32.甘い香り
――朝の学院に向かう馬車。
フィルが真剣な表情でナディアに報告する。
「今日からトビアスが我々のクラスに配属されるように学院に配慮して頂けました。フレドやフリードマンの力も借りつつ、彼の監視を行おうと思います」
ナディアが頷く。
「決して油断はしないでください。彼があそこまで手の内を見せるのに裏がある可能性まで考えてください。実力勝負では出し抜かれます。決して殿下に近づかせないように」
フィルが静かに頷いた。
うーん、そこまでピリピリする相手かなぁ?
”自分はそちらよりこれだけ強いんだぞ”ってわざわざ教えてくれる親切な人だと思うんだけど。
それにも裏がある? そうすることで何か得をする事がある? それとも考え過ぎ?
……なんだかトビアスに関しては巫女の直感が巧く働かない。あの精霊眼を思い出すと、”もや”がかかったみたいに感じる。
創竜神様より古い神様を調べる事が趣味の男の子かー。仲良くなって良いのか悪いのか。
ま、なんとかなるかー!
****
――朝の礼拝堂。
私がいつものようにフィルに抱き上げられながら入ったその場所に、先客が居た。
「ああ、話に聞いていた通り、本当に抱き上げられながらやってくるんですね……恥ずかしくないんですか?」
「恥ずかしいよ?! すっごい恥ずかしいよ?! 今更そうやって確認されると再認識しちゃうから止めてくれるかなトビアス!」
――学院の制服を着たトビアス・エスターライヒ。
白竜信仰ではないと言った彼が、なんでここに居るのだろう?
私はゆっくりと祭壇前に降ろされ、いつものように祈りを捧げる。
背後から、フィルとトビアスの会話が聞こえてくる。
「なぜお前がここに居るのか、説明してもらおうか」
「噂に聞く竜の寵児の祈りを、実際に見学に来ただけです。他意はありません」
んー、やっぱりフィルはピリピリしてるみたい。
トビアスは飄々と余裕で返してる。
……あれ? なんだか甘い香りがする。なんだろう、この香り。とっても心地よい。
祈りが終わって立ち上がると、私はすぐさまフィルに抱き上げられた――まぁいつもの事だけどね。
「ねぇフィル、なんだか甘い香りがどこからかしてこない?」
「……? いいえ、特にそのような香りは感じませんが」
私たちはトビアスの横を通り過ぎて行く――ふわりと鼻を甘い香りがくすぐった。
抱きかかえ上げられた私は、フィルの腕の中からトビアスの顔を見る。
その顔は、静かに微笑んで私を見つめているようだった。
****
教室に入り、席に着く。
フリードマンさんが楽しそうにフィルに語りかけてくる。
「フレドとフィルを瞬殺した男が今日から編入してくるんだって? 是非武錬クラブに誘いたいところだな!」
「あいつは封殺して勝つスタイルだ。やりあっても面白くねー」
「そういう戦い方は珍しいという程でもない。そういった相手をかわして己のスタイルに持ち込むのも慣れておいた方がいい」
フリードマンさんは楽しそうだ。やっぱり武錬が好きなんだろうな。
フィルは難しい顔をしていた。
「……そうだな。俺たちの目の届く範囲に居てもらうなら、武錬クラブに誘うのはありだろう。その時の奴の反応は、今後の判断材料になり得る」
喜んで勧誘を受けるなら私に近づくつもりがあるし、嫌がる様なら無関係の可能性が高くなるって事かな?
トビアス、あんまり武錬を好む感じでもないしね。
「じゃあ俺たち全員で誘ってみるか――おっと、さっそく噂の人物がお出ましだ」
教室の入り口に顔を向けると、トビアスが入ってくるところだった。彼の瞳は宝石のように煌めく。遠目でも目立つ人だった。
彼は教室の後方右隅付近に座り、授業の準備を始めているようだった。
早速フリードマンさんがフィルやフレドを連れてトビアスの元に行くので、私もティナとアーネを連れて付いて行く。
フリードマンさんがにこやかにトビアスに話しかける。
「トビアス、お前強いんだって? 武錬クラブに入ってみないか? フィルとフレドを倒した腕前、俺たち武錬クラブにも見せてもらいたいんだ」
トビアスはフリードマンさんを見上げた――精霊眼では、どういった感情なのかやはり読み取れない。
「報復が目的――という訳でもなさそうですね。武錬クラブとはどういうクラブですか? 単純に武術を磨く場、という理解で合っていますか?」
フリードマンさんが大きく頷き、明るい声で応える。
「そうだ。武術を研鑽する仲間たちのクラブだ。ちなみにここに居る六人全員、つまりアデラガルト王女もそのクラブのメンバーだぞ」
トビアスの翡翠の瞳が私を見つめた。
私はぼーっとしながらその瞳を見つめ返す――やっぱりどこかからか、甘い香りが漂ってきてる。
この香りを嗅いでいるととても心地良くて、なんだかぼーっとしてしまう。
「……そうですか。彼女たちが同じクラブということなら、それほど激しい活動をしている訳でもなさそうですね。試しに入部するくらいなら構いませんよ」
試しに入部……喜んでる訳でも、嫌がってる訳でもない。どちらとも付かない態度だ。
でも私の顔を見た理由はなんだろう?
フリードマンさんが満足そうに頷いた。
「よしわかった。後で入部届を渡す。活動自体は今日から参加しても構わないから、さっそく放課後、武錬室に来てくれ」
さっきから、むせかえる程の甘い香りどこからか――トビアスから漂ってきている。彼から離れると香りが薄くなった。
でもみんなは特に何かに気づいている感じはないみたい。
「ねぇティナ、すっごい甘い香りを感じない?」
「……? いいえ? とくにこれといって何も感じませんが」
私はぼーっとしながらトビアスを見つめていた。
ティナやアーネに背中を押されながら、私は席に戻っていった。
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授業中も、教室中に甘い香りが充満していた。だんだんと香りが強くなっていく気がする。
その香りを嗅いでいるとなんだかふわふわと心地良くて、ぼーっとしてしまう。
もっとこの香りを嗅いでいたい。そんな思いを止められなくなってしまいそうだった。
でもクラスの生徒たちは、まったくこの香りに気づいた様子はないみたい。
これほど強い香りなのに、なんでだろう?
授業が終わり休憩時間になった途端、私は席から立ち上がった。
――もう我慢ができない。
ふらふらと香りの元――トビアスに近づいていく。
「殿下?!」
「殿下、なりません!」
そんな私をティナとアーネが立ち塞がって、背中で抑えた。
二人は私を彼に近づけたくないみたい。でも私はもっとこの香りを嗅いでいたかった。もっと近くで味わいたかった。
私は静かに目を開いたまま祈りを捧げる。
――創竜神様、”邪魔な”二人を跳ね除ける力をお与えください。
私はティナとアーネの肩を掴むと、ぽいっと背後に投げ捨てた。
背後で着地する音が聞こえたけど、振り向かずに真っ直ぐ進んでいく。
そうして目の前にトビアスが居た。
トビアスは眉をひそめながら私を見上げた。
「何か御用ですか? アデラガルト王女」
その声は冷たく、どこか警戒する感じだ。
やっぱり、精霊眼から感情を読み取る事はできなかった。
甘い香りはいよいよ濃くなって、頭から思考が消えて行く。
私はそのまま、トビアスの首筋に抱き着いていた。
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教室中がざわついた。
フィルと恋仲であるゲルダの奇行に、見ていた生徒たち全員が驚いていた。
様子を戸惑いながら見守っていたフィルはその瞬間に嫉妬に飲まれ、足早にゲルダに近づいていく。
そして彼女の肩を掴み、トビアスから引き剥がす――引き剥がそうとしたが、フィルの腕力でもびくともしなかった。
トビアスが困惑したようにフィルとゲルダを交互に見つめる。
「何があったんですか? 貴方たちは恋人同士なのでしょう? アデラガルト王女を止めてくださいよ」
フィルやティナやアーネがいくら引き剥がそうとしても、ゲルダの腕はピクリとも動かせない。
フィルが驚愕の声を上げる。
「まさか、加護を使って張り付いてるのか?!」
トビアスは怪訝な表情でフィルを見上げた。
「加護? なんのことです? それより、そんなに強い力で張り付いてるのですか?」
トビアスがゲルダの両腕を掴み、己の首から引き剥がした。
「なんだ、普通に外れるじゃないですか――アデラガルト王女、恋人のある身でこんな事をしてはいけませんよ」
窘めるトビアスに、ゲルダが応える。
「――ゲルダ。トビアスは私の事をそう呼んで」
フィルとティナ、アーネが戦慄していた。
フレドにすら、最初は愛称で呼ばれることを嫌がっていた。
だというのに、自ら愛称で呼べとゲルダは求めた。そんな彼女の姿を、彼らは知らない。とてもゲルダの取る行動とは思えなかった。
何か理解できない事が起こっている。それだけは彼らにも分かった。
トビアスは苦笑を浮かべながらゲルダに応える。
「ではゲルダ、こんな事をしてはいけません。貴方は王女だ。そう簡単に異性に触れるべきではない」
ゲルダは少し眉をひそめて悲し気な顔をした後、ゆっくりと頷き、そのままトビアスの隣に腰を下ろした。
「ティナ、アーネ、私これからここに座るね」
「殿下! それを許すことはできません! 元の席へお戻りください!」
アーネがゲルダを立たせる為に手を伸ばした――その手を、ゲルダは掴み、アーネを遠くに放り投げる。
「邪魔しないで。もう決めたの」
そう言うと、恍惚とした表情で何かに陶酔しているようだった。
フィルの目が険しくなり、トビアスを睨み付けた。
「トビアス、貴様何をした」
トビアスは肩をすくめて応える。
「私に分かる訳がないでしょう。これはどういう事ですか? 貴方たちは喧嘩でもしたのですか? 朝はあれ程仲睦まじかったのに、何があったのです?」
そのトビアスの表情をフィルは見定めようとした。
だが彼の表情から感情を読み取る事ができず、ただ歯噛みした。
「……ゲルダさん、貴方はこの場所から動く気が無いのですね?」
ゲルダは何も応えず、トビアスを見つめながら陶酔を続けている。
まるでトビアス以外の声が聞こえてないかのようだった。
フィルは付近の生徒たちと席を交換してもらい、ゲルダの隣に腰を下ろした。
その後昼休みになっても、ゲルダはトビアスの傍から離れようとはしなかった。
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クリスの冷たい目がゲルダに注がれている。
「――なるほど、その結果がこれなのね」
普段の昼食メンバー、そこにトビアスの姿があった。
普段と違うのは、トビアスの隣をゲルダが譲らなかったことだ。
トビアスと同じメニューを頼み、当たり前のように横に座った。
トビアスが移動すれば、それに付いて行って隣に座った。
ティナやアーネが制止しようとすると、加護を使って振りほどいた。
力でも言葉でも止められず、困惑しながらゲルダが望むようにさせるしかなかった。
トビアスもまた戸惑いながらゲルダの相手をしていた。
何かにつけてはゲルダからトビアスに触れようとするが、その都度それを窘め、それをゲルダは悲し気に受け入れた。
トビアスが食後の紅茶を一口含んだ後、小さく溜息をついた。
「――ふぅ。一体全体、何が起こってるというんですか? 先日会った時はこんな姿じゃなかったはずですが」
クリスは少し思案を巡らしてからトビアスに尋ねる。
「トビアスと言ったわね。その精霊眼の逸話に、こういった状況に似たものはないの? 突然誰かが急激に懐いてしまうような逸話、とか」
トビアスは首を横に振った。
「精霊眼の逸話はそう多くありません。このような話は私も聞いたことがありません。”これを持って生まれたものは魔導の才能に溢れる”というのが逸話の代表でしょうか。感情を読み取れない以外、無害な瞳だと言われています。バーデン公国でも精霊眼は謎に包まれた存在ですから、知られざる能力があっても不思議ではありませんけどね」
「なぜ精霊眼と呼ぶのかしら……精霊と何か関係があるの?」
トビアスが肩をすくめた。
「古き神の時代からそう呼ばれていた、という事しかわかりませんね。神話の時代から生きる赤竜でも詳細を知らなかったぐらいですから、おそらく古き神しか真実を知らないでしょう」
クリスは再び思案を素早く巡らせる。
「ねぇフィル、アデラガルト王女がこうなったのはいつから?」
仏頂面のフィルがそれに応える。
「トビアスがクラスに姿を現してからだ」
「その前後で、普段と変わった言動はしていなかった?」
フィルの仏頂面が真顔になり、真剣に今日の行動を思い返していた。
変化があったのは一限目が終わった直後。その前後となると、礼拝堂と始業前、そして授業後だ。
授業後――いや、授業中から既に様子がおかしかった。ならば礼拝堂と始業前だろう。
「……そういえば、教室でも礼拝堂でも”甘い香りがする”と言っていたな。僕らに”感じないのか”と聞いてきたが、その時は甘い香りなどなかったはずだ」
クリスが立ち上がり、トビアスに顔を近づけて手で扇いで匂いを嗅いでいく。
「……別に甘い香りなんてしないわね。でもおそらく、アデラガルト王女はトビアスからその香りを感じ続けている。その香りに惹き付けられているのよ」
ティナが困惑しながらクリスに尋ねる。
「殿下だけが感じ取れる香り、ということですか?」
クリスが頷いた。
「そういうことね。私たちとアデラガルト王女の違い――彼女が竜の寵児だ、というのが一番大きな違いね。こうなったら竜の専門家、赤竜様に直接見てもらうしかないわ。もしかしたら赤竜様も、その香りを感じ取る事ができるかもしれない。トビアスを連れて行ってみるのが良いでしょうね」
フィルが頷いた。
「分かった、学院が終わり次第――」
「温いわ。貴方たちには今が緊急事態だという認識がないの?! 今この場で悪魔崇拝者に襲われたら、対抗する手段がないのよ?! 貴方たちは今すぐ神殿に向かって。私は王宮からナディアさんを連れて神殿に向かうわ」
クリスはフィルの言葉を遮り、指を突き付けてそう言い残すと、昼食のトレイを片付けて食堂を飛び出していった。
フリードマンが呆然とその後姿を眺めている。
「――やっぱりクリスの行動力は半端ねぇな」
フィルも席から立ち上がった。
「そういうことだトビアス。悪いが午後の授業は欠席して、これから僕たちについてきてくれ」




