ハナ、例の件なんだけど」
「え?まだ言ってるの?あのこと」
「うん、だってあきらめきれないんだもん。何か新しい情報、ある?」
「ううん。そもそもバカバカしいウワサだと思うよ」
「でも、本当かもしれないじゃん!あたし1回でいいから人間になってみたいんだもん!」
「ほら、行くよリリィ」
サトルの声がした。
あたしはじゃーね、と言ってハナとおばさんと別れた。
そう。あたし、人間になりたいんだ。
あたしはサトルに拾われて、今は幸せな生活を送ってる。毎日あったかくてふかふかのお布団で寝て、ちゃんとゴハンももらって、サトルはいつもあたしを優しくなでてくれる。
ただ、最近ちょっと不満があるんだ。それは「カイシャ」にサトルをとられてしまうこと。
毎朝、サトルは「カイシャ」に行く。「シゴト」をしに行くんだって。そして、夜遅くまで帰ってこない。
あたしは朝から晩までサトルの帰りをじっと待つ。じっとドアの方向を向いて待つ。夜になったらソワソワ落ち着かない。
やっと帰ってきたら、あたしはうれしくってうれしくって、しっぽをブンブン振りまくってサトルに飛びつく。サトルの顔をペロペロしまくる。サトルの後をどこまでもついて回る。サトルも、リリィ、ただいまとうれしそうに笑ってくれる。
それがどうだ。最近、今までよりさらに帰りが遅くなって、サトルは帰ってくるなりソファーに寝転んであたしにかまってくれない。あたしはサトルが帰ってくるのだけを楽しみに生きてるっていうのに。
だから、サトルが「カイシャ」に行くのがすごくイヤで、朝からいたずらをして困らせてやった。カバンにかみついたり、カバンの中身を隠したり。でも、その後すごく怒られたからすぐにやめた。
そして、何よりイヤなのは、サトルに女がいることだ。
カイシャ帰りのサトルからは、いつもいろんな女の匂いがする。
サトルはあたしのものだ。あたしがサトルのことを一番よく知ってる。サトルだってあたしのことが一番好きに決まってる。だってあたし、誰よりもカワイイし。
サトルは誰にも渡したくない。他の女とケッコンするなんてもってのほかだ。
どんな女がサトルに寄りついてくるのか、あたしの目で見て、かみついて追い払いたい。サトルに近づいていい女は、サトルのママと、サトルのお姉ちゃんと、おとなりのおばさんだけだ。
そんなことを思ってイライラしていたある日、あたしはビッグニュースを聞いたのだ。
それはたまたまペットホテルに泊まった時のこと。(サトルが急に遠い所にシゴトに行くことになって誰もあたしを預かってくれなかったのだ)
となりのケージの犬から、こんなことを聞いたのだ。
『犬の神様っていうのがいて、何でも願いを叶えてくれる』
はじめはバカバカしいと思ったから、聞いた途端思わず「ウソだぁ!」って言ってしまった。
その時の会話は、たしかこんな感じだった。
◇ ◇ ◇
「そんなのウッソだぁー!」
「ワテも他の犬から聞いた話なんやけど、実際に叶えてもらったヤツもおるんやって」
そう語った犬は全身の毛がボサボサで、目まで毛で隠れてて、なんかアヤシイ感じだったんだけど
あたしはつい聞いてしまった。
「どんな願いごと?」
「飼い主と話せるようになりたいとか、人間の食べ物を食べたいとか、人間になりたいとか・・・」
「えっ!?人間になれるの!?」
「おう、人間になった犬もおるらしいで。ただ・・・」
「すごいすごい!ねえ、どうやったら神様に会えるの?」
「えーと・・・ああ、たしかおまじないを唱えるんや。毎日。ほんなら、運がよければ来てくれるらしいで」
「おまじない?」
「何やったっけな・・・?ああそう、『アブラカダブラ、アブラカダブラ、我の願いを叶えたまえ』やったかな」
「それ、本当なの?」
「さあ?まあ、どうしても会いたいんやったら、やってみたらええんちゃう?ただ、その神様っちゅうんはめっちゃ忙しいからな、めったに会われへんらしいで。でもな、悪魔やったら割とすぐ会えるらしい」
「悪魔?」
「悪魔も願いを叶えてくれるらしいで。しかしタダというわけにはいかんねんて。神様はタダで叶えてくれるけどな」
「お金がかかるの?」
「お金とちゃう。命や。願いを叶える代わりに命よこせって」
「そんなの、イヤだ!」
「まあ、一応、悪魔を呼ぶおまじないも教えといたるわ。何やっけ?ああ、『イートーマキマキ、イートーマキマキ、ヒーテヒーテトントントン』や」
「そんな呪文、いらないってば!」
◇ ◇ ◇
そんなことがあったので、あたしは次の日、散歩で会ったハナに報告した。ハナはあきれた顔をして
言った。
「そんなの、ウソに決まってるじゃない!」
でも、あたしはウソだと思えなくて、その日から毎日アブラカダブラと唱え続けた。
あたし、絶対神様に会って、人間にしてもらうんだ。そしてサトルのカイシャについて行って、近寄る女をイチモウダジン(サトルが言ってた、やっつけるっていう意味らしい)にしてやるんだ。
そうして、おまじないをしばらく続けたけれど、一向に神様は現れなかった。
あたしは犬の神様の情報をもっと集めることにした。でも、近所の犬たちは何も知らず、しかも信じるあたしのことを皆でバカにしたのでもう二度と聞くもんか、と思った。ハナはバカにはしなかったけど、全然信用してくれなかった。