【プロローグ】奈落の森と、腹ペコの英雄
新作を書き始めました。
完結までお付き合いいただければ幸いです。
他の作品も含め、よろしくお願いします。
生臭い風が、鼓膜を劈くような咆哮と共に叩きつけてきた。
「ひっ……!」
冨永乃亜の喉から、悲鳴ともつかない乾いた音が漏れる。
かつて学園で『高嶺の花』と称された彼女の面影は、今はない。
手入れの行き届いていた艶やかなロングヘアは泥と土埃にまみれて頬にへばりつき、王宮で「無能」と判定された者に与えられた、サイズすら合っていない薄汚れた革の胸当てと粗末な麻布の服が、彼女の華奢な体をかろうじて覆っているだけだった。
震える両手で粗末な木の杖を握りしめながら、彼女は地面にへたり込んでいた。
無理もない。彼らの眼前にそびえ立っているのは、四つん這いの状態でも体高が二メートルを優に超える異形の獣だった。
全身を覆うのは、鋼鉄のように黒光りする体毛。
熊と猪を掛け合わせ、さらに悪魔の意匠を施したような悍ましい姿。何より恐ろしいのは、その巨体からは想像もつかない俊敏さだった。
「ふざけんな……っ! なんだよあの質量! 生物学的にあり得ないだろ!」
理系の秀才である梶原理人が、血の気の引いた顔で叫ぶ。
彼もまた、みすぼらしい防具一式を身に纏い、手には安物の薬瓶を握っているが、恐怖で指先が白く痙攣して蓋を開けることすらできていない。
「梶原くん、下がって! ……だめっ、速すぎて狙えない!」
ショートカットの髪を激しく揺らしながら、福島楓菜がギリィッと猟弓を引き絞る。
彼女の目には『鷹の目』のスキルにより、獣の筋肉の収縮が見えていた。
だからこそ、絶望していた。
自分に支給された初期装備の粗悪な木の矢など、あの異常な密度の筋肉と分厚い皮膚には弾かれて終わりだという事実が、痛いほど理解できてしまう。
ここは『奈落の森』。陽の光すら遮られる、大陸最悪の魔境。
王宮での二週間あまりにわたる冷遇の末、「不要なゴミ」として彼らが放り出された死地だった。
放たれた楓菜の矢は、予想通り虚しい音を立てて弾かれた。
だが、その一撃が獣の明確な怒りを買った。
「……っ!」
六つの赤い眼球が射手である楓菜を睨み据え、ダンプカーのような質量の獣が凄まじい速度で突進する。
避ける間などない。
「くそっ、非論理的な……! 退け、福島っ!!」
いつもは冷徹な理人が、己の身を呈して楓菜を力強く突き飛ばした。
直後、獣の巨大な前足が理人の身体を掠め、丸太で殴られたように彼の細い身体が宙を舞う。
「梶原くんっ!?」
「いや……っ、梶原くん! しっかりして!」
あまりの恐怖にへたり込んでいた乃亜だったが、獣の爪に深くえぐられ、血を流す理人の姿を見た瞬間、震える足に鞭打って駆け寄った。
傷口を必死に洗い流し、自分の服の裾を破ってきつく縛り上げる。
「……すまない、冨永。だが、逃げろ……次が、来る……っ」
獣はすでに体勢を立て直し、最も隙だらけな乃亜たちへと標的を定めて前足を高く掲げていた。
あの一撃が振り下ろされれば、人の体など容易く紙屑のように潰れるだろう。
(死ぬ)
王宮で勇者たちが口にしていた「ゲームの世界」などという甘い妄想はここにはない。
あるのは、圧倒的で理不尽な『死』という現実だけ。
乃亜が恐怖に目を閉じた、その瞬間。
「――後ろに下がってて、冨永さん!」
静かな声と共に、彼女たちの前にふらりと歩み出た影があった。
「多目くん……?」
多目蒼汰。
中学の同窓会でもずっと部屋の隅にいて、誰の記憶にも残らないような、剣道部の万年補欠の目立たない青年。
彼は、所々錆びついた薄い鉄の胸当てを軋ませながら、王宮でゴミを押し付けられるように与えられた『なまくら刀』を正眼に構え、巨大な獣を真っ向から睨みつけていた。
両膝は、恐怖でガタガタと無様に震えている。
彼の視界の端には、この世界へ転移した直後からずっと、奇妙な『文字』が浮かび続けていた。
王宮の水晶玉は、蒼汰のステータスを『エラー』と判定した。レベルも、体力(HP)も、魔力(MP)も一切表示されない。ただ一つ、視界の右下に薄ぼんやりと浮かぶゲージがあるだけだ。
『満腹度:38%』
(なんだよこれ。……ほんと、ふざけた世界だ)
強力な魔法もない。
自分は本当に、何の力も持たない『無能』なのかもしれない。
だが、それでも。
(この二週間、俺たちを散々ゴミみたいに扱って、笑って見捨てたあいつらに……理人が血を流して、冨永さんが泣いてるのに、こんな所で死んで喜ばれてたまるかよ!)
腹の底から、どす黒い怒りが湧き上がってくる。
同級生たちからの嘲笑。
乃亜たちを蔑んだ冷ややかな視線。
そして今、理不尽に命を奪い取ろうとする目の前の獣に対する強烈な殺意。
その瞬間、蒼汰の脳内に『声』が響いた。
《条件を満たしました。奥義『陽炎』が発動可能です》
《※警告:当スキルは魔力の代わりに、術者の『摂取カロリー(満腹度)』を極大消費します》
「……上等だ」
「ガアァァァッ!!」
獣が咆哮と共に突進してくる。
巨大な顎あぎとが、蒼汰の頭部を丸呑みにしようと開かれた――その刹那。
「燃えろ……ッ!!」
蒼汰が刀を振り抜く。同時に、視界の右下にある『満腹度ゲージ』が、恐ろしい速度で減少し始めた。
【満腹度:25%】
【満腹度:12%】
急激な低血糖状態に陥り、視界が明滅する。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、全身の毛細血管から熱が噴き出すような錯覚。
蒼汰の体内の『熱量カロリー』のすべてが限界まで抽出され、なまくら刀の刀身へと集束していく。
ボウッ!
黒く錆びついていた刃が、突如として太陽のように眩い赤熱の光を放った。
刀身周辺の空気が陽炎のように歪む。絶対的な超高温を帯びた一撃。
「――シィッ!」
下から上への、渾身の斬り上げ。
赤熱した刃は、鋼鉄の体毛も分厚い皮膚も一切の抵抗を許さず、熱いバターをナイフで切るように、巨大な獣の顎から脳天までを音もなく両断した。
ドズゥンッ……!!
致命の一撃を受けた獣は、左右に真っ二つに割れて地面に崩れ落ちた。
内臓が焼け焦げ、森の中に肉の焼ける匂いと白煙が立ち込める。
「嘘だろ……あんな化物を、一撃で……?」
理人たちが信じられないものを見る目で息を呑む中、蒼汰の視界では残酷な赤い警告文が点滅を繰り返していた。
【満腹度:0%】
【警告:極度のカロリー欠乏。生命維持モードへ移行します】
「……っ、あ……」
極度の飢餓感と目眩が意識を刈り取りにかかる。
全身の力が抜け、前のめりに倒れ込む蒼汰の体を、間一髪で抱きとめたのは乃亜だった。
「多目くん!」
みすぼらしい装備越しにも伝わる柔らかな感触。
泥だらけの髪が蒼汰の頬を掠め、微かにフローラルな匂いがした。
泣きそうな顔で蒼汰を覗き込む乃亜の輪郭が、ゆっくりと霞んでいく。
「しっかりして! 多目くん、多目くん!」
「おい蒼汰! 死ぬな、目を開けろ!」
仲間たちの必死な声が遠ざかっていく。
急速にブラックアウトしていく意識の中で、蒼汰はぼんやりと考えていた。
――なんで、俺たちこんなところで死にかけてるんだっけ。
ほんの二週間前までは、あんなに退屈で平和な『同窓会』にいたはずなのに。
理不尽に異世界に喚ばれ、無能と蔑まれ、王宮の連中に冷笑されながら過ごした地獄のような二週間。
その結末が、この最果ての森での餓死だなんて、笑えない冗談だ。
「お腹、すいた……。ハンバーグ食べ……」
無残な死闘の結末とは思えないその一言を残し、そのままカクンと首の力が抜け、多目蒼汰の意識は完全に途切れてしまった。
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