プロローグ
前世の私は、地方公務員だった。
より正確に説明するなら、人口四万八千人、名産品は梨と味噌、駅前商店街の空き店舗率は四割を超え、観光案内所のおすすめスポット第一位が「夕日がきれいな河川敷」という行政側も紹介文を書く途中で少し不安になってくる地方都市に勤務するごく普通の市役所職員だった。配属先は企画政策課、財政課、地域振興課を順番に回り、最後は都市整備課で道路補修の予算要求書と住民から届く「うちの前の側溝だけ蚊が多い」という切実なのか局所的なのか判断に困る相談を処理していた。朝は八時十五分に庁舎へ入って給湯室で薄いコーヒーを淹れ、誰が見ても今すぐ崩れそうな空き家について所有者へ通知を送り、昼には食堂の四百八十円定食を食べながら午後は会議資料の数字を一円単位で合わせるデスクワーク。夕方には上司から「この表、前年対比も入れられる?」と頼まれ、入れたら入れたで「少し情報量が多いね」と言われる安定しているのか修行しているのか分からない日々を送っていた。
華やかさはなければ刺激もない。剣も魔法も王子様も舞踏会も、世界を滅ぼす魔王もいない。いるのは年度末になると急に元気になる工事業者と、補助金の締切を過ぎてから「何とかならないの」と窓口へ来る事業者と、町内会の集会で必ず昔の用水路の話を始める長老だけだった。それでも私はその生活をかなり気に入っていた。毎月決まった日に給与が振り込まれ、夏と冬には賞与があり、休暇申請も理由欄に「私用」と書けばすんなりと通る。窓口で怒鳴られる日があっても庁舎の外へ出れば仕事は仕事として置いていける。少なくとも剣を抜いた相手から納税を迫られたり、家族全員の食費が残り銀貨三枚だったり、床板の下から借用書が束になって出てきたりはしなかった。
その意味では、前世の私は恵まれていたのだと思う。
ただし前世で最後を迎えたその死因については、正直に言うと格好よくない。
休日出勤の帰りに豪雨で冠水した市道を確認し、通行止めの看板が足りないという連絡を受けて倉庫へ取りに戻る途中で意識を失ったのだ。過労だったのか、足を滑らせたのか、誰かを助けようとしたのか、その辺りの記憶は水に濡れた回覧板くらい曖昧だった。英雄的な最期を期待されても困るんだが、少なくとも最後に見たものが女神の微笑みではなく、「災害対策本部」と印刷された蛍光色のベストだったことだけは覚えている。
目を開けると、天井に染みがあった。
転生したと理解するより先に、私はその染みの形と広がり方から雨漏りの位置を推測していた。職業病というものはどうやら魂に付着するらしい。右上の梁から水が伝いながら漆喰の内側へ回り、天井板の継ぎ目で滞留している。放置すれば腐朽が進み、数か月以内に一部が落下する可能性が高い。修繕費は材木代と職人の手間賃を含めて――そこまで考えてから、私は自分の手が妙に小さいことへ気づいた。
「……は?」
声まで高い。
布団から腕を出すと、思いがけないその“幼さ”にまず驚いた。…細くて、白い。前世でパソコンと書類箱しか持っていなかった腕よりさらに頼りなく、手の甲には小さな擦り傷があって爪の隙間には黒い汚れが詰まっていた。寝台の横には欠けた水差し、壁際には節の目立つ木箱、窓には硝子がなく、油紙のようなものが張られている。暖房器具らしきものは見当たらず、室内は春先の庁舎一階ロビーほど冷えていた。
混乱の収まらないまま上体を起こそうとした途端、頭の奥で長いあいだ固く閉ざされていた無数の扉が、何の前触れもなく一斉に開け放たれたような感覚に襲われた。そこから流れ込んできたのは私が知っているはずのない誰かの記憶だった。寝室を出て廊下を右へ曲がれば食堂があり、その先の階段を下りると商会の帳場へ続いていること。銅貨十枚で銀貨一枚になり、銀貨二十枚を積めば金貨一枚として扱われること。夜明け前から大通りを行き交う荷車が、石畳の継ぎ目を踏むたびに軋んだ音を立てること。機嫌のいい父が店の奥まで響くほど豪快に笑うこと。母が売上の合わない帳簿を確かめるとき、紙の端を指先で弾くようにめくる癖があること。まだ幼い妹が焼き上がったばかりのパンの端を先に食べたいと泣きわめき、母にたしなめられたあと、結局は父がこっそり分け与えていたこと。ひとつひとつは取るに足らない日常の断片にすぎないのに、匂いも音も、その場で抱いた感情さえ鮮明で他人の思い出として眺める余地を与えてくれない。自分で歩いて自分で聞き、自分で笑い、自分で傷ついた記憶として、胸の内側へ容赦なく押し込まれてきた。
“転生”とは何なのだろう。
前世で読んだ小説や遊んだゲームの中では、“死んだ者が別の世界で新しい身体を得る”という説明だけで話は進んでいた。主人公は自分が転生者だと理解しながらそれについて驚きつつも剣や魔法や貴族社会へ適応し、早ければ数頁後には前向きな目標まで決めていた。読む側だった頃は、それで特に疑問を抱かなかった。物語を始めるための便利な入口であり、細かく考える必要のない約束事だと思っていた。
しかしそれがいざ自分の身に起きてみると、そんな簡単な言葉で片づけられる現象ではなかった。
前世の私は確かに存在していた。役所へ通って住民からは苦情を受け、昼休みに安い定食を食べながら年度末には予算書の数字を何度も見直していた。その人生を夢だったとはどうしても思えない。今でも職場の机の配置を思い出せるし、庁舎裏の自動販売機で買っていた缶コーヒーの味まで覚えている。それなのに今目覚めたこの身体にも十二年分の過去がある。母に抱かれた記憶も父の背中へしがみついた記憶も、妹が生まれた日に家中が騒がしかったことも、店先で初めて銅貨を受け取ったときの誇らしさも、すべて作り物とは思えないほど鮮明だった。
前世の私が、この少年の中へ入り込んだのか。
この少年が熱に浮かされた末、前世の私を思い出したのか。
二人分の人生が一つに混ざったのか。
それとも今ここで考えている私は、どちらでもない“新しい何か”なのか。
答えを出そうとしても、頭の中には二種類の懐かしさが同時に存在していた。市役所の薄暗い資料庫を思い出せば胃の辺りが重くなり、父が仕入れから戻る夜の足音を思い出せば胸が安心する。どちらか一方だけを本物として選ぶことはできない。前世の自分を捨てれば、これまで積み上げた経験まで失う気がした。リアムという少年を他人扱いすれば、この家族が向けてくれた愛情を横取りするようで落ち着かなかった。
転生とは新しい人生を一冊渡されることではなく、すでに途中まで書かれている本へ別の本の内容を丸ごと綴じ込まれることなのかもしれない。頁番号は合わず登場人物も舞台も違い、どこから読み直せばよいのかも分からないままそれでも続きを書く役目だけは自分へ回ってくる。少なくとも今の私は前世の記憶を持ち、リアムの記憶を持ち、この小さな身体の痛みも空腹も自分のものとして感じている。ならば誰が誰へ転生したのかという問いより、この先をどう生きるかのほうが重要なのだろう。
そう考えたところで、流れ込む記憶の量がさらに増えた。
こういう場面を前世で読んだ小説なら、主人公は頭を抱えて悲鳴を上げ、二つの魂が重なり合う神秘的な光景を経て新たな運命を受け入れるのだと思う。現実の私は額を押さえながら寝台の端から滑り落ち、床へ膝を強く打ちつけたうえ、口から出たのは決意でも感動でもなく、「痛っ、情報量が多い!」というあまりにも情緒に欠ける叫びだった。
流れ込んできた記憶によれば、この身体の名前はリアム・オルグレン。十二歳。オルグレン商会の長男であり、いずれ家業を継ぐことを期待されている商家の跡取りだった。
オルグレン家は、ただ町に住んでいる一家ではない。店と倉庫と住居が一続きになった建物で暮らし、朝は店先の雨戸を開ける音から始まり、夜はその日の売上と在庫を帳簿へ記す音で終わる、生粋の商人一家だった。父は近隣の村や港から商品を仕入れ、母は売上、借金、支払期限、取引先ごとの掛け金まで一つ残らず管理し、祖母は長年の経験から客の懐具合を一目で見抜き、住み込みの使用人二人は荷運び、店番、倉庫整理、配達をこなしている。幼い妹でさえ店先で客へ愛想よく挨拶すれば売れ残った菓子を一つもらえると知っていた。
この家では、食卓の会話にも商売が入り込む。
今日の麦はいくらで仕入れた、北から来る塩の荷が遅れている、布商人の支払いが三日延びた、祭りの前だから蝋燭を多めに並べたほうがいい、雨が続けば乾物の値段が上がる。家族の暮らしと商会の経営は分かれておらず、店の売上が良ければ食卓へ肉が増え、仕入れに失敗すれば翌月の薪を減らす。金庫の中身がそのまま家族全員の明日の食事へつながっている。
以前のオルグレン商会は決して大店ではないものの、町ではそれなりに名の通った店だった。穀物、塩、布、油、石鹸、針、蝋燭、干し果物、陶器といった暮らしに必要な品を幅広く扱い、近隣の村から商品を持ち込む農民とも、港へ荷を運ぶ船乗りとも、長く取引を続けていた。店先にはいつも客が立ち、二つある倉庫には季節ごとの商品が積まれ、父が遠方の仕入れから戻る日は、荷車を三台並べても足りなかった。
その商会が三年前から目に見えて傾き始めている。
最初に減ったのは、店を訪れる客の数だった。以前なら朝の開店と同時に近隣の主婦や職人たちが訪れ、昼前には店内で声を張らなければ会話も聞き取りづらいほど賑わっていたものの、今では扉の鈴が半日鳴らないことさえ珍しくない。売上は年を追うごとに落ち込み、それに反比例するように仕入れ値と輸送費だけが上がり続けた。街道に盗賊が増えたことで護衛代が必要となり、荷車を一台動かすにも以前の倍近い費用がかかるようになったからだ。
かつては棚の端から端まで積み上げていた塩も今では木箱一つ分しか置かれていない。客が少量ずつ買えるよう小さな袋へ分けて売っていることになっているが、実際にはまとまった量を仕入れる資金が残っていなかった。色鮮やかな布地を何十種類も並べていた棚には灰色や茶色の実用的な生地ばかりが目立つようになり、料理用の油も香辛料も売り切れてから必要な分だけ買い足すようになった。品切れの棚を目立たせないため、母は空いた場所へ布を敷き、父は木箱を並べ直して、少しでも店が豊かに見えるよう工夫していた。それでも長く通っている客には、商会の余裕が失われていることなど隠しようがなかった。
昨年には、川沿いに持っていた古い倉庫を一つ手放した。
そこは幼い頃のリアムが積み上げられた木箱の隙間へ潜り込み、父や使用人たちを慌てさせた場所だった。干した果物の甘い匂い、麻袋へ詰められた穀物のざらついた感触、薄暗い倉庫の奥から聞こえる荷車の車輪の音まで、記憶の中には鮮明に残っている。売却が決まった日、父は家族へ向かって「ほとんど使っていない倉庫を整理しただけだ」と明るく説明した。必要のない荷物を片づけたような口ぶりだった。
引き渡しを終えた夜、父は一人きりで食卓に座り、普段は祝いの日にしか開けない酒瓶を傾けていた。灯りもつけず、空になった杯へ何度も酒を注ぎながら、窓の外を長い間見つめていた。リアムが廊下の影からその姿を覗いていることには、最後まで気づかなかった。
今年に入ると、商会の苦境は店の棚や倉庫だけでは隠せなくなった。仕入れ代金の支払いが期日に間に合わず、父は朝日が昇る前から外出し、取引先を一軒ずつ回って頭を下げるようになった。今月分を待ってもらう代わりに次回の仕入れ価格を上乗せされ、支払い期限を延ばす代わりに良い商品を優先的に回してもらえなくなる。目先の一日をしのぐほど、次の取引条件が悪くなっていった。
それでも父は家へ帰ると何事もなかったように笑った。靴の裏に泥をつけ、肩を落として店の裏口から入ってきた直後でさえ「今日はいい話ができた」と声を張り、妹を抱き上げながら母へ空腹を訴えた。その笑顔が無理に作られたものだと幼いリアムにも分かった。
母は日が暮れて店を閉めたあとも、帳場に残って帳簿を開き続けた。燭台の火が短くなり、蝋が机へ垂れても頁をめくる手を止めなかった。売上と支出の数字が合わないたびに計算をやり直し、それでも不足分が埋まらないと指先でこめかみを押さえた。ときには何も書かれていない欄を長く見つめ、そこへ存在しない収入を書き込めないものかと考えているように見えた。
祖母は若い頃から大切にしていた銀の髪飾りを、ある日を境に身につけなくなった。花の模様が彫られた細工物で、亡くなった祖父から贈られた品だと以前は嬉しそうに話していた。リアムが行方を尋ねると、祖母は「年寄りには少し派手だからね」と笑った。数日後、母の帳簿にはそれまでなかった銀貨の入金が記されていた。
住み込みの使用人たちも給金が遅れていることを一度も口にしなかった。食卓に並ぶ料理が減り、肉の入った煮込みが豆と野菜だけの薄いスープへ変わっても、「最近は腹が重くて、これくらいでちょうどいい」と冗談めかして笑った。夕食のあと厨房に残った鍋の底を水でゆすぎ、その汁まで分け合っている姿をリアムは何度か見ていた。
家の中でただ一人、妹だけは事情を理解していなかった。
昨年までは朝食に二切れ出ていたパンが一切れになり、その一切れも少しずつ薄くなっていったある朝、妹は皿に載せられたパンを両手で持ち上げて光へ透かすように眺めた。
「お母さん、パン屋さん、切るのが上手になったの?」
薄く切れるようになったことを褒めているつもりだったのだろう。
母は一瞬だけ手を止めたあと、「そうかもしれないわね」と笑った。その声は明るかったものの、パンを配る指先はわずかに震えていた。
その日の夜、リアムは自分の夕食のパンを半分だけ残した。空腹で眠れず、布団の中で何度も腹を押さえながら朝を待ち、誰より早く起きてこっそり妹の皿へ置いた。
朝食の席に着いた妹はいつもより大きく見えるパンを見つけると、目を輝かせた。
「今日はパンが大きい!」
誰が置いたのかも知らず、両手で大事そうに持ち上げ嬉しそうに笑った。
その光景を覚えているリアムの気持ちが、前世の記憶とともに胸の奥へ流れ込んできた瞬間、私はようやく理解した。
この家の窮状は、帳簿の数字だけで測れるものではない。
棚から商品が減ることでも、倉庫を失うことでも、支払いが遅れることでもない。
家族が大切にしていたものを一つずつ手放し、空腹を隠すために笑い、幼い妹に貧しさを悟らせまいと互いに嘘をつく。その積み重ねこそが、オルグレン商会が本当に追い詰められている証拠だった。
そこまで分かってしまえば、もう、この家の窮状を他人事として眺めることなどできなかった。
前世の私は地方公務員で、経営不振の事業者を数字や資料として見ることが多かった。売上減少率、廃業件数、雇用者数、融資残高。表計算ソフトへ並べれば、どれも同じ大きさの数字になる。今は、その一つひとつが父の疲れた顔であり、母の赤くなった指先であり、妹の薄いパンだった。商会が潰れるというのは看板を下ろして店を閉めるだけではない。この家族が住む場所を失い、使用人が仕事を失い、取引先への支払いが止まり、これまで築いてきた信用まで一度に崩れるということだ。
リアム本人は商家の跡取りとして本格的な勉強を始めたばかりだった。数字を扱うのは得意で、簡単な帳簿なら読める。商品の値段や重さもよく覚えている。体力は少なく、荷袋を一つ運ぶだけで息を切らし、同年代の子どもと外で遊ぶより店の隅で帳簿を眺めるほうを好んでいた。友人は決して多くはない。向かいのパン屋の娘が店先へ出る時間だけは不自然なほど頻繁に掃除を引き受けていた。
最後の情報は、今の私に必要なのだろうか。
転生時の引き継ぎ資料に家族構成、資産状況、経営危機、商品知識が含まれているのは理解できる。向かいのパン屋の娘を見ると胸が少し苦しくなる、という十二歳らしい青春事情まで丁寧に添付しなくていい。商会再建の最中に恋心の処理まで担当させるつもりなら、せめて優先順位を明記してほしいところなのだが…
頭の中へ流れ込んでいた記憶がようやく落ち着き、私は床へ座り込んだまま長く息を吐いた。
もう一度整理すると、以下のようになる。
前世の自分は死んだ。
今の自分は、リアム・オルグレンとして生きている。
しかも、再出発の舞台は裕福な貴族の屋敷でも、勇者を育てる名門家でもない。明日の支払いと来月の食費を同じ帳簿の上で心配している、没落寸前の商人一家だ。
これが転生だというなら、ずいぶん現実的な初期条件を用意されたものだ。
記憶の整理がようやく一段落したところで、部屋の扉が勢いよく開いた。
「リアム! 起きたのね!」
入ってきたのは、三十代半ばほどの女性だった。栗色の髪を後ろでまとめ、目元に疲労を浮かべ、質素な茶色の服を着ている。記憶が彼女を母、エレナ・オルグレンだと教えてくれる。
「三日も熱が下がらなかったのよ。薬師は今夜が峠だなんて言うし、お父さんは神殿へ寄付すると言い出すし、寄付するお金なんてどこにもないのに、もう、本当に……」
母は寝台へ駆け寄り、床に座り込んだ私を抱きしめた。細い腕なのに力が強い。肩へ顔を埋められながらすすり泣く声を聞いた瞬間、私は転生したという事実よりここで死にかけていた少年の人生を奪ったのではないかという罪悪感を覚えた。もっとも、リアムの記憶と感情は私の中へ自然に溶け込んでおり、母の匂いにも温もりにも懐かしさがあった。別人になったというより、長い夢から目覚めたら前世の記憶まで追加されていた、という感覚に近い。
「母さん、苦しい」
「あ、ごめんなさい!」
「あと、天井を修理したほうがいい。右側の梁から水が回ってる。放っておくと落ちる」
「目を覚まして最初に言うことがそれなの?」
「かなり深刻だよ」
「あなたが三日寝込んでいたことのほうが深刻です!」
母は泣きながら笑った。私もつられて笑いかけ、腹が鳴った。盛大だった。病み上がりの少年の腹とは思えないほど、危機感を訴える鐘のように鳴り響いた。
「お腹、空いた」
「ええ。今すぐ何か持ってくるわ。昨日焼いたパンが少し残っているから」
その言葉へ安心しかけたところで、母の表情がわずかに曇った。「少し残っている」という言い回しに、前世で予算担当をしていた私は敏感だった。行政資料における「一定の効果が見込まれる」は効果を測定できていないことを意味し、「慎重な検討が必要」は現時点で実施する気が薄いことを意味する。この家における「パンが少し残っている」は、家族全員の朝食を調整しなければ病人へ一切れ回せない、という意味かもしれない。
「母さん」
「なあに?」
「うち、どれくらいお金がないの?」
母の顔から笑みが消えた。
この質問は、病み上がりの十二歳が口にするには現実的すぎたらしい。私は元のリアムが商会の苦境をうっすら理解していたことも知っていた。父と母が夜遅くまで話し合い、使用人の給金を減らさないため自分たちの食事を削り、祖母が密かに装飾品を売ったことも、扉越しに聞いていた。
「心配しなくていいの。お父さんと母さんが何とかします」
「その答えは、何ともならないときに大人が使うやつだよ」
「病み上がりなのに、どうして急に嫌なところばかり鋭くなったのかしら」
「熱で余計な部分が焼けたのかも」
「余計な部分が残っているように見えるわ」
母は私を寝台へ戻し、毛布を掛け直してから部屋を出た。足音が遠ざかるのを待ち、私は改めて室内を見回した。家具は最低限、衣類は丁寧に繕われ、床はよく磨かれている。貧しいというより、かつて余裕があった家が少しずつ物を失っている部屋だ。最初から何もない場所より、なくなった痕跡のある場所のほうが切実さは伝わる。壁には絵が外された跡があり、木箱の上には燭台が一つしかなく、窓辺の棚には本を並べていたと思われる色褪せが残っていた。
私は毛布を鼻先まで引き上げ、その内側へ長い息を吐き出した。寝台の軋む音、天井の雨染み、窓代わりに張られた油紙の隙間から入り込む冷気、そのどれもが今の自分が夢の中ではなく、明らかに設備更新の必要な異世界の一室へ放り込まれたことを嫌というほど教えてくる。
改めて、現状を一つずつ整理してみる。
魔法は存在するらしい。貴族制度もある。生活水準は、おそらく前世でいうところの近代以前。屋根は傷み、天井からは雨が染み込み、家計には余裕がなく、食料も十分とは言いがたい。私に残されているのは、地方公務員として身につけた行政実務の知識と、商家の少年としての記憶。反対に、スマートフォンはなく、簡易的な電卓もない。検索サイトもない。地図アプリも表計算ソフトも過去の議事録を掘り返せる庁内共有フォルダも存在しない。困ったときに相談できる上司も担当部署も総合窓口もなければ、そもそも問い合わせ先を調べるための案内板すら見当たらない。
前世では窓口へ来た住民から「役所なんだから何でも知ってるんでしょ」と当然のように言われ、そのたびに笑顔を崩さず、「申し訳ありません、こちらは担当部署ではございませんので」と答えていた。今度はそのときの仕返しとばかりに、この世界そのものが巨大な相談案件となって私の目の前へ積み上げられている。しかも担当課は不明、引き継ぎ資料なし、前任者なし、期限だけはおそらく待ったなし。これを丸投げと呼ばずに何と呼べばいいのか、ぜひ前世の総務課へ問い合わせたい。
せめて、転生者らしい特典くらいは用意してほしい。
剣を握れば達人級、魔力は底なし、対象を見るだけで何もかも分かる万能鑑定、近づいた神獣が勝手に忠誠を誓う、適当に料理を作れば貴族が涙を流し、その評判だけで店が連日満員になる。そういう使い道が明快で、説明書を読まなくても効果の分かる能力が望ましい。贅沢を言うつもりはない。世界最強でなくてもいい。困ったときに光って正解を示してくれる矢印だけでも、現状よりはずっと助かる。
地方自治体での実務経験も、役に立たないわけではない。税、道路、治安、衛生、商業、人口、災害対策。町を維持するために必要な要素は一通り理解している。理解してはいるものの、異世界で道路を整備しようと考えたところで測量機器はなく、舗装材もなく、工事業者の名簿もなければ発注に使える予算もない。前世ならまず現地調査を行い、概算費用を算出し、予算要求書を作成して、財政課と協議した上で議会へ説明する。こちらではその前段階として、土地を支配する貴族の機嫌を損ねないよう頭を下げなければならない可能性が高い。
議会が存在しないなら、余計な説明が減って話は早いのではないか、と一瞬だけ考えた。けれど合議で止まる代わりに、権力者が「気に入らない」の一言で事業も予算も担当者の首もまとめて飛ばせる世界なら、手続きが少ないことを喜んではいけない。少なくとも前世の議員は、気に入らない職員をその場で地下牢へ送ったりはしなかった。たぶん。
私が、転生特典の配布漏れについてどこへ苦情を申し立てるべきか真剣に考え始めた、そのときだった。
視界の端に、薄い光をまとった文字が静かに浮かび上がった。
【対象地点の記録を閲覧しますか?】
私は瞬きをした。
文字は消えない。
右を向いてもついてくる。目を閉じても、薄暗い視界の中へ残っている。
「……来た」
思わず声が漏れた。
転生特典だ。そうそうこういうのを待っていた。登場が遅れたのはまあ許す。病み上がりの子どもを床へ転がしてから登場した件も、この際は水に流そう。
「閲覧する」
【対象を指定してください】
急に窓口対応のような返事が来た。融通の利かなさに親近感が湧く。
私は天井を見上げた。
「この家」
【対象範囲が不明確です】
「オルグレン家の建物」
【対象範囲が不明確です】
「この部屋」
【記録を表示します】
視界へ半透明の枠が広がった。
【名称:オルグレン商会居住棟・北側寝室】
【建築年:王暦四百十二年】
【増改築:王暦四百三十一年、四百四十六年】
【所有者:バルク・オルグレン】
【主用途:居住】
【現況:老朽化進行】
【推定残存耐用年数:七年】
【主要損傷:北東梁の腐朽、外壁漆喰の剥離、屋根瓦二十三枚の破損】
【推奨措置:雨水流入箇所の修繕、梁補強、屋根瓦交換】
【過去の記録を表示しますか?】
「すごい……」
建物台帳だ。
魔法と呼ぶにはあまりにも地味で、地方公務員だった私にだけは宝の山に見える能力だった。対象の土地や建物に関する記録を閲覧できる。所有者、利用状況、損傷、過去の履歴。対象範囲の指定に癖はあるものの、使いこなせば不動産調査、災害対策、資源探査、権利関係の確認に役立つ。商人としても行政担当者としても、喉から手が出るほど欲しい情報だ。
「過去の記録を表示」
【王暦四百四十八年:北東梁付近に雨染み発生。軽微のため未修繕】
【王暦四百四十九年:暴風により屋根瓦九枚破損。応急修繕】
【王暦四百五十年:屋根瓦十四枚破損。資金不足により未修繕】
【王暦四百五十一年:雨水流入範囲拡大。推定修繕費・銀貨十二枚】
銀貨十二枚がどれほどの金額なのか、リアムの記憶を探る。職人一家の一か月分の生活費に近い。この家にとっては簡単に出せる額ではない。それでも放置すれば梁ごとの交換が必要となり、費用はさらに膨らむ。公共施設の維持管理で何度も見た流れだ。小さな修繕を先送りし、数年後に大規模改修が必要となり、担当者が過去の記録をめくりながら「どうして当時直さなかったんだ」と頭を抱える。理由はいつも同じで、その年にも予算がなかったからだ。
能力の検証を続けたかったところへ、母が木皿を持って戻ってきた。薄いパンが一切れ、豆を煮たものが少し、ぬるい水。豪華さはないものの香りは良い。空腹の私は礼を言って食べ始めた。パンは硬くて豆は塩気が弱く、それでも三日ぶりの食事らしい身体には十分おいしかった。
「ゆっくり食べなさい」
「うん。ところで母さん、倉庫の帳簿を見せて」
「どうして?」
「気になるから」
「熱が下がったばかりよ」
「寝ていても商会の借金は減らない」
「誰に似たの、その言い方」
「父さんじゃない?」
「お父さんは借金が増えると、急に港の景色を眺めに行くわ」
なるほど、父には現実逃避の傾向があるらしい。
母は最初こそ渋っていたものの、私が食事を終え、立って歩けることを確認すると、午後になって商会の帳場へ連れていってくれた。居住棟から廊下を抜けた先に店舗があり、正面扉を開ければ大通りへ出られる。店内には木製の棚が並び、布、陶器、石鹸、蝋燭、香辛料、干した果物などが置かれていた。商品の種類は多く、量は少ない。棚の隙間を箱や布で隠している辺り、品揃えが豊富に見えるよう工夫しているのだろう。前世の商店街でも、閉店間際の店が似たことをしていた。
帳場には父のバルクが座っていた。四十歳前後、短く刈った黒髪、がっしりした体格、眉間に深い皺。商人というより荷運びの親方に見える。私の姿を見た途端、椅子を蹴る勢いで立ち上がり、両肩をつかんだ。
「リアム! 本当に大丈夫なのか!」
「肩が外れそうなくらい大丈夫」
「よかった! お前が死んだら商会を畳むところだった!」
「僕の命と商会の継続が同じ文章に入ってるけど、喜んでいい?」
「違う、そういう意味じゃない! 商会よりお前が大事だ!」
「今の順番なら安心した」
父は豪快に笑い、母から「病み上がりなのだから手加減して」と叱られた。家の空気は決して悪くなかった。夫婦仲も良さそうで、使用人たちも私の回復を心から喜んでくれていた。商売が傾いている原因は、家族の怠慢や浪費ではなさそうだ。
「父さん、帳簿を見せてほしい」
「帳簿?」
「商会が危ないんでしょ」
父の笑顔が固まった。母が横でため息をつく。
「エレナ、話したのか」
「この子が気づいたのよ」
「リアム、子どもが気にすることじゃない。今は身体を休めろ」
「子どもでも来年には十三歳だし、商会の跡取りなら知っておくべきだよ。それに僕が知らないまま商会が潰れたら、心の準備もできないし」
「潰さん!」
「じゃあ、どう立て直すの?」
「それは……いろいろ考えている」
「港を眺めながら?」
父はゆっくりと母へ顔を向けた。問い詰めるような視線を受けた母は、ほんの一瞬だけ気まずそうに唇を結び、そのまま店先に並ぶ布地のほうへ目を逸らした。あまりにも分かりやすい反応だったので、誰が港通いの件を私へ教えたのかわざわざ確認する必要はなかった。
帳場の奥に重たい沈黙が落ちた。
父は腕を組んだまま何度か息を吐き、私の顔と母の横顔を交互に見比べていたものの最後には抵抗を諦めたらしく、机の引き出しから一冊の帳簿を取り出した。分厚い革表紙には細かな傷が無数に走り、四隅は長年触られ続けたせいで丸く潰れている。閉じ紐にもほつれがあり、表紙を開けば黄ばんだ紙から乾いた埃と古いインクの匂いが立ち上った。
「見るなら、乱暴に扱うなよ。お前が生まれる前から使っている帳簿だ」
「それ、帳簿を買い替える余裕がないって意味?」
「物を大切にしていると言え」
「はいはい」
私は帳場の椅子へ腰を下ろし、机の上へ帳簿を広げた。
記されている数字や単位は前世のものとは違い、品名の略し方にも商人独特の癖がある。最初の数行こそ戸惑ったものの、リアムが幼い頃から父に教わってきた知識が頭の中で自然に結びつき、仕入れ、売上、貸付、利息、税額の区別はすぐについた。数字を追うにつれて、ぼんやりしていた商会の窮状が、逃げ場のない形を伴って目の前へ並び始めた。
三年前までは、売上と仕入れの差にまだ余裕があった。大きく儲かっていたわけではないものの、家族と使用人を養い、倉庫を維持し、多少の蓄えを残せる程度には商売が回っていたらしい。ところが二年前から売上が目に見えて落ち始め、昨年には減少幅がさらに広がっている。その一方で、穀物、塩、布、油といった生活必需品の仕入れ価格は軒並み上昇し、荷を運ぶための輸送費と護衛代まで増えていた。
売れる量は減っているのに、商品を店へ並べるまでの費用は上がっている。
それだけでも十分に厳しい。さらに問題なのは商会が領主へ納める税だった。売上が落ちても税額はほとんど下がっておらず、通常の商人税に加えてここ数年は城壁や街道の補修を理由とした臨時徴税まで追加されている。収入が細くなる一方で、固定された支出だけが以前と同じ重さでのしかかっていた。
帳簿の後半には、借入金の記録が増えていた。
最初は仕入れ代金を補うための少額の借金だったらしい。返済期限までに売上が戻らず、別の商人から新たに借り、その金で古い借金を返す。利息が膨らめば倉庫の在庫を本来の値段より安く売って現金へ換える。安売りをすれば手元に金は入るものの、利益はほとんど残らない。利益が残らなければ、次の仕入れ代金をまた借りることになる。
帳簿の中では、借金が借金を連れてきていた。
前世で中小事業者の経営相談資料を見たときにも、似たような数字の並びを何度か目にしたことがある。売上の減少を一時的な借入で埋め、その一時しのぎが長期化し、気づいた頃には利益の大半を利息へ持っていかれる。経営者本人は毎日必死に働いているのに、働けば働くほど資金繰りが苦しくなるかなりまずい状態だった。
「父さん」
「何だ」
「塩の仕入れ値、二年前と比べてほとんど倍になってる」
私が該当する数字を指でなぞると、父は苦々しい表情で頷いた。
「北の街道に盗賊が増えたせいだ。以前なら荷馬車だけで運べたが、今は護衛を雇わなければ街へ着く前に荷を奪われる。腕の立つ護衛ほど高いし、金を払って雇ったところで相手の数が多ければ追い払えん」
「護衛代を上乗せしても、奪われる可能性は残るわけか」
「ああ。実際、去年は塩を積んだ荷車を一台失った。品物も馬も戻ってこなかった」
帳簿の端に小さく損失の記録が残っている。塩の代金、荷馬車、馬、御者への見舞金。単なる一回の盗難ではなく商会の蓄えを大きく削る事故だった。
「穀物もかなり高いね。小麦だけじゃなくて大麦も豆も上がってる」
「去年は北部が不作だった。雨の時期がずれて収穫量が落ちたらしい」
「領主の備蓄は?」
「蔵には残っているはずだ」
「市場へ出してないの?」
「出していない。役人に聞いても緊急時に備えて保管しているとしか言わん」
「今が緊急時じゃないなら、いつ使うつもりなんだろう」
父は答えず、眉間の皺を深くした。
備蓄というものは持っているだけでは役に立たない。価格が急騰し、住民が食料を買えなくなり始めた時点で適切に放出し、市場へ流れる量を増やす必要がある。限界まで抱え込んだあと、飢えた住民が蔵を襲ってから開けるのでは遅い。前世なら担当課が需要と在庫を確認し、放出量や配布対象を決める場面だ。この町ではその判断をする者がいないのか、判断できるのに意図的に何もしていないのか、どちらにしても状況は悪かった。
「税金は下がってないよね」
「下がらん」
「売上がこれだけ落ちても?」
「商人税は店の広さと、扱っている品物の種類で決まる。儲けが多いか少ないかは関係ない」
「赤字でも同じ額を払うの?」
「そういう決まりだ」
「じゃあ、商売が苦しくなった店ほど税の割合が重くなる」
「昔からそうだ」
「昔から続いてることと、正しいことは別だよ」
父は、私が急に知らない言葉を話し始めたような顔をした。
店舗の規模を基準に税額を決める仕組みそのものには、徴収を簡単にする利点がある。商人が利益を隠しても、建物の広さや取扱品目なら役人が確認できるからだ。問題は景気が悪化しても税額が自動的に下がらないことだった。売上が半分になっても、店の床面積が半分になるわけではない。結果として余裕のある商会より、経営が傾いた商会のほうが収入に対する負担が大きくなる。
しかも支払いを待ってもらう制度も、減免を申請する仕組みも見当たらない。
「この制度、店を潰すために作ったみたいだね」
「滅多なことを言うな。役人に聞かれたら面倒だぞ」
「店が全部潰れたら、役人も税金を取れなくなるのに」
「その頃には別の町へ移っているかもしれん」
「嫌な説得力があるなあ」
私は帳簿をさらにめくり、通常の商人税とは別に記された支出の欄で指を止めた。
臨時徴税。
名目は一つではない。
城壁補修費。街道警備費。橋梁維持費。領主館改修費。王都使節歓迎費。冬季備蓄費。祭礼警備費。
どれも一度だけなら、事情によっては理解できる。城壁が壊れれば直さなければならない。街道に盗賊が出るなら警備費も必要だ。王都から使節が来れば、領主として最低限の応対費用はかかるだろう。
問題は、同じ名目が何度も並んでいることだった。
私は城壁補修費の記録を指先で叩いた。
「これ、三年連続で取られてる」
「城壁は古いからな」
「毎年かなりの額だよ。どこを直したの?」
「南門の辺りを補修したと聞いた」
「三年かけて?」
「工事が難しいのだろう」
「石を一個ずつ励ましながら積んでるのかな」
「そんな工事があるか」
次に街道警備費を見る。
「こっちは四年連続」
「ああ」
「警備費を取られ続けて、盗賊は増えてる」
「……そうだな」
「護衛の人数が増えたとか、詰所が新しくできたとかは?」
「聞いたことがない」
「お金だけ街道を巡回してるみたいだね」
父は笑わなかった。冗談として受け取るには、支払った額が大きすぎるらしい。
領主館改修費は、さらに露骨だった。一昨年に一度、昨年にも一度、今年の支出予定にも同じ名目が書かれている。私は三つの数字を見比べ、思わず首を傾げた。
「領主館、二年前にも直してるよね」
「来客用の部屋を改装したらしい」
「去年も?」
「大広間の内装を新しくしたと聞いた」
「今年は?」
「西棟の屋根を直すという話だ」
「領主館って、一年ごとに別の場所が壊れる仕組みなの?」
「古い建物だからな」
「住んでる人が室内で投石器の試射でもしてない限り、この頻度はおかしいよ」
母が堪えきれずに吹き出した。
父は咳払いを一つしてから帳簿を閉じようとしたものの、私はその手を押さえ、改めて臨時徴税の項目へ目を落とした。笑い話にできるのは領主館の屋根が本当に壊れている場合だけだ。徴収した金が工事へ使われていないなら、帳簿に並ぶ数字はオルグレン商会から失われた資金そのものだった。その金が残っていれば、塩をもう一台仕入れられたかもしれない。借金を一つ返せたかもしれない。使用人の給金を削らずに済んだかもしれない。
私は黄ばんだ紙の上に並ぶ数字を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
商会の経営が苦しい理由は、父の商才が足りないからでも家族が贅沢をしたからでもない。盗賊、不作、物価高、硬直した税制、使途の怪しい臨時徴税。それぞれの問題が別々に存在しているのではなく、互いを押し合いながら一軒の商会を確実に崖際へ追い込んでいる。
この帳簿は、単なる店の収支記録ではなかった。
町全体が、どの順番で壊れ始めているのかを記した報告書だった。
「この町、かなりまずいね」
「商売が厳しいのはどこも同じだ」
「商売だけじゃない。税の取り方、治安、物流、食料価格、全部つながってる。盗賊が増えて輸送費が上がり、商品価格が上がる。買える人が減って売上が落ちる。売上が落ちても税額は変わらない。払えない店は借金をする。借金を返すため在庫を安く売る。店が潰れれば雇われていた人が仕事を失う。仕事がなければ犯罪が増える。治安が悪くなれば、さらに商人が来なくなる」
口にしながら、自分でも嫌になるほど典型的な悪循環だった。前世で地域経済の分析資料へ何度も書いた構造が、目の前でより露骨に進行している。行政機関が機能していれば、治安対策、事業者支援、備蓄放出、徴税猶予、雇用創出を組み合わせて悪化を止める。ここでは領主が行政そのものであり、その領主が何をしているか分からない。
「リアム、お前……」
「何?」
「三日寝込んで、別人みたいになったな」
心臓が跳ねた。
父は冗談めかして笑っている。私は帳簿へ視線を落とし、なるべく平静を装った。
「熱で頭がよくなったのかも」
「それなら私も熱を出したいものだ」
「父さんは先に借金の額を直視したほうがいい」
「熱で容赦までなくなったな」
帳簿上、このまま何も変えなければ三か月以内に支払いが滞り、半年以内に倉庫か店舗を手放す可能性が高い。店を売れば一時的に借金は減る。それでも商売の基盤を失うため、再起は難しい。家族が路頭に迷う未来が、数字の並びからはっきり見えた。
「町を見たい」
「今日は寝ていろ」
「現状を確かめたい。帳簿だけじゃ分からない」
「何を確かめる?」
「店がどれくらい閉まってるか、食べ物の値段、道の状態、衛兵の配置、住んでる人の様子」
父はますます不思議そうな顔をした。十二歳の息子が熱から回復した途端、自治体監査のようなことを言い始めたのだから当然だ。母は反対したものの、父が付き添い、短時間だけという条件で外へ出ることになった。
店の扉を開ける。
石畳の大通り、二階建てや三階建ての建物、行き交う荷車、露店の呼び声。初めて目にする異世界の町へ胸が高鳴るはずだった。実際には五歩進んだ時点で排水溝の臭いに顔をしかめ、十歩進んだ時点で石畳の陥没へつまずき、十五歩進んだところで財布をすろうとした子どもの手首を父がつかんだ。
「放せよ!」
「病み上がりの息子から盗むとは感心せんな」
「何も盗ってねえ!」
痩せた少年は十歳くらいだった。服は汚れ、靴は片方しか履いていない。父が衛兵へ突き出す素振りを見せると、顔を青くして暴れた。
「待って、父さん」
「こういう連中を見逃すから治安が悪くなる」
「捕まったらどうなるの?」
「鞭打ちか、鉱山送りだろう」
「子どもでも?」
「盗みは盗みだ」
私は少年を見た。鋭い目をしている。反省より空腹が勝っている顔だ。鞭で打てば二度と盗まなくなるかもしれない。怪我で働けなくなり、生きるためにもっと危険な犯罪へ進む可能性もあるし、鉱山送りなら戻ってこない可能性が高い。
「名前は?」
「言うかよ」
「何を盗ろうとした?」
「盗ってねえ」
「じゃあ、僕の腰へ手を伸ばした理由は?」
「糸くずを取ってやろうとした」
「親切だね。うちで働かない?」
少年も父も黙った。
「リアム?」
「荷物運びとか、店の掃除とか、できるよね」
「できるけど……何でだよ」
「盗みをする暇をなくしたいから。給料は――」
「待て待て待て」
父が私の肩をつかみ、少年から少し離れた。
「うちは使用人を増やす余裕などない」
「分かってる。毎日じゃなくていい。荷が届く日だけ働いてもらう。日払いで、食事を一回つける」
「信用できん」
「盗む相手を探して通りを歩かれるより、目の届くところで働かせたほうが管理できる。倉庫の中へ一人で入れなければいい」
「子どもの発想ではないぞ」
「褒め言葉として受け取るね」
父は難しい顔をし、少年は疑うようにこちらを見ていた。最終的に明日の朝に店へ来れば荷下ろしを手伝わせる、一日働けば銅貨三枚と昼食を出す、盗みをしたら即座に衛兵へ渡す、という条件でまとまった。少年は名をニコと名乗り、「行くかどうかは俺が決める」と言い残して走り去った。たぶん来る。来なければ来ないで仕方ない。雇用政策としては小さすぎる一歩でも、目の前の一人へは意味がある。
町を進むほど、問題が積み上がった。
閉まっている店が多い。看板だけ残した空き店舗、窓板を打ちつけた工房、売り物がほとんどない露店。中央市場では小麦の価格が以前の倍、豆は一・五倍、塩は三倍。魚は港町にしては高く、鮮度も悪い。港で荷揚げ料が引き上げられ、小規模な漁師ほど市場へ持ち込めないらしい。路地へ入ればゴミが積まれ、排水溝は詰まり、井戸の周囲には泥水が溜まっている。春先でこれなら夏は臭いと虫で悲惨なことになる。感染症という概念がどの程度知られているか分からないものの、衛生状態の悪さは見れば分かる。
能力も試した。
石畳へ意識を向ける。
【名称:南中央通り】
【管理者:レグナス子爵家】
【整備年:王暦四百二十一年】
【最終補修:王暦四百四十四年】
【現況:損傷率三十八パーセント】
【主要損傷:路盤沈下、排水不良、石材欠損】
【事故記録:過去一年で荷車転倒十三件、歩行者負傷二十九件】
【徴収済み維持費:王暦四百四十七年以降、銀貨一千八百四十枚】
【実支出:銀貨二百六十枚】
私は足を止めた。
「父さん、この道の補修費って毎年取られてる?」
「ああ。商人税とは別にな」
「実際に直したのは七年前が最後?」
「よく知っているな。その頃に一度、石を並べ直した」
徴収額と支出額が合わない。残りはどこへ消えた。帳簿の誤りでなければ、流用か横領だ。能力が示す記録の根拠は分からない。土地そのものが覚えているのか、世界の管理情報へ接続しているのか。少なくとも、表示内容は現状と一致している。
井戸を見る。
【名称:南区共同井戸第三号】
【水源:地下十二・四メートル】
【水質:飲用不適】
【汚染要因:北側共同便所からの浸出】
【疾病発生との関連:高】
「うわ」
「どうした?」
「この井戸、水を飲まないほうがいい」
「なぜ分かる?」
「臭いが変だから」
嘘ではない。近づけば少し嫌な臭いがする。父は井戸の中を覗き込み、首を傾げた。周囲では住民が平然と水を汲んでいる。止めるべきか迷ったものの、十二歳の商家の子どもが突然「この水は危険です」と叫んでも信じてもらえない。井戸を封鎖する権限もない。証明する手段もない。知識があっても、立場がなければ動かせない。前世の役所では面倒に思えた権限や手続きが、今は恋しい。
大通りの北側へ近づくにつれ、建物が立派になった。石造りの商館、金細工の看板、衛兵の詰所。町の富裕層が暮らす区域らしい。道の損傷は少なく、排水溝も掃除されている。南区から歩いて十分ほどしか離れていないのに、まるで別の町のようだった。
「この辺りはきれいだね」
「領主館へ続く道だからな」
「なるほど。領主様の馬車が通る道には穴がない」
「声を落とせ」
父は肩を跳ねさせるようにして振り返り、通りの両側へ素早く目を走らせた。石造りの建物が並ぶ一角には、買い物籠を抱えた女と荷車の車輪を直している職人がいるだけで、レグナス家の紋章をつけた衛兵の姿は見当たらない。それを確認しても父の顔から緊張は消えず、むしろ声を潜めるよう促す視線がこちらへ飛んできた。
貴族への批判が危険であることくらい、私にも理解できる。この世界では領主への不満が単なる愚痴では済まず、不敬や反逆の疑いへ結びつくこともあるのだろう。まして商人は店を構える許可も荷を運ぶ権利も税額の決定も、ほとんどすべてを領主側に握られている。目をつけられれば明日から商売ができなくなる可能性さえある。
それでも徴収した道路維持費を領主館周辺の石畳ばかりへ使い、商業地区の陥没や壊れた排水溝は放置し、共同井戸の汚染にも気づかない統治を見て素晴らしい領主様ですと称賛するのは無理がある。前世なら住民監査請求が出され、議会で追及され、地元紙の一面に「道路修繕費の行方」と大きく載るところだ。三つが同時に来れば、担当課は一週間ほど電話を取るだけで日が暮れる。
「今の領主って、どんな人なの?」
私が声を落として尋ねると、父は歩調を緩めないまま答えた。
「グレゴール・レグナス子爵だ。先代が五年前に亡くなって、それからこの領地を治めている」
「評判は?」
父の足がほんの少し止まった。
「商人が口にしてよい話ではない」
「ここには誰も聞いてないよ」
「聞いている者が見えないからといって、聞かれていないとは限らん。壁にも耳がある」
私は傾きかけた外壁を見上げた。漆喰は大きく剥がれ、石の隙間から草まで生えている。
「この町の壁、修繕されてないから、耳があっても先に落ちそうだけど」
「リアム」
「はい」
名前を呼ばれただけで、これ以上は言うなという意味が十分に伝わった。
父は領主を悪く言わなかった。言えなかった、と表現するほうが正確だろう。固く結ばれた口元と何度も周囲を気にする様子が、言葉よりはっきり事情を示している。
リアムの記憶を探ると、グレゴール・レグナス子爵に関する噂はいくつも残っていた。先代の死後、商人税と通行税は相次いで引き上げられ、収穫の悪い年にも納税猶予は認められなかった。その一方で領主館には王都から高価な家具や彫像が運び込まれ、舞踏会や晩餐会の回数も増えたという。街道の修繕を訴えた商人組合は面会を断られ、盗賊被害を訴えた村からは警備費という名目で追加の銀貨を徴収されたらしい。
先代のレグナス子爵は愛想のよい人物ではなかったものの少なくとも帳簿には目を通し、商人や村長を定期的に領主館へ呼び、必要な工事や税率について話を聞いていた。息子の代になってその協議の席は消えた。代わりに増えたのは徴税官と、領主館へ品物を運び込む荷馬車だった。
評判を尋ねるまでもなかった。
町の様子そのものが、答えになっている。
そんな話をしているうちに、私たちは町の中心広場へ差しかかった。普段なら露店商の声や荷車の軋む音、買い物客の値切り声が重なっている場所なのに、その日は広場の中央だけが妙に静かだった。
艶のある黒塗りの馬車が一台、噴水の脇へ停められている。
車体には細かな銀細工が施され、扉の中央には銀色の狼と三本の麦穂を組み合わせた紋章が刻まれていた。車輪にも泥除けにも傷らしい傷はなく、手入れの行き届き方だけで町の商人が使う荷馬車とは格が違うと分かる。
馬車の周囲には揃いの濃紺の外套をまとった騎士が数名立っていた。全員が腰に剣を下げ、視線だけを忙しく動かしながら周囲を警戒している。広場にいた住民たちは自然に道を空け、露店の主人でさえ呼び込みを止め、何が起きているのか確かめようと少し離れた場所から様子をうかがっていた。
騒がしいわけではない。
むしろ誰も大声を出していないからこそ、その一角だけに張りつめた空気が集まっていた。
「どこの馬車?」
「ヴァレンティア公爵家だ」
父の声が緊張した。
「公爵家?」
「王国西部に広大な領地を持つ大貴族だ。レグナス子爵家の主家でもある」
「どうしてここに?」
「さあな。領主館へ向かう途中だろう」
馬車のそばで騎士と役人らしき男が言い争っていた。役人はレグナス家の紋章を胸につけ、盛んに頭を下げている。聞き耳を立てると領主館へ続く橋の一部が崩れ、馬車が通れないらしい。
「橋が崩れた?」
「昨日の雨かもしれん」
「修繕費は?」
「声が大きい」
公爵家の騎士が苛立った様子で地図を広げ、迂回路を尋ねている。役人は南の旧道を勧めていた。私は広場の案内板へ視線を向け、能力を使う。
【名称:旧南街道】
【現況:通行困難】
【主要損傷:斜面崩落、路肩欠損】
【馬車通行:非推奨】
【直近事故:王暦四百五十一年・荷馬車転落、死者二名】
案内する道まで危険だった。
「父さん、止めたほうがいい」
「何を」
「あの馬車。旧道は危ない」
「お前が口を出せる相手ではない」
「崖から落ちたら、口を出さなかった理由を説明できない」
私は父の返事を待たず、馬車のほうへ歩いた。父が小声で名前を呼びながら追ってくる。騎士の一人が私に気づき、鋭い目を向けた。
「止まれ。何の用だ」
「旧南街道は使わないほうがいいです」
「子ども?」
「斜面が崩れています。馬車で通ると危険です」
役人が顔をしかめた。
「何を勝手なことを言っている。崩落は昨年に修繕した」
「路肩は直していません」
「直した!」
「荷馬車が落ちて二人亡くなった場所ですよね」
役人の顔色が変わった。父は私の背後で息を呑んでいる。騎士は役人と私を交互に見た。
「事実か?」
「古い事故です。現在は問題ありません」
「確認したの?」
「報告を受けております」
「誰から?」
「それは……担当の者からだ」
「担当の名前は?」
私が質問すると、役人は口を詰まらせた。前世で聞き取り調査をした経験が役立っている。曖昧な報告へ具体的な確認を重ねると、実態を把握していない者はすぐに答えられなくなる。
馬車の扉が開いた。
広場の空気が一斉に変わった。
降りてきたのは私と同じか、一つ年上ほどの少女だった。長い銀髪を黒いリボンでまとめ、深い紫色の瞳を持ち、旅装でありながら一目で上質と分かる服を着ている。背筋はまっすぐ、表情は冷ややか。年齢に似合わない威圧感があり、周囲の騎士たちも自然に姿勢を正した。
「何を揉めていますの?」
「お嬢様、こちらの子どもが、旧南街道は危険だと申しておりまして」
騎士が説明すると、少女は私へ目を向けた。視線が鋭い。こちらの身なり、父の立ち位置、役人の反応まで一度に観察しているようだった。
「根拠は?」
声は澄んでおり、問いは短い。
「昨年、斜面崩落で荷馬車が転落しています。表面の土をどけただけで、路肩の補強はされていません。昨日の雨で地盤が緩んでいる可能性もあります」
「見たのですか?」
「記録を……」
言いかけて止まる。能力について話すわけにはいかない。
「以前、通った人から聞きました」
「誰ですの?」
この少女も具体的に聞いてくる。…役人より手強い。
「名前は言えません」
「理由は?」
「その人へ迷惑がかかるからです」
「情報の信頼性を確認できませんわね」
「それなら騎士を一人、先に行かせてください。崩れていなければ僕が嘘をついたことになります。崩れていたら馬車ごと落ちずに済みます」
少女は数秒ほど私を見つめ、騎士へ顔を向けた。
「確認を」
「承知しました」
役人が慌てた。
「お嬢様、その必要はございません! 領主館では子爵様がお待ちです。これ以上遅れますと――」
「安全確認より、子爵を待たせないことが重要だと?」
「い、いえ、そのような意味では……」
「では、確認なさい」
少女の声量は決して大きくなかった。怒鳴りつけたわけでも威圧するために言葉を重ねたわけでもない。それでもそこには反論を許さない響きがあり、役人は開きかけた口をそのまま閉じた。命令を受けた騎士二名は短く一礼すると馬首を旧南街道へ向け、石畳を強く蹴って広場から走り去っていく。
残された私たちは、その場で報告を待つことになった。
実に気まずい。
広場には荷車を引く商人も野菜を並べる露天商も、買い物籠を抱えた主婦もいたはずなのに、いつの間にか全員の意識がこちらへ集まっていた。露骨に足を止める者こそ少ないものの、品物を選ぶふりをしながら横目で様子をうかがう者、井戸端で話し込んでいた声を急に小さくする者、何が起きているのか確かめようと子どもを肩車する者までいる。公爵家の馬車を止め、領主家の役人へ異を唱えた雑貨商の息子というのは本人が望んでいなくても十分に見世物になるらしい。
隣に立つ父は顔こそ平静を装っていたものの、こめかみから流れた汗が首筋を伝い、上着の襟元へ吸い込まれていた。おそらく頭の中では息子が不敬罪で捕まった場合に誰へ頼み込むべきか、商会の借金と罰金を同時に払えるか、家へ帰ったら母へどう説明するか、その辺りを必死に計算しているに違いない。
一方の私は、十二歳の小さな身体で明らかに公爵家の令嬢と思われる少女と正面から向き合っていた。
近くで見ると少女の身なりは旅装であっても隙がない。銀色の髪は長旅を経たとは思えないほど整えられ、黒い外套の留め具には馬車と同じ銀狼の紋章が刻まれている。年齢は私より一つか二つ上に見える程度。それなのに周囲の騎士や役人が彼女の返事を待つ様子は、子どもへ接する態度ではなかった。
少女はしばらく私を観察したあと、わずかに顎を上げた。
「あなた、名前は?」
「リアム・オルグレンです」
「オルグレン……商人の家名ね?」
「はい。広場の向こう側で雑貨店を営んでいます」
私は店のある方角を指した。建物の陰に隠れて看板までは見えないものの、父も一緒にいる以上、身元を偽っているとは思われないだろう。
少女の視線が一度だけ父へ移り、すぐに私へ戻る。
「この町で暮らしているのなら、領主館へ向かう別の道も知っているでしょう」
「川沿いに荷運び用の道があります。普段は倉庫と市場を往復する荷車が使っている道です。道幅は広くありませんが、馬車一台なら通れます。領主館へは少し遠回りになりますけど、旧南街道よりは安全です」
「少し、とはどの程度?」
「通常なら半刻も余計にはかかりません。荷車が詰まっていなければ、もっと早く着けます」
少女はすぐにうなずかなかった。こちらの答えを聞きながら、頭の中で距離や時間を組み立てているように見える。
「その道は、本当に安全なの?」
当然の確認だった。
旧南街道について役人の説明が外れている以上、今度は近所の子どもの言葉だけを信じるわけにもいかない。私は川沿いの道を思い浮かべ、意識を向けた。
【名称:東河岸荷運び道】
【管理者:レグナス子爵家】
【主用途:市場・河岸倉庫間の貨物輸送】
【現況:通行可能】
【路面状態:北側良好、南側低地にぬかるみあり】
【注意事項:午前中は荷車の往来が増加】
【馬車通行:可能】
【推奨速度:南側区間のみ減速】
表示された内容を素早く読み取り、私は何食わぬ顔で答えた。
「通れます。川沿いの南側だけ地面が低くて、雨のあとにはぬかるみます。そこだけ速度を落とせば、車輪が取られることもないと思います。午前中は荷車が多いですけど、今の時間なら混雑も落ち着いています」
「……ずいぶん詳しいのね」
少女の紫色の瞳が、わずかに細められた。
道を知っているだけなら不自然ではない。ぬかるむ場所や混雑する時間帯まで即答したことで、さすがに疑問を持たれたらしい。
「店の荷物を運ぶときに使いますから。町で商売をしていれば、荷車が止まりやすい場所くらいは覚えます」
実際、元のリアムにも川沿いの道を通った記憶はある。完全な嘘ではない。能力で得た情報へ、既存の記憶を薄く重ねただけだ。
少女は私の顔をじっと見た。問い詰めるべきか考えているようだったものの、今は旧道の確認が先だと判断したのか、それ以上は追及しなかった。
それからおよそ十五分後、馬蹄の音が広場へ近づいてきた。
確認に向かった騎士二名が戻ってくる。馬の脚には泥が跳ね、片方の騎士は外套の裾を汚していた。先頭の騎士は少女の前で馬を降りると、片膝をついて頭を下げた。
「ご報告いたします。旧南街道は斜面側の路肩が大きく崩れております。人や騎馬であれば慎重に通行できますが、公爵家の馬車を通すのは不可能です。崩落部分には新しい亀裂も見られました。雨が続けば、さらに崩れる恐れがあります」
広場の空気が一段冷えた。
役人の顔から血の気が引き、口元がわずかに震える。先ほどまで赤みのあった頬は湿った粘土のような色へ変わっていた。額に浮かんだ汗を拭うことも忘れ、騎士の報告が間違いである可能性を探すように目を泳がせている。
「そう」
少女が返したのは、たった一言だった。
責め立てる声ではない。怒りを露わにした様子もない。それでもその短い返事のほうが大声で叱責されるより恐ろしかった。彼女はゆっくり役人へ視線を移し、逃げ場を与えない調子で告げる。
「旧南街道を安全だと報告した担当者の氏名、修繕費として計上された金額、実際の支出記録、工事を請け負った業者の名称、工事完了を確認した検査担当者、以上を本日中に書面へまとめて提出しなさい」
要求が具体的だった。
責任者の名前だけではない。予算、支出、受注業者、検査担当者まで一度に押さえている。誰か一人へ責任を押しつけるだけでは逃げ切れないよう、金と手続きの流れを最初から最後まで確認するつもりなのだろう。
「お、お嬢様、それは……子爵様のご許可をいただきませんと、私の一存では――」
役人は引きつった笑みを浮かべ、どうにか時間を稼ごうとした。
「必要ありません」
少女は即座に退路を断った。
「街道はレグナス子爵家だけの私道ではなく、公爵領へつながる輸送路でもあります。公爵家の馬車が虚偽の報告によって危険へ晒された以上、確認する権限はこちらにあります。ヴァレンティア公爵家の名において命じます。今日中に提出なさい」
「し、しかし――」
「聞こえませんでしたか?」
「……承知いたしました」
役人は深く頭を下げた。返事をしたというより、ようやく声を絞り出したように聞こえた。
私はそのやり取りを見ながら、思わず目を見開いていた。
年齢だけを見れば、彼女はまだ幼い。背丈も騎士の胸元へ届く程度で、舞踏会へ出れば豪華なドレスを褒められる側の少女なのだろう。それでも今ここで見せた判断は、飾り物として育てられた令嬢のものではなかった。
役人の曖昧な説明を鵜呑みにしない。
危険性を確認するため、現場へ人を送る。
虚偽が判明すれば責任者だけでなく、予算の流れと工事の実態まで調べる。
しかも相手が逃げ込もうとした「子爵の許可」という言葉を、公爵家の権限で即座に封じている。
これはもう、立派な行政監査である。
ぜひ前世の市役所へ連れていきたい。企画財政課でも監査委員事務局でも即戦力だ。少なくとも、「一度持ち帰って検討します」と言ったきり三週間返事をしなかった前世の上司より、判断も指示もはるかに速い。
「リアム・オルグレン」
「はい」
「案内を頼めるかしら」
「僕が?」
「安全な道を知っているのでしょう」
「知ってますけど、僕は病み上がりで、父から短時間だけと言われていて」
公爵家の令嬢を前に断る子どもは珍しいらしい。騎士たちが驚き、父が私の背後で小さく呻いた。少女は眉を上げた。
「報酬は払います」
「いくらですか?」
「リアム!」
父がとうとう声を上げた。
「公爵家のお嬢様に向かって、失礼だぞ!」
「商人が報酬を確認しないほうが失礼じゃない?」
「今は理屈をこねるな!」
少女の口元がわずかに動いた。笑いを堪えたように見えた。
「銀貨一枚でどう?」
高い。道案内だけなら銅貨数枚が相場だ。
「引き受けます」
「切り替えが早いわね」
「うちはお金がないので」
「リアム!」
「父さん、事実だよ」
父は頭を抱えた。
私は馬車の御者台へ乗せてもらい、川沿いの道を案内した。父も断り切れず同行する。町の中心から離れると倉庫や工房が並び、川には小型の荷船が浮かんでいた。道は能力の表示どおり通行可能で、ぬかるみを避けながら進めば問題はなかった。
馬車の窓が開き、少女がこちらへ声をかけた。
「あなた、この町をどう思う?」
唐突な質問だった。
「正直に答えていいですか?」
「許します」
「かなり危ないです」
「何が?」
「治安、衛生、物流、税制、道路、食料価格。商人が減って、仕事を失った人が増えてます。盗賊が増えたせいで仕入れ値が上がり、売上が落ちても税金は変わりません。井戸も汚れている場所があります。領主館の周りだけ道がきれいで、商業地区は穴だらけです。橋の修繕費も道の維持費も取られてるのに、実際の工事が少なすぎます」
「十二歳の子どもが口にする内容ではありませんわね」
「熱を出して三日寝たら、町の見え方が変わりました」
「便利な熱ですこと」
「代わりに死にかけました」
「便利ではありませんわね」
少女は少し考え、再び尋ねた。
「レグナス子爵が無能だと言いたいの?」
父の身体が硬くなった。
「無能かどうかは、会ったことがないので分かりません」
「慎重なのね」
「結果だけ見れば、少なくとも町を良くする仕事はできていません。本人が知らないなら報告体制が壊れています。知っていて放置しているなら、もっと悪いです」
少女は黙った。
遠慮なく言いすぎたかもしれない。公爵家はレグナス子爵家の主家だと父が話していた。身内への批判と受け取られれば危険だ。私は御者台から川面を眺め、余計なことを言った自分を反省した。
「面白いわ」
窓の向こうから、少女の声が聞こえた。
「何がですか?」
「皆、わたくしを見ると褒めるの。髪が美しい、ドレスが似合う、魔法の才能が素晴らしい、公爵家の未来は明るい。町の道路が壊れている話を始めた者は、あなたが初めてよ」
「褒めたほうがよかったですか?」
「あなたに褒められても、裏があるようにしか思えませんわ」
「会って一時間も経ってないのに評価が厳しい」
「報酬を聞いて即答したでしょう」
「商人なので」
少女は今度こそ小さく笑った。
領主館へ到着すると、豪華な門の前に大勢の使用人が並んでいた。中央には腹の出た中年の男。金糸を使った上着に指には宝石のついた指輪、笑顔が大きいところを見ると、おそらくグレゴール・レグナス子爵だろう。馬車が遅れた理由を知らないらしく、両腕を広げて歓迎している。
「ようこそお越しくださいました、セレスティアお嬢様!」
…セレスティアお嬢?
その名前が耳へ届いた瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
セレスティア・ヴァレンティア。
長いあいだ閉じられていた引き出しが乱暴に開いたかのように、聞き覚えのある音と記憶が蘇る。
月明かりを溶かしたような銀髪。見る者を値踏みするような紫の瞳。王国でも指折りの権勢を誇るヴァレンティア公爵家の一人娘。幼い頃から高度な魔法を使いこなし、いずれ王太子妃になることを当然の未来として育てられた少女。誇り高く、冷淡で、他人へ弱みを見せることを何より嫌う。
そこまで思い出して、私は御者台の上で背筋を伸ばした。
待て。
…まさかとは思うが、彼女は……
前世で地方公務員をしていた頃、繁忙期をどうにか乗り切った反動で、休日に何も考えず遊べるゲームを探していた時期があった。そこで妹から半ば強引に押しつけられたのが、王立学院を舞台にした女性向け恋愛ゲームだった。
物語の主人公は、平民でありながら稀有な光魔法の才能を認められ、貴族ばかりが集う学院へ特待生として入学した少女。身分の違いに戸惑いながらも、王太子、騎士団長の息子、天才魔術師、隣国の留学生といった、顔立ちも家柄も将来性も申し分のない青年たちと出会い、友情を育み、やがて恋へ進んでいく。舞踏会、試験、魔物討伐、秘密の温室、雨の中での告白。妹いわくどの攻略対象にも胸を締めつけるような見せ場があり、周回するたび違った魅力を楽しめる名作らしい。
私はというと、王太子が月夜の庭園で甘い台詞を口にしている最中も、画面の隅へ表示される領地収入の数字が気になって仕方がなかった。途中で解放される領地経営のミニゲームでは、農地の開墾、街道の補修、市場の誘致、治安維持への予算配分に熱中し、好感度イベントを放置して税収の推移ばかり確認していた。
「お兄ちゃん、それ恋愛ゲームだからね?」
呆れた妹から何度も念を押されたものの、限られた予算で住民満足度と収益を両立させる仕組みを用意されて、恋愛だけに集中できるはずがない。王子との逢瀬より、灌漑設備の完成によって麦の収穫量が一・三倍になるほうが、当時の私にはよほど達成感があった。
そのゲームに、セレスティア・ヴァレンティアは登場する。
王太子の正式な婚約者。
名門公爵家の令嬢。
そして、物語の進行を阻む最大の敵。
ゲームの彼女は、平民出身のヒロインが王太子へ近づくことを許さなかった。教室では身分をわきまえるよう冷たく言い放ち、舞踏会では人前で礼儀作法の未熟さを指摘し、取り巻きの令嬢たちを使って孤立させる。選択肢や攻略対象によって嫌がらせの内容は変わるものの、物語が進むにつれて行動は激しくなり、最後にはヒロインを傷つけようとした罪を大勢の前で暴かれる。
王太子から婚約破棄を告げられる場面は、ゲームの見せ場の一つだった。
誇り高い令嬢が顔色を失い、取り巻きが離れ、公爵家の威光さえ彼女を守れなくなる。国外追放、辺境の修道院への幽閉、爵位の剥奪、罪状によっては処刑。結末は攻略対象や分岐によって異なったものの、セレスティアが穏やかに笑って物語を終える未来は、私の知る限り一つも用意されていなかった。
悪役令嬢。
主人公の恋を妨げ、最後には罰を受けるために存在する女。
画面の中でそう定められていた少女が、今、私の目の前にいる。
もっとも目の前のセレスティアは、私の記憶にある悪役令嬢とは随分違って見えた。
ゲームでは、彼女の幼少期などほとんど描かれていない。どのような教育を受け、何を望み、どうして王太子へ執着するようになったのか。公爵家の娘として何を背負わされ、周囲からどのような言葉を浴びて育ったのか。そうした事情は短い説明文で済まされ、プレイヤーの前へ現れた時には、すでに高慢で冷酷な令嬢として完成していた。
こちらにいる彼女は違う。
役人が曖昧な説明で誤魔化そうとすれば、誰が確認したのかと問い返した。安全だと言い張る街道についても、身分の低い子どもの言葉だからと切り捨てず、騎士を向かわせて事実を確かめた。町の道路が崩れ、橋が放置され、徴収した修繕費の行方が分からないと知れば、面倒そうに眉をひそめるのではなく、必要な書類と責任者を即座に指定した。道案内をした私にも口約束で済ませず、約束どおり報酬を払おうとしている。
少なくとも目の前の少女は、気に入らないという理由だけで弱い者を踏みにじる人物には見えなかった。
領主館の前では、レグナス子爵が満面の笑みを浮かべて待ち構えていた。
子爵は腹回りを締めつけるほど派手な上着を着込み、胸元には金糸の刺繍を飾り、指には一目で高価と分かる宝石の指輪をいくつもはめていた。領内の商人たちが仕入れ代金にも困っている一方で、その装いには遠慮というものが見当たらない。
馬車が止まると、子爵は両手を広げ、長く離れていた親族でも迎えるような大げさな足取りで近づいた。
「ようこそお越しくださいました、セレスティアお嬢様。長旅でさぞお疲れでしょう。領主館では、腕のよい料理人に命じて、ささやかながら歓迎の宴を――」
「橋が崩れていました」
セレスティアの声は大きくなかった。
怒鳴ったわけでも、相手を責める調子でもない。
それでもその一言は子爵が並べていた歓迎の言葉を途中で切り落とし、顔に貼りついていた愛想笑いまでまとめて凍らせた。
「……は?」
「領主館へ続く橋です。橋脚の一部が崩れ、馬車では通行できませんでした。迂回路として案内された旧南街道も、路肩が崩れたまま放置されています」
「そ、それは何かの間違いでございましょう。橋も旧道も、すでに修繕を終えたとの報告を受けております」
「その報告が虚偽だったと申し上げています」
セレスティアは馬車から降りると、裾の乱れを軽く整え、子爵を真正面から見据えた。
「旧南街道は、騎士に確認させました。馬車を通せば転落していた可能性があります。修繕済みと報告した者、工事を請け負った業者、支出された費用、完成を確認した責任者について、すべて資料を提出してください」
子爵の額へ、見る間に汗が浮かんだ。
「担当者の手違いかと存じます。現場では時折、書類上の行き違いが起きるものでございまして、お嬢様が直接お気になさるほどのことでは――」
「領民から修繕費を徴収しておきながら、橋も街道も直っていないのです」
セレスティアは声を荒らげなかった。
むしろ淡々と事実だけを並べたことで、言葉の一つ一つが逃げ道を塞いでいった。
「徴収された費用が、工事へ使われていない可能性があります。その行方を気にしない領主がいるとすれば、わたくしにはそちらのほうが理解できません」
子爵は口を開いたまま、返す言葉を失った。
用意していた歓迎の挨拶も、豪華な宴も、公爵令嬢の機嫌を取るための笑顔も、崩れた橋の前では何の役にも立たない。
私は御者台へ座ったまま、セレスティアの横顔を見つめていた。
ゲームの悪役令嬢。
いずれ王太子へ異常なほど執着し、平民のヒロインを憎み、学院中を巻き込む騒動を起こし、最後には家名も地位も未来も失う少女。
本当に、この子がそうなるのか。
役人の嘘を見過ごさず、領民から集めた金の行方を問い、身分の低い私の話にも耳を傾けた少女が、数年後には理由もなく他者を傷つける人物へ変わるのか。
そこまで変わるとすれば、何が起きる。
王太子との婚約が原因なのか。
公爵家の中で、彼女の立場を揺るがす事件が起きるのか。
家族を失うのか。
信頼していた誰かに裏切られるのか。
周囲から完璧であることを求められ続け、失敗も弱音も許されないまま、少しずつ追い詰められていくのか。
ゲーム本編が始まるまで、まだ数年ある。
その空白の期間に何があったのか、私は何も知らない。
ゲーム内で語られるのは、ヒロインと攻略対象たちの心情が中心だった。セレスティアが誰を信じ、何を恐れ、どのような期待を背負わされていたのかは、ほとんど描かれない。彼女の事情は物語を進めるうえで必要な範囲にだけ切り取られ、最後には主人公たちが乗り越えるべき障害として処理される。
画面越しに見ていた頃は、それで疑問を持たなかった。
悪役が悪事を働き、主人公がそれを打ち破る。
恋愛ゲームの筋書きとしては分かりやすい。
けれどこうして同じ場所に立ち、まだ何者にもなりきっていない少女の姿を見てしまうと、その分かりやすさをそのまま信じる気にはなれなかった。
もう一つ、思い出したことがある。
ゲームの中盤、王国西部で大規模な反乱が起きる。重税、飢饉、疫病、盗賊被害が重なり、複数の領地が崩壊する事件。王太子やヒロインが救援へ向かい、民衆を助け、名声を高める重要なシナリオだった。
その舞台の一つが、レグナス領。
今、私が暮らしている町だ。
反乱発生まで正確に何年あるか思い出せない。三年か、四年か。少なくとも遠い未来ではない。ゲームでは、反乱以前の町の状況など数行で説明されるだけだった。「領主の圧政に苦しむ民」「荒廃した街道」「飢えた住民」。画面上なら背景と文章で終わる。ここでは、薄いパンを家族で分け、盗みを働く子どもが鞭打ちを恐れ、汚れた井戸から水を汲み、商人が借金を重ねている。
その中に、私の家族もいる。
オルグレン商会がゲームに登場した記憶はない。主要人物ではない。名前も知られていない。反乱が起きれば、店を失うのかもしれない。家族の誰かが死ぬのかもしれない。背景の一部として処理されるのかもしれない。
冗談ではない。
私は前世で、安定した暮らしを好んでいた。革命を起こしたいわけでも、王国を救いたいわけでも、悪役令嬢と恋愛したいわけでもない。毎日食事ができ、雨漏りを直せて、家族が借金取りに追われず、夜道を歩いても刺されない生活が欲しい。それだけで十分だ。
ところが、その「それだけ」を手に入れるには、この町をどうにかする必要がある。
治安を立て直す。
物流を戻す。
食料価格を安定させる。
税制を改める。
井戸を整備する。
道路と橋を直す。
商会を再建する。
領主の不正を暴く。
こうして解決すべき問題を頭の中で順番に並べてみると、考えれば考えるほど額の奥が重くなってきた。数年後には領民の不満が爆発して反乱まで起きる予定なのだから、どれか一つを片づければ済む話ではない。
前世の市役所で同じ規模の問題が発生したなら、まず危機管理課が治安と災害対応を担当し、産業振興課が商店や雇用の支援策を考えなければならない。農政課が食料供給を調べつつ土木課が道路と橋を点検し、環境衛生課が井戸の水質を検査する必要があるだろう。その結果を企画政策課が取りまとめ、財政課が予算の不足に頭を抱えながら課長級を集めた庁内連絡会議を何度も開き、分厚い五か年計画へ落とし込んだあと議会へきちんと説明しなければならない。地元住民向けの説明会を開催して最後には「計画を立てる前に穴の空いた道を直せ」と怒鳴られながら、ようやく最初の工事へ取りかかるような案件なのである。
それほどの仕事を、今の私は十二歳の商人の息子として始めなければならない。
手元の資金は、これから受け取る予定の銀貨一枚。
自由に使える執務室はなく、あるのは雨漏りする自室と借金の帳簿が積み上がった商会の帳場だけ。指示を出せる職員も工事を命じる権限も、税を軽減する資格もない。領主へ意見書を提出したところで、十二歳の子どもが書いた紙など読まれる前に暖炉の焚きつけにされる可能性のほうが高い。
使えそうなものを無理に数えるなら、土地や建物に刻まれた記録を閲覧できる正体不明の能力、地方行政の現場で身につけた知識、半年後まで存続できるかも怪しい家業、そして将来は悪役令嬢として断罪され、処刑される予定の公爵令嬢と偶然知り合ったという幸運なのか災難なのか判断しにくい縁くらいだった。
条件を一つずつ確認するほどこの世界の難易度を決めた担当者を窓口へ呼び出し、設定の根拠と改善予定を文書で回答させたくなる。
「リアム・オルグレン」
名前を呼ばれ、私は思考を中断して顔を上げた。
領主館の正面階段、その中ほどにセレスティアが立っていた。グレゴール・レグナス子爵との話は終わったらしく、先ほどまで彼女の前で愛想笑いを浮かべていた子爵は、数歩後ろで額の汗を布に染み込ませている。橋の崩落や虚偽の修繕報告について、かなり厳しく問い詰められたらしい。
道案内の報酬など、従者が持ってくるものだと思っていた。
公爵令嬢が町の商人の息子へ直接金を渡す理由はない。騎士か侍女が銀貨一枚を盆へ載せ、丁寧な口調で「お嬢様からです」と伝えればそれで済む話である。
ところがセレスティアは階段を一段ずつ降り、私の前まで来ると紫色の紐で口を縛った小さな革袋を自ら差し出した。
「案内の報酬よ」
「ありがとうございます」
両手で受け取った瞬間、予想よりも明らかに重いことへ気づいた。革袋の中で硬いものが触れ合い、かすかな金属音が鳴る。
紐を緩めて中を確かめると、銀貨が三枚入っていた。
「多いです」
思わず、そのまま口へ出していた。
道案内の報酬として約束していたのは銀貨一枚だ。残る二枚について、こちらから要求した覚えはない。
「旧南街道の危険を知らせた分と、正しい迂回路を案内した分を加えました」
「返しませんよ?」
「誰も返せとは言っていないでしょう」
「あとになって、公爵家から依頼された仕事を三回は無償で引き受けろ、と言われたりしませんか?」
「あなた、公爵家を何だと思っていますの」
「高額な報酬には条件が隠れているものだと、商人の家では教わっています」
「危険を知らせてくれた相手へ正当な対価を払っただけです」
「正当な対価かどうかを決めるのは、たいてい払う側なので不安になります」
「商人として用心深いと褒めるべきか、貴族に対する礼儀を知らないと叱るべきか、本気で迷いますわね」
セレスティアは呆れたように目を細めたものの、怒ってはいないようだった。むしろ、わずかに口元が緩んでいる。
彼女は私から視線を外し、背後にそびえる領主館を見上げた。白い石造りの壁には金色の装飾が施され、正面玄関の左右には、この町の商店を何軒も建てられそうなほど大きな彫像が並んでいる。町の南側では屋根瓦を直せない家が増えているというのに、ここだけは石の表面まで磨かれていた。
「わたくしは、これから一か月ほどレグナス領に滞在します」
「一か月も?」
「本来は社交と魔法訓練を兼ねた短い訪問の予定でした。けれど橋が崩れ、街道の修繕報告が偽られ、町の状況まであれほど悪いとなれば予定どおり帰るわけにはいきません」
子爵のほうから、聞こえるか聞こえないかという大きさのうめき声が漏れた。
滞在期間が延びたことで、困る事情があるらしい。
「そこで、明日も町を案内なさい」
「また僕が案内するんですか?」
「あなたはこの町に住み、店の状況や物価を知り、道路の損傷にも妙に詳しいでしょう。子爵家の役人から聞かされる、都合よく飾られた説明よりは役に立ちそうです」
「その評価はうれしいですけど、僕は一応、病み上がりです」
「午前中だけにします」
「報酬は?」
「最初に確認するのがそこなのね」
「商人ですから」
「まだ跡取り見習いでしょう」
「見習いでも、無料で働けば家計は助かりません」
セレスティアは小さく息を吐き、指を一本立てた。
「一日につき銀貨半枚。昼食はこちらで用意します。案内だけではなく、町で気づいた問題も説明すること。それでどう?」
「引き受けます」
「本当に決断が早いわね」
「条件が良いので」
「病み上がりではなかったの?」
「銀貨半枚分くらいは回復しました」
「体調を貨幣で換算しないでちょうだい」
背後に立っていた父が、とうとう耐えきれなくなったらしい。私の肩を押し下げるようにして一緒に頭を下げ、「身に余る光栄でございます」「息子には失礼のないよう厳しく申しつけます」と何度も繰り返している。
失礼なら、すでにかなり積み重ねた気がする。
私は革袋の口を閉じ、掌の中にある重みを確かめた。
銀貨三枚。
今のオルグレン商会にとっては、わずかな臨時収入で片づけられない金額だ。家族全員の食費をしばらく賄える。屋根瓦を何枚か交換できる。仕入れ代金の一部へ回せば、取引先への支払いを数日延ばさずに済むかもしれない。
それほど切実な金を渡してきた相手が、ゲームの中では悪役として断罪される少女だった。
これが物語に定められた運命の出会いなのか、それとも単に待遇の良い短期雇用へありついただけなのか、今の私にはまだ判断できない。
セレスティア・ヴァレンティア。
ヴァレンティア公爵家の令嬢であり、いずれ王太子の婚約者となる少女。
数年後、王立学院へ入学した彼女は、平民出身のヒロインを敵視し、数々の嫌がらせを行ったとして糾弾される。婚約は公衆の面前で破棄され、築き上げた地位も名誉も失い、選ばれる物語の道筋によっては国外へ追放され、幽閉され、最後には処刑される。
目の前にいる彼女は、その結末を知らない。
橋の修繕費が正しく使われているかを気にかけ、役人の曖昧な説明を許さず、道案内をした商人の子どもへ約束以上の報酬を支払った少女が、数年後には誰からも救われない悪役になる。
私もまた、自分がその未来へどこまで関わることになるのか知らなかった。
彼女の破滅を止めるのか。
領地の改革に協力してもらうのか。
商会の取引相手になってもらうのか。
余計なことへ首を突っ込まず、銀貨だけ受け取って距離を置くのか。
選択肢は多いものの、この時点で確実に分かっている事実はわずか三つしかなかった。
オルグレン商会はこのままなら半年も経たずに支払いが立ち行かなくなり、店舗か倉庫を手放すことになる。
レグナス領では数年以内に重税と飢饉と疫病が引き金となり、大規模な反乱が発生する。
将来の悪役令嬢は宝石や舞踏会よりも、町の壊れた道路と不自然な会計帳簿へ関心を示している。
恋愛ゲームの出会いとして考えるなら、驚くほど華がない。
王子が白馬に乗って現れるわけでもなく、ぶつかった拍子に抱き止められるわけでもない。最初に交わしたまともな会話は、崩れた街道の路肩についてだった。続いて話した内容は町の治安と税金で、別れ際には日当と昼食の有無を確認している。
これで恋愛が始まると言われても、税務調査から婚約へ発展するくらい想像しにくい。
領地再建の始まりとして見ても、状況は決して明るくなかった。
資金は足りない。
人手も足りない。
時間も足りない。
何より、私には町の制度を変更する権限がない。商人税の額を下げることも衛兵を増やすことも、汚染された井戸を使用禁止にすることもできない。勝手に道路を掘り返せば、善意であっても逮捕される可能性がある。
それでも問題の所在が見えている以上、何も知らなかった頃へ戻ることはできなかった。
前世の市役所でも予算が不足している、担当職員が足りない、年度末まで時間がないと文句を言いながら台風が近づけば体育館へ毛布と非常食を運び、土砂崩れが起きれば業者と警察へ連絡し、避難所から住民票が必要だと言われれば臨時窓口を開いた。最初から必要な条件がすべて揃っていた仕事など、一度もなかった。
足りないものを数えて立ち止まるより、今あるものを確認する。
優先順位を決める。
今日中に防げる損失を防ぎ、明日へ回せる問題を明日へ回し、少しずつでも選択肢を増やしていく。
前世で私が身につけたのは華々しい改革の方法ではない。限られた金と人員の中で目の前の暮らしを壊さないための、地味で現実的な手順だった。
その知識がこの世界でも役に立つのかは分からない。
役に立たせなければ、家族ごと破産するだけだ。
まずは銀貨三枚の使い道を決める。
次に商会の資金繰りを立て直し、少なくとも半年後まで店を残す。
余裕ができたら盗賊被害を減らす方法を探し、汚染された井戸の使用を止め、穴だらけの道路を補修し、どこかへ消えている税金の行方を調べる。
処刑される予定の悪役令嬢については、そのあと考える。
王国の未来に関わる問題を後回しにしてよいのか、順番として正しい自信はない。
それでも、家へ帰ったら最初に直すべきものは自室の天井だった。
どれほど壮大な使命を背負い王国の破滅を回避する計画を立てたところで、眠っている最中に腐った梁が落ちてきて頭を直撃すれば私の異世界生活は反乱より先に終了する。
世界を救う前に雨漏りを止める。
領地を立て直す前に家を潰さない。
公爵令嬢の未来を変える前に、明日の朝食を確保する。
現実的な優先順位とは、たいてい物語としての格好よさを考慮してくれない。
私は銀貨の入った革袋を上着の内側へ大切にしまい、何度も頭を下げ続けていた父の袖を引いた。
「父さん、帰ろう」
「あ、ああ。しかし本当に、明日もお嬢様をご案内するのか?」
「銀貨半枚と昼食付きだよ」
「金額の問題ではない」
「うちの場合は、かなり金額の問題だと思う」
父は何か言い返そうとして口を開き、結局そのまま閉じた。家計の状況を思い出したらしい。
私たちは並んで領主館の門をくぐり、磨き上げられた石畳から穴と泥の目立つ町の道へ戻った。
こうして元地方公務員による異世界の領地改革は、銀貨三枚と雨漏りの修繕から始まることになった。
勇ましく「始まった」と言い切るよりも、避ける余地も準備する時間もないままとうとう始まってしまったと表現するほうが、このときの私の気持ちにはずっと近かった。




