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〇九「家庭」

 鏡花と交際すると同時に、美久とも付き合う。

 紹介や仲介によって付き合いだしたカップルの一方が、紹介者と浮気する……というのは良くある話だが、それをはなから始めようと言うのだから、まともでは無い。言い出した圭介自身、愉快な思い付きだと思った。全く、自分のどこからそんな発想が涌いて出たのか、見当も付かない。

 しかし最善策である様にも思えた。美久はこの奇妙奇天烈な条件を飲まないだろう。であれば、厄介事を回避出来る上に、以降美久からは頭のおかしな奴だと思われて、距離を置かれるに違い無い。逆恨みされる事も無かろう。

 ところが、だ。


「え? 何? いきなり二股掛けようっての? あたしと?」


 美久は目を皿にして、前のめりになった。


「良いじゃん、お前意外と面白ェじゃん!」


 と大笑いして、


「おう、じゃあ付き合おうぜ、ケースケ」


 圭介は意表を突かれ……一年が経った。


「付き合ってましたよ。まあ、本命はあくまで先輩なので」


「そうは言ってもさ……薄情過ぎねーか?」


 電話越しの声が、急に暗いものになる。驚いた勢いのまま電話したものが、漸く生前の鏡花を思い出したのだろう。圭介と付き合い始めてからの鏡花は、美久に対しての付き纏いは成りを潜めたが、それでも美久を慕い続け、良き後輩となっていたのだ。


「あいつ、本気だったんだぜ? 少しはさ、悲しめよ」


「悲しんでますよ。ですけど、何も泣いたり喚いたりするだけが、悲しむ方法じゃないですよ。先輩、僕は……犯人を必ず、殺します」


 圭介は高らかに宣言した。

 明朗に、明瞭に。それは圭介自身への、殺意だった。

 美久は押し黙った。美久は、少なくとも紫崎陽子程には、圭介の事を理解していない。圭介が知る限り、思考の水準も一年前から変わっていない。けれども、圭介の秘めた決意を、薄らとでも悟ってくれたのかも知れない。

 圭介の、ただの願望ではあるが。


「ところで先輩、今週末は空いてますか? 金土日、どこでも良いんですが」


「あ? あーっと……土曜なら空いてっけど」


「じゃあ、土曜日の夜九時、いつもの場所で会いませんか」


「お前さ……まあ、良いよ」


「それじゃあ、これから夕飯なので、また」


「ああ、またな」


 終話ボタンをタップしてから、圭介は一息吐くと、携帯電話をベッドに投げ遣って、代わりに煙草の箱を取った。

 一本取り出して口に咥え、ライターをかざしたところで、着火スイッチに掛けた親指が止まった。

 そして目を閉じ、過去を思い返し、未来を想像する。

 俺はどうして、こんなにも人と関わってしまったのだろう?

 圭介の思う自分は、もっと刹那的な人間だったはずだ。何と無く生き、何と無く死んでいく。そういう人間でありたかった。

 しかし……。

 紫崎陽子という相通じる者と出会ってしまった。西島美久という相反する者と取引をしてしまった。金井鏡花という相対する者と愛し合ってしまった。

 傷を舐め合う事も、駆け引きする事も、じゃれ合う事も、望んでいなかった。どこからか、狂い始めたのだ。鏡花を殺すよりずっと以前に、どこかで道を踏み誤ったのだ。

 でなければ、こんなに苦しい思いをする必要など、無かったはずだ。

 圭介は煙草を箱に戻し、自室の戸を開けた。


 食卓は既に配膳が済んでいて、両親ももうテーブルに着いていた。父は上座、母は下座に居る。何も日本のしきたりに従っているのではなく、母は炊飯器や冷蔵庫に一番近い位置に座り、食事中にテレビを見ない父は居間の方へ背を向けているという、それだけの理由だ。

 圭介は母の隣に腰掛けながら詫びた。


「ごめん。ちょっと電話しててさ」


「良いの良いの。だって、ほら、大変じゃない。色々……」


 相変わらずピントの合わない言葉を発しながら、母は圭介と入れ違いに立ち上がり、炊飯器からご飯をよそい始めた。

 ここ最近は白米ではなく玄米だ。父と母の分はほぼ同量。圭介は、やや少なめ。

 食卓に並ぶおかずは質素なものである。野菜が中心だが、繊維質のものは少ない。主菜は鰈の煮付けだった。煮物料理は母が得意とするものだ。

 家族三人が揃って、漸く食事が始まる。圭介はまず味噌汁から手を付けた。かなり薄い。これもやはり近頃の傾向なのだが、以前はこれでもかとばかりに塩辛く作ってあったものだから、未だに違和感がある。

 圭介は、嫌に口の中に残る玄米を噛み解しながら、上目遣いに父を見た。

 今日も、金井鏡花の事件や彼女との関係について、圭介に問う事はしないのだろうか。


 先日、刑事が訪ねてきて、そこで初めて明らかになった交際関係。母が大騒ぎして父に伝えた事は想像に難くない。母の事だから、ある事無い事言い散らかしただろうが、大凡の事情は、父も理解したはずである。

 なのに、一言も言及しない。どころか、殆ど口を利いていない。


 父は元々寡黙な男だ。どうして対照的な母と結婚したのかも解らない程である。どうやら職場恋愛だったそうだが、圭介は今一釈然としない。他人の事など理解不能だ、という圭介の思想は、両親の関係に起因すると言っても良い。

 そんな父とは言え、一人息子の通う学校の生徒が殺害される、しかもそれが息子の交際相手だったと発覚する、などという事態に遭遇しても尚黙っているのは、不思議と言うよりも、不気味でさえある。


 もしかすると……。

 父は息子が金井鏡花殺しの犯人だと、薄々感付いているのではないか?

 可能性は、ある。既に圭介が隠れて煙草を吸っているのも知っている。ある日突然、ちょうど煙草一カートン分の金と、「加減はしろよ」というメモ書きの入った封筒を渡された事があった。鏡花や美久に会う為、夜半に黙って外出した時に、玄関で帰宅を待ち構えられていた事もあった。その時交わした遣り取りは、


「悪い友達か?」


「……いいや」


「なら良い」


 という極短いもので、別段叱られる事も無かったのだった。

 たぶん、きっと、恐らくだが……父は圭介を息子と思っていない。一人の男として見ているのだろう。

「親」という字は、木の上に立って見ると書く。圭介は、どこかで聞いたそんな言葉でこれまで納得していたのだが。


 もし今度の事で何か気付いているのなら、誰よりも脅威だ。


「圭介」


 当の父親にいきなり呼ばれたので、圭介は米を喉に詰まらせそうになった。


「今週末か、来週末……いつでも良い。どこか行かないか? どこか、行きたい場所は無いか?」


「いや……特に無いけど」


「そうか」


 男と男の会話は、また短いもので終わった。


 食事を終えて部屋に戻った頃、圭介は漸く、父が何を言いたかったのかを悟った。

 そしてそれを、たった一言で無下のものにした己をも知る。

 だから圭介は、心の内で何度も詫びながら、静かに泣いた。

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