歩く旅人 2
やがて町も静かになった。
翌朝。
鳥の声で目を覚ました。
カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいる。
レイはしばらく天井を眺めていた。
レイは起き上がり、窓を開けた。
海が見える。
朝の海は、昨日と同じだった。
静かだった。
水平線まで、ほとんど波がない。
海の上を、一人の旅人が歩いている。
さらに遠くには、荷物を引きながら歩いている人もいる。
レイは窓を閉めた。
今日は海を歩くつもりはなかった。
せっかく島へ来たのだから、少しくらい町を見て回ろうと思った。
宿の主人に聞くと、
「この島なら市場から行くといいよ」
と言われた。
「朝なら魚が一番多い」
「市場って、どっちですか?」
「海の匂いが強い方」
レイは笑った。
あまりにも曖昧な答えだった。
けれど、この島ではそれで十分らしい。
外へ出る。
朝の町には、すでに人が多かった。
道の両側に小さな店が並んでいる。
パン屋。
果物屋。
旅人向けの道具を売る店。
島の人間しか使わないような道具を置いた店もあった。
レイは道を歩きながら、何度も立ち止まった。
知らない場所を見るのは好きだった。
市場へ着く。
そこには、たくさんの人がいた。
魚を売る声。
野菜を並べる音。
木箱を運ぶ音。
笑い声。
値段を交渉する声。
昨日まで歩いていた静かな海とは、まったく違う世界だった。
レイは魚の並ぶ店の前で立ち止まった。
「旅人さん?」
店の女性が声をかけてきた。
「はい」
「どこから来たの?」
「南の島です」
「歩いて?」
「歩いてです」
女性は当たり前のように頷いた。
「じゃあ、この島は初めてね」
「そうです」
「だったら、これ食べていきな」
小さな魚を焼いたものを渡された。
「いいんですか?」
「旅人にはサービス」
レイは礼を言い、魚を食べた。
塩の味がした。
特別な味ではない。
けれど、海を歩いてきた後だったせいか、妙においしく感じた。
「この島、何か見ておいた方がいい場所ありますか?」
レイが聞くと、女性は市場の奥を指差した。
「灯台」
「灯台?」
「それと、北側の坂」
「坂?」
「あと夕方の海岸」
女性は少し考えた。
「一週間いるなら、全部見られるよ」
レイは少し驚いた。
「一週間もいるって、どうして分かったんですか?」
「旅人はだいたい、それくらいいるから」
女性は笑った。
レイも笑った。
その日から、レイはこの島に一週間滞在することにした。
旅を急ぐ必要はなかった。
次の島は逃げない。
海も、どこかへ行くわけではない。
一日目は市場を歩いた。
二日目は町の北側へ行った。
三日目は灯台へ向かった。
灯台は島の一番高い場所にあった。
そこから見ると、島が思っていたより小さいことが分かった。
建物。
道。
市場。
宿。
そして、その周囲を囲む海。
島は、海の中に置かれた小さな石のようだった。
レイは灯台の下で、しばらく海を眺めていた。
遠くにいくつもの島が見える。
近い島。
遠い島。
さらに遠く、ほとんど見えない島。
どこかの島へ向かう旅人が、小さな点になって歩いている。
四日目には、海岸へ行った。
昼間の海岸には子どもがいた。
水面を走っている。
海の上を走ることは、子どもたちにとって遊びだった。
「もっと早く!」
「待って!」
笑い声が海の上を広がっていく。
レイは砂浜に座って、その様子を眺めていた。
自分も子どもの頃は、海の上を走った。
転びそうになったり、友達と競争したりした。
あの頃は、海がどれほど広いのか考えたこともなかった。
ただ、向こう岸まで歩ける。
それだけだった。
五日目。
レイは町の外れにある小さな喫茶店へ入った。
店には老人が一人で座っていた。
「旅人かい?」
「はい」
「どこへ行く?」
「まだ決めてません」
老人は笑った。
「それが一番いい」
「そうですか?」
「行き先を決めると、そこへ着くことばかり考えるからな」
レイはその言葉を覚えておこうと思った。
六日目。
雨が降った。
海はいつもと同じように静かだった。
雨粒だけが水面を細かく揺らしている。
レイは宿の窓から外を眺めていた。
雨の中でも、旅人が歩いている。
傘を差している人もいれば、何も持たずに歩いている人もいる。
海の上に薄い霧が出ていた。
その向こうに、誰かが歩いているように見えた。
レイは目を細めた。
人影だった。
一人。
ゆっくり歩いている。
昨日も見たような気がした。
けれど、レイは窓を閉めた。
今は追いかける気にはならなかった。
七日目。
朝から空がよく晴れていた。
レイは荷物をまとめた。
宿の主人に鍵を返す。
「もう行くの?」
「はい」
「次は?」
「東の島へ行こうと思います」
「そうか」
主人は少しだけ寂しそうに笑った。
「また来なよ」
「はい」
宿を出る。
市場へ寄った。
最初の日に魚をくれた女性が、レイを見つけた。
「あら、もう行くの?」
「はい」
「これ」
小さな包みを渡された。
中には焼いた魚とパンが入っていた。
「海の上で食べな」
「ありがとうございます」
「次はどこ?」
「東の島です」
「あそこは遠いよ」
「歩いていきます」
「知ってる」
女性は笑った。
レイも笑った。
そして町を出た。
砂浜に立つ。
目の前には海がある。
七日前と同じ海。
静かで、広くて、何もない。
レイは靴を脱ぐこともなく、そのまま水面へ足を乗せた。
一歩。
また一歩。
島が少しずつ遠ざかる。
振り返ると、町が見えた。
灯台。
市場の屋根。
宿。
そして、海岸に立つ人々。
レイは手を上げた。
向こうからも手が上がった。
やがて島は小さくなった。
レイは前を向いた。
東の島は、まだ見えない。
海だけが続いている。
昨日までなら、この何もない海を退屈だと思ったかもしれない。
けれど今は違った。
何もない場所にも、時間がある。
歩いた距離がある。
すれ違った人がいる。
島で過ごした七日間がある。
レイは歩き続けた。
昼になった。
魚を食べた。
午後になった。
雲が少し増えた。
夕方になった。
空がゆっくりと赤くなった。
そして、ようやく。
遠くの水平線に、小さな影が現れた。
次の島だった。
レイは足を止めなかった。
ただ、その島を見ながら歩き続けた。




