最終章:幽霊船(ファントム・ボート)の誓い――時空を貫く群狼
彼らがどこへ向かったのか、それは誰も知らない。
ただ、歴史が歪み、悲劇が繰り返されようとする時。
時空の狭間から、無音で忍び寄る「青き光を放つ狼」の姿を見たという伝説が、未来永劫、語り継がれることになるのだ。
【しおの】
南緯70度、東経10度。ノイシュヴァーベンラントの地下深く、数千万年の間、何者も足を踏み入れたことのない絶対の聖域。
巨大な氷のドームに覆われた青き地底湖に、爆雷でひしゃげ、満身創痍となった灰色の狼――U-47が静かに浮かんでいた。
氷点下の冷気が、ディーゼル油と汗、そして死の淵から生還した男たちの熱気を帯びた吐息を白く染め上げる。彼らは甲板にへたり込み、あるいは司令塔の手すりにもたれかかりながら、ただ呆然と、頭上に広がる発光する氷の天井を見上げていた。
数分前まで北大西洋の深度180メートルで圧壊の恐怖に直面していた事実が、まるで遠い昔の幻のように感じられる。
だが、ひしゃげた耐圧殻の軋みと、足元に溜まった海水の冷たさが、これが現実であることを容赦なく突きつけていた。
その時だった。
地底湖の静寂を破り、空間そのものが「裂ける」ような、低く澄んだ共鳴音が響き渡った。
氷底湖の空中の座標が歪み、幾何学的な青い量子光が渦を巻く。その特異点の中心から、音もなく滑り出してきたのは、流線型の黒い機体――23世紀の時空物理学研究所が送り込んだ、ステルス型の次元潜行艇だった。
「……見ろ」
ハンスが震える指で空を指差す。ミュラー兵曹長も、エンゲル副長も、そしてギュンター・プリーン艦長も、言葉を失ってその光景を見つめた。
機体が空中で静止し、下部のハッチがスライドする。
そこから、反重力リフトに乗ってゆっくりと氷の岸辺へと降り立ったのは、数名の未来の防護服に身を包んだ技術支援部隊。
そしてその先頭に立つのは、ダボダボのドイツ海軍Uボート・レザージャケットを身に纏い、胸に真鍮の『Uボート戦闘章』を輝かせた一人の少女だった。
「ひかり……」
プリーンは、乾いた唇を動かした。
ひかりは、凍てつく氷の岸辺に降り立つと、一歩、また一歩と、U-47の係留されている方向へと歩みを進めた。
その目には、大粒の涙が溢れ、零れ落ちては氷の床で砕け散っている。
プリーンは、海水を滴らせながらタラップを下り、氷の大地へと降り立った。
二人の距離が縮まっていく。
言葉は、要らなかった。
「ありがとう」も、「よく生きていてくれた」も、この極限の状況下ではあまりに薄っぺらい。
ひかりは、ただプリーンの前に立ち止まり、その血と油にまみれた屈強な胸に飛び込んだ。プリーンは、凍えるような冷たさを持つ彼女の背中を、大きな両手で強く、力強く抱きしめた。
「……遅刻だぞ、魔女め」
プリーンの低く掠れた声が、ひかりの耳元で響く。
「……ごめんなさい、カレウン。……水圧の計算に、少し手間取って」
ひかりは、プリーンの胸に顔を埋めたまま、子供のように声を上げて泣き崩れた。
それは、数万回のシミュレーションという地獄を抜け、愛する者たちを歴史の死から引きずり出した、絶望と安堵の涙だった。
甲板からその様子を見下ろしていた乗組員たちの目からも、止めどない涙が溢れていた。
ハンスは顔を両手で覆って嗚咽を漏らし、歴戦のミュラー兵曹長でさえ、皺くちゃな顔をさらに歪ませて、黙って目頭を拭っていた。
誰も、何も語らない。ただ、生きて再び相見えたこと。人間と人間として、魂の奥底で通じ合ったこと。無駄な会話は一切なく、氷の聖域には、ただ男たちの静かな嗚咽と、少女の泣き声だけが響いていた。
■ 歴史の真実と、騎士たちの誓い
数時間後。
時空支援部隊が設営した保温ドームの中で、U-47の乗組員全員に温かいスープと、未来の医療技術による完璧な治療が施された。傷ついた肉体は癒え、彼らの顔には生気が戻っていた。
全員が集められたドームの中心で、ひかりは真っ直ぐに彼らを見据えて口を開いた。
彼女の声は、先ほどの涙を拭い去り、未来の時空物理学者としての、そして彼らの「同志」としての毅然とした響きを持っていた。
「皆さんに、伝えなければならない残酷な事実があります」
ひかりの言葉に、50人の男たちは水を打ったように静まり返る。
「1941年3月7日。正史において、U-47は駆逐艦ウォルヴァリンの爆雷攻撃により撃沈されました。……今、この瞬間、歴史上のあなたたちは『戦死』したことになっています。ドイツ本国では、数日後にあなたたちの喪が持たれ、英雄としての最期が報じられるでしょう」
ハンスが息を呑む音が聞こえた。
故郷で帰りを待つマリア。年老いた両親。彼らの顔が、若き水兵の脳裏をよぎったはずだ。
「あなたたちを元の時代、元の場所へ帰すことはできません。もし生還したあなたたちが再び歴史の表舞台に立てば、時空連続体は矛盾に耐えきれず、世界そのものが崩壊します。……私は、あなたたちの『命』を救う代償として、あなたたちから『人生』を奪ってしまった」
ひかりは深く頭を下げた。震える拳から、血が滲むほどに爪を立てて。
「……ごめんなさい。身勝手な私のエゴで、あなたたちを帰る場所のない幽霊にしてしまって……」
「顔を上げろ、ひかり」
静寂を破ったのは、プリーン艦長だった。
彼は立ち上がり、ゆっくりとひかりの前に歩み寄った。
「俺たちは、誇り高き潜水艦乗り(U-Boot-Fahrer)だ。志願してこの鉄の棺桶に乗った日から、命も人生も、とっくに海に捧げている」
プリーンは、部下たちを振り返った。
「なあ、お前たち。俺たちは連合国の船団を沈めるために戦ってきたんじゃない。隣にいる仲間を死なせないために、祖国の未来を守るために戦ってきたはずだ」
「カレウンの言う通りです」
エンゲル副長が、静かに立ち上がった。
「我々は一度死んだ身。その命を拾ってくれたこの少女に、文句を言うような野暮なドイツ海軍軍人は、ここには一人もおりません」
「そうだ!」ミュラー兵曹長が太い声を上げた。
「俺の磨いた魚雷が、歴史の表舞台じゃなくても役に立つなら、どこへだって行ってやるさ。イギリス海峡だろうが、時空の果てだろうがな!」
「俺も……行きます」
ハンスが、涙を拭いながら立ち上がった。その顔には、もう少年の面影はない。一人前の海の男の顔だった。
「マリアには……空の星から見守っていると、そう心の中で伝えます。だから、俺も連れて行ってください。俺たちの艦長と、ひかりの行く場所へ!」
次々と立ち上がる乗組員たち。50人の男たちが、誰一人として運命を呪うことなく、新しい己の使命を受け入れたのだ。
騎士道――それは、絶望的な状況下であっても、忠義と誇りを失わない高潔な精神。彼らは、ナチスという狂気のイデオロギーから解放され、真の意味で「自由な誇り高き狼」へと昇華した瞬間だった。
プリーンは再びひかりに向き直り、力強く微笑んだ。
「聞いたな? これが俺の最高の部下たちだ。……ひかり。我々をどうするつもりだ。お前が俺たちを救ったのには、何か理由があるのだろう?」
ひかりは涙を拭い、強く頷いた。
「はい。この世界の時間軸は、現在、未知の干渉によって至る所で歪みが生じています。私だけの力では、それを防ぎきれない。……私には、いかなる時代にも属さず、時空の海を潜航し、歴史の歪みを人知れず修復する『幽霊船』が必要なんです」
ひかりは、タブレット端末を操作した。
ドームのホログラムが展開され、現在修復作業中のU-47の姿が映し出された。
「U-47は、これより23世紀の最新技術をもって改装されます。
ナノマシンによる耐圧殻の分子レベル再構築。
推進機関をディーゼルから『常温核融合・量子水流エンジン』へ換装。
そして、時空の狭間を跳躍するための『アビス・スライド・ドライブ』の搭載。
……もはや、これは第二次世界大戦の潜水艦ではありません」
ひかりの瞳に、強い光が宿る。
「時空の海を往く、真の幽霊船(Phantom-Boot)。それが、あなたたちの新しい姿です」
■ 鋼鉄の新生、Phantom-Boot
改修作業は、23世紀の技術の粋を集めて行われた。
何百万もの微小なナノマシン・ドローンが、Uボートの傷ついた船体に群がり、サビと歪みを分子レベルで捕食していく。爆雷でひしゃげた耐圧殻は、元の強度を遥かに凌駕する「量子定着チタン合金」へと編み直され、艦体を覆っていた鈍い灰色の塗装は、光や電波、そして時空のレーダーさえも吸収する漆黒のステルス・コーティング(超電導メタマテリアル)へと変貌を遂げた。
無骨だった司令塔のシルエットは、空気と水の抵抗を極限まで減らした流線型に最適化され、甲板にあった88ミリ砲は、必要に応じて展開される「プラズマ・パルス収束砲」へと換装。魚雷発射管には、物理的な破壊だけでなく空間の歪みそのものを粉砕する「時空断裂魚雷」が装填された。
しかし、外見がどれほど未来的に変貌しようとも、艦内の基本構造や「匂い」、そして発令所に刻まれた男たちの汗の染みは、ひかりの指示により意図的に残されていた。
それは、彼らが「人間」であることの証明であり、彼らの魂の拠り所を守るためだった。
作業開始から24時間後。
漆黒の流線型ボディに、鈍く青い光のライン(量子伝導体)を走らせた、全く新しい潜水艦が地底湖にその雄姿を現した。
『Phantom-Boot』。
それは、歴史から抹消された英雄たちが操る、最も美しく、最も恐ろしい時空の狩人だった。
■ 最後の観測、そして永遠の航海へ
出航の時が来た。
乗組員たちはすでに新しい艦内に乗り込み、各配置で計器のチェックを行っている。未来のインターフェースが追加されてはいるものの、基本的な操艦は彼らの体に染み付いたUボートのそれと同じになるよう、AIが完璧にアシストしていた。
ひかりとギュンター・プリーンは、漆黒の司令塔のブリッジに立ち、眼前に広がる純白の氷底湖を静かに見渡していた。
「……美しいな」
プリーンが、深く息を吸い込みながら呟いた。
「ええ。この1941年の地球に残された、最後の汚れなき景色です」
ひかりは、自身のダボダボのレザージャケットの襟を立てながら答えた。
「俺たちがいた世界。俺たちが守りたかった祖国。……もう二度と、日の当たる海に出ることはないのだな」
プリーンの横顔には、一抹の寂愁があった。しかし、その後悔はない。
「カレウン……」
「気にするな。死んだはずの命だ。これからの俺の命は、時空とやらを守るために、そして……お前を守るために使うと決めた」
プリーンは、ひかりの頭に大きな手をポンと乗せた。
「未来の戦いは、イギリス海軍より手強いか?」
ひかりは、少しだけ俯いた後、顔を上げて満面の笑みを作った。
「ええ、とびきり。でも、私には『スカパ・フローの牡牛』と、最強の群狼がついていますから。何も恐れません」
「ふっ、違いない」
プリーンは不敵に笑い、そして真剣な目つきで空(氷の天井)を見上げた。
「さらばだ、俺の生きた時代よ。さらばだ、インゲボルグ。……俺は、俺の戦争を往く」
プリーンは踵を返し、ハッチの梯子へ手をかけた。ひかりもそれに続く。
「全員、乗艦完了! ハッチ閉鎖(Turmluk zu)!」
プリーンの声が、新しい発令所に響き渡る。
ガコンッ、という重厚な音と共に、司令塔のハッチが完全に密閉された。
もう、ここから先は外の空気は入ってこない。彼らだけの、独立した宇宙だ。
「メイン・ドライブ起動。量子水流エンジン、出力正常」
エンゲル副長が、ホログラム・ディスプレイを見つめながら報告する。かつてのディーゼルの激しい振動はない。しかし、艦の奥底から、空間そのものを震わせるような圧倒的な力が脈打っているのを感じる。
「カレウン、アビス・スライド・ドライブ、スタンバイ完了しました。目標座標、西暦2245年、特異点X。……いつでもいけます」
ひかりが、通信席の横に新設された時空管制コンソールから報告する。
プリーンは、発令所の中央に立ち、潜望鏡のシャフトを力強く握りしめた。
彼の周囲には、ハンス、ミュラー、エンゲル、シュパール……死線を共に越えてきた、愛すべき50人の顔がある。彼らの目は、新しい艦長の号令を待っていた。
「諸君」
プリーンの静かで、しかし鋼のように力強い声が響く。
「我々はこれより、すべての歴史、すべての海を潜航する。我々は幽霊だ。誰に称賛されることもなく、誰に記憶されることもない。だが、我々の誇りは、この胸の中にある!」
プリーンは、ひかりと目を合わせた。二人は深く頷き合う。
「――ベント開け! タンク注水(Fluten)!」
「Fluten!!」
ゴォォォォォォォッ!!
艦外から、海水がバラストタンクに流れ込む重厚な音が響く。
「両舷前進半速! 深度二〇!」
「両舷前進半速、ヨーソロー!」
Phantom-Bootが、静かに、しかし圧倒的な推進力で氷底湖の海面下へと滑り込んでいく。漆黒の艦体が、アビスブルーの冷たい水の中に溶け込んでいく。
「カレウン、跳躍限界深度に達します」
ひかりの声が、発令所に響く。
プリーンは、前方の暗闇を鋭く見据え、右手を高く掲げた。
これが、彼らの新しい伝説の始まりを告げる合図だ。
「時空跳躍……」
男たちの息を呑む音。ひかりの祈るような眼差し。
「――潜航!!」
ドズゥゥゥゥンッ!!!!!
発令所が、眩いほどの青い量子光に包まれた。
絶対的な無音と、光の奔流。
1941年の南極の氷底湖から、漆黒の幽霊船は完全に姿を消した。
彼らがどこへ向かったのか、それは誰も知らない。
ただ、歴史が歪み、悲劇が繰り返されようとする時。
時空の狭間から、無音で忍び寄る「青き光を放つ狼」の姿を見たという伝説が、未来永劫、語り継がれることになるのだ。
(BOOK1・完)




