第13章:青き特異点と氷海の聖域(アビス・スライド)
バッッッシャァァァァァンッ!!!!!
U-47は、まるで海神の槍のように海面を突き破り、豪快な白波を立てて海上に躍り出た。
【しおの】
U-47は、まるで海神の槍のように海面を突き破り、豪快な白波を立てて海上に躍り出た。
カチャッ、ターンッ……!
ギュンター・プリーンが、血と油にまみれた指でエニグマの最後のキーを叩き込んだ瞬間。
大西洋の暗い海底(深度180メートル)で、限界を超えたU-47の耐圧殻がひしゃげ、死の濁流が発令所を呑み込もうとした――その刹那だった。
空間が、異様な「粘度」を持った。
「……何だ……?」
プリーンは、押し寄せるはずの海水の壁が、まるで空中でゼリー状に固まったかのように停止しているのを見た。宙を舞う計器のガラスの破片も、吹き飛んだリベットも、すべてが空中で静止している。
赤色灯の明滅すらも、コマ送りのように遅延していた。
通信室のエニグマ暗号機を中心として、爆発的に膨れ上がった青白い「量子光」が、U-47の船体全域を球状に包み込んでいた。
『――空間座標固定。局所時間軸、極超音速遅延モードへ移行』
プリーンの鼓膜に直接、あの懐かしくも凛とした少女の声が響いた。
ひかりだ。
『プリーン艦長、聞こえますか! 未来(2245年)からの干渉を開始します。しかし、現在の深度180メートルから一気に海上へ転移させれば、急激な気圧低下(減圧症)であなたたちの肺は破裂します!』
脳内に直接響く未来のロジックに、プリーンは驚愕しながらも瞬時に状況を理解した。魔法ではない。これは圧倒的に進んだ「科学」の力だ。
『だから、周囲の「水圧」ごと、別の海域へ空間跳躍させます! 船体を包む量子バブルで水圧の勾配をコントロールしますが、転移後は自力で浮上してください! 生き延びて、カレウン!!』
「……上等だ!!」
プリーンが叫んだ直後。
U-47を包む青い光が、太陽のプロミネンスのように激しく燃え上がった。
ズガァァァァァァァンッ!!!!
次の瞬間、北大西洋の海上で執拗に爆雷を投下していたイギリス駆逐艦『ウォルヴァリン』のソナー員は、ヘッドホンを投げ捨てて絶叫することになる。
探信儀が捉えていた巨大な鉄の塊の反応が、爆発音と共に「完全に、そして物理的に」海中から消失したからだ。油も、木片も、死体も残さずに。
しかし、当のU-47の内部は、地獄のジェットコースターと化していた。
「ウオォォォォォッ!!」
「艦長!! 何が起きて――」
静止していた時間が突如として動き出す。凄まじい遠心力と無重力状態が同時に乗組員たちを襲った。上下左右の感覚が完全に喪失し、胃袋が口から飛び出しそうになる悪心。青い光のトンネルの中を、800トンの潜水艦が文字通り「落下」していく。
『座標固定! 空間定着まで、3、2、1……!』
ドッッッカァァァァァン!!!!!
凄まじい衝撃と共に、U-47は「別の海」へと叩きつけられた。
再び強烈な水圧が船体を締め付け、停止していた浸水が再び発令所へ勢いよく吹き込み始める。赤色灯が激しく点滅を取り戻した。
「被害復旧!!」
プリーンは通信室から這い出し、傾斜する発令所の床を蹴って立ち上がった。彼の目に迷いは一切ない。ここは死後の世界ではない。まだ戦える。
「エンゲル! 状況を報告しろ!」
「深度計……復帰しました! 現在深度一二〇、さらに沈下中! 浸水止まりません!」
血まみれのエンゲル副長が、手動ポンプにしがみつきながら叫ぶ。
「アズディックの反応は!?」
「ありません! 爆雷の音も……上空のスクリュー音も完全に消えました! しかし、代わりに奇妙な軋み音が……全方位から聞こえます!」
聴音手が混乱した様子で報告する。イギリス軍は消えた。しかし、艦は沈み続けている。電動モーター(E・マシーネ)は先ほどの被弾でいまだ沈黙しており、このままでは浮力を失って海底に激突する。
「メインタンク・ブロー(メインバラスト・タンク排水)だ! ありったけの空気を送り込め!」
「カレウン! 高圧空気の残量が足りません! パイプの損傷でエアが漏れています!」
機関長が絶望的な声を上げる。
「構わん、全バルブ開け!! 前部と後部、両方同時にだ!!(Pressluft in alle Zellen!)」
ゴォォォォォォォッ!!!
圧縮空気がバラストタンク内の海水を強引に押し出す轟音が響く。
しかし、艦の沈下は止まらない。深度130、140……。再び船体のリベットが悲鳴を上げ始める。
「ミュラー!! 前部からバケツリレーで水を後部へ移せ! ハンス、ベント弁を手動でこじ開けろ!! 生きたいなら手を動かせ!!」
歴戦の兵曹長と若き水兵が、狂ったようにバルブにしがみつく。
「艦首、持ち上がります! 上昇角一〇度……一五度!」
「浮上するぞ、しがみつけ!!」
凄まじい勢いで、鋼鉄の棺桶が海面に向かって急浮上を始める。深度計の針が恐ろしいスピードで巻き戻っていく。100、80、50……。
減圧症を防ぐためのひかりの「量子バブル」が船体の周囲で圧力を相殺し、安全な気圧低下をもたらしていた。
「深度一〇! 海面に出ます!!」
バッッッシャァァァァァンッ!!!!!
U-47は、まるで海神の槍のように海面を突き破り、豪快な白波を立てて海上に躍り出た。
大きく左右にローリングした後、艦はゆっくりと安定を取り戻す。ディーゼルの排気と、漏れ出した微量の塩素ガスが入り混じり、艦内の空気は最悪だった。
「浮上完了……。俺たちは……助かったのか?」
ハンスが、スパナを握りしめたまま呆然と呟く。
発令所に、重い沈黙が落ちた。爆雷の轟音も、死を告げるソナーの音も、何も聞こえない。ただ、艦体に波が当たる静かな音だけが響いている。
「……ハッチを開けろ。外の空気を入れるんだ」
プリーンは、自らの軍服についた油を無造作に拭いながら、冷静な声で命じた。
「カレウン、しかしここは……夜の大西洋の真ん中では……敵の哨戒機がいる可能性が……」
「開けろと言ったんだ、エンゲル」
プリーンの命令に、ハンスが梯子を登り、司令塔の上部ハッチのハンドルを全力で回す。
ガコンッ! という重い金属音と共に、分厚いハッチが押し開かれた。
その瞬間。
発令所に流れ込んできたのは、硝煙の匂いでも、北大西洋特有の潮の匂いでもなかった。
肺の細胞が凍りつくほどに冷たく、澄み切った「絶対零度の冷気」だった。
「……な、なんだこの寒さは……!?」
プリーンは梯子を駆け上がり、司令塔のデッキ(ブリッジ)へと身を乗り出した。
続いてエンゲルやミュラーたちも顔を出し、外の光景を見た瞬間、全員が息を呑み、絶句した。
そこは、夜の海ではなかった。
見渡す限りの「白と青」の狂気的な世界。
空を覆い尽くすのは、雲ではなく、圧倒的な質量を持った巨大な「氷の天井」だった。U-47は、巨大な氷河の下にぽっかりと空いた、途方もなく巨大な「地底湖(氷底湖)」のような空間に浮上していたのだ。
海面には無数の流氷が浮かび、氷の壁面は自ら発光しているかのように神秘的な青い光を放っている。
「嘘だろ……。ここは、どこだ……?」
ミュラー兵曹長が、震える手でタバコを取り出そうとして落とした。
プリーンは無言のまま、双眼鏡で周囲の氷の絶壁を確認し、そして空を見上げた。氷の裂け目から、わずかに星空が覗いている。
「……シュパール航海長。あの星の配置から、現在位置を割り出せるか?」
呼ばれた航海長は、ガチガチと歯を鳴らしながら六分儀を覗き込み、そして計算尺を弾いた。やがて、彼は幽霊でも見たかのように青ざめた顔で艦長を振り返った。
「カレウン。……計器が狂っていなければ、ここは……南緯七〇度。……あり得ません。我々は数分前まで、北半球のアイスランド近海にいたはずです……!」
「南緯七〇度……」
プリーンは、凍てつく冷気を深く肺に吸い込んだ。
「ノイシュヴァーベンラント(Neuschwabenland)……『南極大陸』のドイツ領有主張地域か。あの魔女め、とんでもない場所に俺たちを放り込みやがった」
プリーンは、血だらけの顔で、しかしこの一年半で初めて、心の底からの不敵な笑みを浮かべた。
イギリス海軍がどれだけ血眼になろうと、絶対に探知できない地球の最果て。分厚い氷の装甲に守られ、凍てつく海水がオーバーヒートした機関を冷やす、完璧な隠れ家。
「カレウン! 通信機から、謎の電波を受信しています! これは……ドイツ語のモールスではありません!」
下から通信士の叫び声が響く。
プリーンは梯子を下り、通信室のスピーカーに耳を傾けた。
そこからは、ノイズにまみれながらも、機械音声による翻訳アナウンスが微かに再生されていた。
『――U-47乗組員の皆様。歴史上の死亡時刻、1941年3月7日を突破しました。生存、おめでとうございます』
発令所の男たちが、ざわめく。
『あなた方の存在は、正史から完全に「消失」しました。これより、本艦は私が提供する未来技術による改修フェーズに移行します。世界を狂わせる「特異点」となる準備をお願いします。……待っていましたよ、カレウン』
通信が切れると同時に、艦内の非常用赤色灯が消え、代わりに見たこともない純白のLEDのようなクリアな照明が一斉に点灯した。
「聞いたな、お前たち」
プリーンは、U-47の乗組員たちを見回した。死の淵から生還し、未知の氷海に放り出され、いまだ震えが止まらない男たち。
しかし、彼らの目には絶望ではなく、未知なる戦いへの「狂熱」が宿り始めていた。
「我々は死んだ。大英帝国も、総統閣下でさえも、我々が海の底の藻屑になったと思っているだろう。だが……俺たちは生きている! ここからが、我々U-47の真の航海だ!」
「「「ヤーヴォール(了解)!!」」」
南極の氷底湖に、灰色の狼たちの、新たなる咆哮が木霊した。
1941年3月7日。U-47消失。
そして、時空を超えた反逆の歴史が、この氷海の聖域から幕を開ける。




