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歩く旅人  作者: San


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歩く旅人 1

海には、道がなかった。


 けれど、人は歩いた。


 朝の海は空とほとんど同じ色をしていた。


 薄い雲がいくつか浮かんでいて、その下には、どこまでも平らな水面が続いている。波はない。風もほとんどない。


 海面に足を置く。


 靴底が水に沈むことはない。


 ほんの少しだけ水面がへこみ、それからゆっくりと元へ戻る。


 また一歩。


 また一歩。


 そのたびに、小さな輪が足元から広がっていく。


「今日は、遠いな」


 そう言って、少年――ではなく、もう三十を越えた旅人のレイは、遠くを見た。


 島が見えていた。


 水平線の少し上に、黒い影のようなものが浮かんでいる。


 あれが今日向かう島だった。


 名前は知らない。


 昨日泊まった島の宿で、宿主に聞いた。


「次の島まで、歩いてどれくらいですか」


 宿主は少し考えてから、


「朝に出れば、夕方には見えるんじゃないか」


 と答えた。


 それだけだった。


 距離を聞いても、誰も正確には答えない。


 海には道がないからだ。


 地図にも、海の上の道は描かれていない。


 ただ島が描かれている。


 島と島の間には、何もない白い空間がある。


 人々は、その空白を歩いて渡る。


 レイは背負った鞄の紐を少し直した。


 中には着替えが二日分と、乾いたパン、水筒、それから昨日買った小さな果物が入っている。


 旅に必要なものは、それくらいだった。


 海を歩く旅人は、あまり荷物を持たない。


 重いものを持つと疲れる。


 疲れると、歩く速度が落ちる。


 それだけのことだった。


 レイは歩き続けた。


 足元には海がある。


 右を見ても海。


 左を見ても海。


 後ろを振り返っても、海の向こうに昨日までいた島が小さく見える。


 そして前には、まだ遠い島がある。


 その間には何もない。


 何もないからこそ、レイは好きだった。


 島にいると、音が多い。


 人の声。


 扉の音。


 皿が触れ合う音。


 市場では誰かが呼び声を上げ、道では子どもが走り、夜になれば店の明かりが灯る。


 それはそれで嫌いではない。


 けれど海の上には、そういうものがない。


 聞こえるのは、自分の足音だけだった。


 水面を踏む。


 ぱしゃ。


 もう一歩。


 ぱしゃ。


 その音さえ、しばらくすると聞こえなくなった。


 音が遠くへ逃げているのか。


 海が吸い込んでいるのか。


 レイには分からなかった。


 ただ、静かだった。


 あまりにも静かなので、ときどき自分が歩いていることさえ忘れそうになる。


 空を見上げる。


 雲が少し動いていた。


 海面にはその雲が映っている。


 上にも雲。


 下にも雲。


 その間を、一人の人間が歩いている。


 レイは、自分が空と海の間に挟まっているような気がした。


 しばらく歩いたところで、前から人が来た。


 旅人だった。


 白い帽子をかぶり、細長い杖を持っている。


 レイと同じように海の上を歩いている。


 二人の距離が少しずつ近づいていく。


 すれ違う直前、男が軽く帽子を上げた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 それだけだった。


 二人はすれ違った。


 男は後ろへ。


 レイは前へ。


 それぞれ違う島へ向かっている。


 レイは少しだけ振り返った。


 男はもう小さくなっていた。


 そして、その向こうには何もなかった。


 レイはまた前を向いた。


 島は、さっきより少し大きくなっている。


 それでもまだ遠い。


 歩いているのに、近づいている感じがしない。


 レイは時計を見た。


 午前十一時。


 出発してから三時間ほど経っている。


 なのに、景色がほとんど変わらない。


 空。


 海。


 遠くの島。


 それだけ。


 レイは一度立ち止まった。


 足元を見る。


 海は透明だった。


 深さは分からない。


 この世界の海は、どこまでも深い。


 けれど、人が歩く場所だけは沈まない。


 なぜそうなっているのか。


 レイは知らなかった。


 誰も知らない。


 昔からそうだった。


 だから誰も、それを考えない。


 子どもの頃、レイが一度だけ父親に聞いたことがある。


「どうして海の上を歩けるの?」


 父親は少し考えてから、


「海だからだろ」


 と言った。


 答えになっていなかった。


 けれどレイも、それ以上聞かなかった。


 今になって思えば、それがこの世界では普通だったのだ。


 レイは再び歩き始めた。


 昼を過ぎる。


 太陽が高くなる。


 海が少しだけ明るくなる。


 島の形が見えてきた。


 木がある。


 建物もある。


 海岸に白い建物がいくつか並んでいる。


 島だ。


 ようやく、島らしく見えてきた。


 レイは歩く速度を少し上げた。


 足元の海が、小さく音を立てる。


 ぱしゃ。


 ぱしゃ。


 ぱしゃ。


 島が近づいてくる。


 海岸に人影が見えた。


 誰かがこちらを見ている。


 レイは手を上げた。


 向こうの人影も手を上げた。


 それだけだった。


 島へ近づく。


 海の色が少しずつ変わっていく。


 青から緑へ。


 緑から薄い灰色へ。


 そして、海岸の砂が見えた。


 レイは水面から砂浜へ足を乗せた。


 砂が靴底の下で沈む。


 久しぶりに感じる、普通の地面だった。


 レイはしばらく動かなかった。


 振り返る。


 今歩いてきた海が、目の前に広がっている。


 道はない。


 橋もない。


 船もない。


 ただ、海がある。


 その向こうには、さっきまでいた島がある。


 レイは鞄を背負い直した。


「次は、どこへ行こうかな」


 独り言だった。


 島の町へ向かって歩き始める。


 町には小さな店があり、道の端には海産物が並べられていた。


 子どもたちは海岸で遊んでいる。


 老人がベンチに座って海を見ている。


 昨日までいた島とは、少しだけ違う。


 建物の屋根が低い。


 道が広い。


 人々の服の色も違う。


 けれど、海だけは同じだった。


 静かだった。


 レイは宿を探した。


 小さな宿を見つけ、扉を開ける。


「泊まれますか」


 受付にいた女性が顔を上げた。


「一泊?」


「はい」


「次はどこへ?」


「まだ決めてません」


 女性は少し笑った。


「旅人らしいね」


 レイは笑い返した。


「そうですか?」


「旅人はみんな、そう言うから」


 鍵を受け取る。


 部屋へ向かう前に、レイは窓の外を見た。


 海が見えた。


 夕方の光を受けて、海面が淡く光っている。


 遠くに別の島があった。


 今日歩いてきた島とは違う方向。


 まだ行ったことのない島。


 レイはその島をしばらく眺めた。


 明日、そこへ行くかもしれない。


 明後日かもしれない。


 一週間後かもしれない。


 行かないかもしれない。


 旅には、決まった終わりがなかった。


 レイは窓を閉めた。


 夜になる。


 島の明かりが一つずつ消えていく。


 やがて町は静かになった。



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