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二一「追及」

 丸一週間。それが授業再開までに掛かった期間である。

 金井鏡花の葬儀、渡辺みどりの死から一週間を空けた学校の雰囲気は、凍て付いたものだった。もう、良からぬ噂話や憶測を小声に呟く者も、啜り泣く者も無い。

 制服は喪服だった。

 誰しもが、死の崖を覗き込んでいた。


 だが、教室の中で、類に漏れる男が二人だけ居る。

 渡辺みどりを殺した男と、それを殺そうと決意する男。


 ただ垂れ流されるだけの朝礼の後、凪がすっくと立ち上がり、圭介の席へ向かってきた。


「この前は約束を破って悪かったね」


 普段と変わらぬ、軽々な口振りで言う。対する圭介は、低く、重く返した。


「……気にしていない」


「そう。それは良かった。まあ、お詫びって言うのも何だけど……放課後、いつもの場所で待ってるよ」


「ふうん」


 明らかな挑発だ。ならば……。


「解った。そこで話をしよう」


 圭介は微笑みで答えた。

 受けて立つのみである。


 流れる様にして、時は進む。そして決着の時は自ずと訪れた。

「待ってる」の言葉通り、先に席を立ったのは凪の方だった。それから一〇分ほど課題をこなす振りをし、人気が無くなるのを待ってから、圭介も立ち上がる。

 向かう先は、特別教室棟二階の男子トイレ。そこが「いつもの場所」だ。


 足を踏み入れた瞬間に、芳香剤の作られた臭いと、アンモニアとが混ざった刺激臭が鼻を突く。圭介はそれを肺いっぱいに溜め込んで、奥を睨む。

 腕組みをして仁王立ちをする凪が、薄ら笑っていた。


「やあ、葦原君。ところで、人を生かすには何が必要だろう?」


 いつもの芝居がかった調子。ポケットに入れた圭介の手の中で、キチキチと音が鳴った。


「空気、水、食糧。勿論大切だ。でもそれらは肉体を支えるものだ。じゃあ精神には? 何が必要だと思う?」


「黙れ」


 大股に凪へ歩み寄りながら、圭介はポケットから手を出す。そこに握り込められているのは、刃の迫り出したカッターナイフだ。

 殺す。下らぬ事を吐き続けるその喉から、血を吹き出させてやる。圭介の頭にはそれしか無かった。

 一番手前の個室前まで至った時、ふと、一人の人物が割って入る様に、中途の個室から歩み出て来た。


「陽子……」


 紫崎陽子は圭介に半身を向けたまま、立ち塞がった。


「どうしてここに居る」


「ボクがお招きしたんだよ。彼女だって、今度の事件じゃ重要なファクターだ。疎かにしちゃ、可哀想だろ?」


「陽子。どいてくれ」


 陽子は圭介とも、凪とも目を合わせず、じっと自分の爪先を見詰める様に俯いて、動かない。


「陽子……」


「その名前で呼ばないで」


 陽子は押し出す様で、それでいてきっぱりと言い放った。


「嫌いなんだよ、その名前。呼ばれる度に、嫌で嫌で、仕方が無かった」


 日陰にあり、自らを忌々しく思う少女にとって、太陽光を思わせるその名は、呪いでしかないのだ。

 ははは、と凪が笑い声を立てる。


「いやはや。親しいと思っていても実は浅い付き合いだって事、あるよねえ」


 圭介は歯軋りした。


「どけ、紫崎!」


 怒声である。裏切られた気分だ。

「じゃあ」と紫崎は言った。


「先に私を殺してくれる?」


「ああ?」


 圭介の頬がぴくりと痙攣する。


「約束でしょう? 私を殺してくれるって。だったら、涼太郎を殺す前に、私を殺してよ。そのナイフで」


 紫崎は視線を横にずらして、圭介の手元を、カッターナイフを見詰める。だが、圭介の手は、ナイフは、微動だにしない。


「そう、やっぱり……『やっぱりそうなんだ』」


 呟くと、紫崎は一歩退いて、道を空けた。

 圭介には紫崎が何を納得したのか解らない。だが凪を殺すための道は開けた。

 圭介は紫崎を押し退けて、凪へ向かって駆け出す。ナイフを振り上げ、凪の首筋に向かって切り下げる……が。

 その手首を凪が掴まえていた。圭介の駆け込んできた勢いをいなして、背後の壁にナイフの刃を打ち当てさせる。すると、刃は容易く折れた。

 圭介は手首を捻り上げられ、腹を蹴り飛ばされ、紫崎の足下に尻餅を突く。


「葦原。君は馬鹿なんじゃないか? カッターナイフは良く切れるけど、簡単に折れる仕組みになってるんだ。そんなもので人を殺そうなんて、頭が悪い」


 凪の勝ち誇った笑みが、圭介を見下ろす。凪は「危ないから仕舞っておこう」と折れた刃を爪先で引き寄せ、上履きの下に隠した。


「さて。さっきの続きだけれど、人の精神を生かしているのは何か……それはね、『自己愛』だよ。自己愛が無くちゃ、食べ物は喉を通らないし、呼吸だって出来ないだろう」


 喋りながら、やや乱れた衣服と頭髪を直す。


「自分で言うのも何だが、ボクは自己愛の塊だと自負してる。そこに居る紫崎も、そして葦原、君もそうだ」


 そう言われた時、圭介は漸く立ち上がれた。根元から折れたナイフは未だ握られたままだが、その手首は捻挫を起こし、ぶるぶると震えている。

 凪は懐をまさぐって、ある物を取りだした。それはジッパー付きのポリ袋で、中にハンカチが入っている。


「これね、いつだったっけ……そうそう。君がここに駆け込んだ後だ。後で便器の裏をね、ちょっと拭い取ってみたんだよ。物凄く苦痛だったけど」


 あからさまに汚物だと指先で摘まみ、圭介の方へ放り投げる。


「どうも激しく下痢をしていたみたいじゃないか。それだけじゃないぞ。今はもう時間が経って解らなくなっちゃったけど、そいつのそこの染みはね、赤黒かったんだ。血便というヤツだな。それで……」


「やめろ! それ以上言うな!」


 がなり声で遮った圭介の顔色は、血の気を失い、蒼白になっていた。


「いやいや、これからが良い所じゃないか。それでボクは君の家を訪ねて、お母さんに訊いたんだよ。『息子さんのお加減はいかがですか』って。そうしたら……」


「やめろ……やめろ!」


「そうしたら、お母さんは色々教えてくれたよ。君が大腸癌を患っている事とか、他にも転移しているかも知れないとか、それでも治療を拒んでいる事とか。良い、お母さんじゃないか。君を心から心配していたよ」


「やめろ」と言う圭介の言葉は、もう声にならなかった。ただ口をぱくぱくと開け閉めするばかりだ。

 紫崎の哀れみを帯びた目が向けられる。やめてくれと、圭介は声にならぬ声で言った。


「ボクも調べてみたけど、まあ辛いものだねえ。特にあれは辛かった。何だっけ? そうそう、ストーマだ。場合によっちゃ、腹に人工肛門ってのを作らなきゃならないんだって? あれは嫌だな。腹に空けた穴から、袋の中に糞便を垂れ流す事になる。ああはなりたくないと、そう思うだろうなあ」


 もう良い。もう沢山だ。もうやめてくれ。

 圭介の心の内では、悲鳴が響いている。


「だから、金井を殺したんだろう?」


 凪は首を傾げて、圭介の顔を覗き込んだ。


「そんな哀れな姿を見せたくなかったんだ。だから殺した。金井も、西島も」


「……違う……」


「だけど、紫崎にとってそれっていうのは、酷い裏切りだよ。紫崎は『紫崎のために』殺して欲しいんだ。『あんたのために』じゃない。あんたの自己愛のために、みすぼらしくて可哀想なあんたのためにでは、決していけない」


「違う……そうじゃない……」


「あんたは自分可愛さに、金井鏡花を絞め殺し、西島美久を突き落としたんだ」


「違うッ」


 圭介は絶叫した。


「俺は彼女たちには……鏡花にも、美久にも、陽子にも……知って欲しくなかっただけだ! 俺に未来が無いなんて、俺が死ぬなんて、知って欲しくなかった! だから……!」


 だから、殺す事にした。

 鏡花が知れば、とことんまで尽くしてくれただろう。

 美久が知れば、戸惑いながらも優しくしてくれただろう。

 陽子が知れば、自らの願望を曲げ心中という選択を考えてくれただろう。

 そんな風に、彼女たちを変えたくなかったのだ。

 仔猫や仔犬の様に擦り寄ってくる鏡花を愛していた。

 不器用なりに誠実な愛情を求める美久を愛していた。

 死にたいと願いながら生きている陽子を愛していた。

 だから、自らの死で彼女たちに変化を与える前に……あの両親の様に、嘆き悲しんだり、注ぎ損ねた愛情を使い切らそうとしたり、そうなる前に……。


「だから……殺さなくちゃいけなかったんだ!」


 ふう、と凪は息を吐き、肩を落とし、目を閉じた。そして、言う。


「ああ……納得した」

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