1話 剣聖と悪女、999回目の敗北
夕刻のアストルシア王国。
王立訓練場は、薄暗くなりつつある陽光と、ひりつくような魔力の残滓に支配されていた。
大気を震わせるのは、爆鳴と金属音。
そして、荒い呼吸の音だけだ。
「……っ、まだ、終わってないわ……!」
私――エルレイン・ベルシュタインは、汗に濡れた髪を振り乱し、愛用の魔道杖を天に掲げた。
私の周囲で、幾重にも重なる魔法陣が展開される。
ベルシュタイン公爵家が誇る至高の魔法――その最上位、極大の氷魔法が空を埋め尽くし、絶対零度の冷気が訓練場を凍てつかせる。
対するは、ただ一振りの剣を無造作に下げた男。
大陸一の剣聖――ジーク・クロムウェル。
彼は、騎士爵という身分からその腕一本でのし上がり、国の守護神とまで称えられる男だ。
「いいね、エル。その魔力の高ぶり……最高にゾクゾクするよ」
ジークは、圧倒的な魔力を前に、余裕の笑みを浮かべた。
私の放った氷のつぶてが、猛烈な速度で彼を襲う。
だが、ジークの姿がふっと霞んだ。
「――遅いな」
「え……っ!?」
次の瞬間、背後に回られたことに気づく。
とっさに防御魔法を展開しようとしたが、それよりも早く、ジークの剣が私の杖を弾き飛ばした。
無防備になった腰に、鍛え抜かれた腕が回される。
「きゃっ……!」
重力に逆らえず、私は背中から柔らかな芝生の上へと押し倒された。
ずしりとした重みが乗る。
ジークのたくましい体が私を完全に覆い隠し、逃げ場を奪った。
「う……私の……負け、ね。……これで九百九十九回目……」
私は悔しげに唇を噛んだ。
魔道士団のエースとして、誰にも負けない努力をしてきた。
なのに、この男にだけは一度も、手合わせ中は指先ひとつ触れることさえ叶わない。
「ああ。通算九百九十九敗。……ご褒美に、いいことを教えてあげようか」
ジークの顔が、鼻先が触れ合うほどの至近距離まで降りてくる。
彼の黄金色の瞳が、逃げ場のない私の瞳を射抜いた。
「さっきの魔法、最高だった。俺の気が、君の冷たい魔力に触れて狂喜乱舞してる。……わかるか? 俺の体、今エルに触れたくて、どうしようもないくらい熱いんだ」
「……っ! 変なこと言わないで!」
私は顔を真っ赤にして彼を突き放そうとする。
だが、ジークの腕はびくともしない。
それどころか、彼は空いた手で私の耳元に触れ、熱い吐息を吹き込んだ。
「嘘じゃない。俺は君に、惚れてるんだ。……その魔力を生み出すこの震える指先も、勝気な瞳も、乱れた呼吸も……全部俺を狂わせる」
「この、女たらし……っ! 誰にでも、そんな甘い言葉を……!」
「誰にでも? 冗談だろ。俺をここまで本気にさせたのは、世界でエル、君だけだ」
ジークの低い声が、私の耳奥に響く。
彼は私の頬を愛おしげに撫で、その指先を私の唇へと滑らせた。
戦いによる高揚か、それとも彼の言葉による熱か。
私の心臓は、壊れた鐘のように激しく鳴り響いていた。
「ふ、ふざけないで……!」
手合わせを終え、乱れた衣服を整えながら歩く私の背に、容赦のないささやきが突き刺さる。
訓練場の端でこちらを見ていた令嬢たちや、ジークを崇拝する騎士たちの視線は冷ややかだ。
「……見て。悪女がまたジーク様をたぶらかしているわ」
「ベルシュタイン家の令嬢は、地位を笠に着て『剣聖』を私物化しているわ。あんな風に色目を使って、浅ましい……」
「国一番の魔道士なんて言われているけれど、本当はあの美貌でジーク様を誘惑している、物語に出てくるような『悪役令嬢』よ」
私は前を見据えたまま、歩調を緩めない。
彼と手合わせをするたび、こうして罵声が飛ぶのは日常茶飯事だ。
孤高の天才、氷の公爵令嬢。
そして剣聖、見るものを魅了する容姿をもったジークを独占する「悪女」。
それが、嫉妬とともに周囲が私に下した評価だった。
「……エル、気にするなって言っただろ」
いつの間にか隣に並んでいたジークが、私の肩を抱き寄せ、ぐいっと自分の体の方へ引き寄せた。
先ほど以上に、ジークとの距離が詰まる。
周囲の悲鳴に近い溜息が聞こえたが、彼は気にする素振りも見せない。
「気にしてないわ。……昔から、慣れているもの」
「嘘をつけ。エルは、本当は誰よりも優しくて繊細だ。そんな顔、させたくないんだがな……。いっそ、俺が全員黙らせてやろうか?」
「馬鹿なこと言わないで! 余計に私が悪女に見えるじゃない」
私が呆れたように溜め息をつくと、ジークは楽しげに目を細めた。
「いいじゃないか。俺を骨抜きにした女として、一生語り継がれるんだ。悪くないだろ?」
そう言って彼は、衆人環視の中、私の指先に情熱的なキスを落とした。
「ちょ、ちょっと! こ、こんなことやるから余計に周囲が騒ぎ立てるんでしょう……!」
「別にいいじゃん。良い男避けになる」
ジークは、悪戯っぽく微笑む。
私は顔が赤くなるのをおさえるように、歩みを早くした。
その気になれば、魔法を使って全力で拒絶できる。
しかし、私はジークを跳ねのけることはなかった。
(……人の気も知らないで……私は、あなたのことをずっと……!)
鼓動が早くなる胸をおさえながら、私は速歩きで人気がない方角へと向かう。
二人きりになった回廊。
ジークの甘い態度に、私はいつもの喧嘩の延長で応じていたが、ふと胸の奥に澱んでいた言葉が口から出る。
「……ねえ、ジーク。もう、こんな風に戦えるのも終わりかもしれないわ」
「は? ……何で?」
「王太子殿下から、婚約の打診があったの。ベルシュタインの強大な魔力を王家に繋ぎ止めたいんですって。……お父様も、婚約を了承したわ」
ジークの足が、ぴたりと止まり、沈黙が流れた。
先ほどまでの甘い空気は一瞬にして霧散し、廊下に張り詰めたような冷気が漂う。
ジークの背中から放たれる気配が、これまで私が一度も見たことがないほど、暗いものに変わっていた。
「……婚約だと……?」
「ええ。殿下の妃にという話……」
「ふざけるなっ!」
低く、怒りに震える声。
次の瞬間、私の視界が反転した。
ジークが私の手首を掴み、そのまま壁へと力任せに押し付けたのだ。
「っ……、痛い! 何するの、ジーク!」
「王太子ごときが、エルに触れる? 君を奪う? ……許せるわけがないだろう。俺が、隣に立つためにどれだけ血反吐を吐いてきたか……!」
手首にこめられる力が強まり、私は震えながらジークを見上げる。
ジークの瞳は、怒りの炎を宿し、かつてないほど悲痛に揺れ動いた。
「すべての壁を壊すためにこの地位を得た。ようやくエルと対等に話せるようになった。それなのに……!」
「離して、ジーク! どうしたの……正気に戻って!」
「ああ、正気だよ。これほどまでに頭が冴え渡っているのは初めてだ。戦場でも経験したことがないほどにね……」
ジークは私の抵抗を無視し、私の手首を強引に引っ張る。
そのまま、彼は有無を言わせない力で私を連れて歩き出した。
「どこへ行くの!? 放してってば!」
「俺の部屋だ」
「な……っ!?」
「誰にも邪魔させない。王太子だろうが、国王だろうが、エルに指一本触れさせない」
「ジーク……っ、何を言っているの……!?」
震える声で見上げると、ジークは残酷なまでに美しい微笑を浮かべた。
そこには、いつも私をからかっていたの剣聖の面影はない。
「嘘なもんか。……エル、覚悟しろよ」
強引に開かれた扉の向こう、ジークの私室へと私は連れ込まれる。
扉が閉まる音が、私の逃げ場が失われたことを告げるように響いた。
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