二二「葦原圭介」
凪涼太郎は恍惚とした。
快楽、享楽。至上の悦びに浸った。
「納得」こそが涼太郎の原動力……自己愛の源、ナルキッソスの覗き込んだ泉だ。
涼太郎は囚人だ。「納得」に囚われている。故に、「納得」という檻の外にある事物に彼は魅了され、故に、檻の中へ全てを取り込みたがっている。
涼太郎は今、葦原圭介について深く「納得」した。
葦原圭介を自らの檻に捕らえたのだ。
「ボクは君に謝らなくちゃいけない。君は自己愛の塊なんかじゃあなかったんだ。君は、ボクや紫崎とは違う。結局自分を愛する事が出来ず、近い将来自分が死ぬと知った時、それが決定的なものになってしまった。けれど自分が破滅するのなら、いっそ世界を破滅させてやろう……そんな風には考えなかった。寧ろ、世界の破滅を食い止めようとしたんだ。金井鏡花、西島美久、紫崎陽子を殺す事は、君にとって最大の愛情表現だったんだな。君は君を取り巻く世界を、愛して止まなかった」
そうだ。圭介は、この世が愛おしくて堪らなかった。鏡花も、美久も、陽子も、愛おしくて仕方が無かった。仔猫の命さえも、それを慈しむ心さえも、胸がはち切れそうな程に、愛していた。
そうだ。だからこそ目の前の男が許せない。渡辺みどりを殺した、凪涼太郎が。
「お前が……お前が、渡辺さんを殺したりしなければ……」
「はあ?」
涼太郎は右耳に手を当てる。
「いや。悪いけどね、それだけははっきり否定させて貰わなきゃならないな。何の根拠があって言ってるんだい? 証拠は? どうしてボクが彼女を?」
「てめえ……」
根拠はいくらでもある。だがそれは圭介にしか知り得ない。証拠は無い。凪涼太郎には、渡辺みどりを殺すにたる、客観的な動機が無い。
全ては、この場に圭介を引き摺り出すため。全ては、凪自身が納得するため。
圭介にだけ意味の通じる殺人だった。誰にも告発出来ず、誰にも理解出来ない。
凪は、人殺しとして、圭介より一枚も二枚も上手だった。それだけの事だ。
「すまないね」
凪は眉尻を下げ、心底哀れむ様に言った。
「今、君には心底同情するけど、もう手遅れなんだ。君はとっくに、叩き潰されている」
再び凪の懐から取り出された物に、圭介は見覚えがあった。
「これ。見た事があるだろう? ある人から借りておいたんだ」
凪が摘まみ上げたのは、ボイスレコーダーだ。圭介は、二度、同じ物を見た事がある。二度とも、自宅でだ。
「君の家を訪ねた時にね、君のお母さんから、名刺を貰っておいたんだ。『事件について思い当たるところがあるけれど、誰に伝えて良いか解らない』と言って」
凪が圭介の自宅に現れ、圭介を迎えた時、胸ポケットに仕舞い込んだ物。
工藤刑事の名刺。
「それでね、ボクなら君の自供を取れると何とか説得して、お借りしてきたんだ。まあ、大変だったけどね。こいつはずっと録音しているんだよ、今もね。折角だからもう少し回したままにしようか」
ボイスレコーダーを突き出して、凪は続ける。
「そうだ。それと、刑事さんがこういう物を無条件に貸してくれる訳が無いよね。こいつはデジタルだ。加工した音声を入れる事だって出来る。だからね、ちゃんとした条件を付けたんだ」
レコーダーを持つ手とは反対の手で、トイレの出入り口を指した。
「ご本人にも聞いていて貰う。それが条件」
圭介は振り返る。するとそこに、二人の刑事が立っていた。
ボイスレコーダーの持ち主、工藤と、斉木。
「凪涼太郎さん。もう、充分ですよ」
工藤は唸る様に言った。
初めは疑わしく思ったに違い無い。圭介は金井鏡花殺害の重要参考人だったが、その自供、告白を突然現れた第三者が得るなどとは、とても信じてはいなかっただろう。隣の斉木が憮然としているのが証左だ。
だが現実になった。証拠となり得るボイスレコーダーの前で、刑事二人が聞き耳を立てている傍で、凶器を手にした葦原圭介は、自らの罪を叫んだのだった。
「もう、結構です。葦原圭介さん。あなたを金井鏡花さん殺害、西島美久さん殺害未遂の両容疑、そして暴行の現行犯で逮捕します」
圭介に二人の刑事がにじり寄った。
手詰まりだ。終わりである。為す術は無い。
これから圭介は逮捕される。拘留され、送検され、裁判に掛けられ、懲役に服される。だが最大の罰は、治療を強制され、長く終わりの見えない苦痛に晒される事だ。
圭介の体に、全身をムカデが這いずった様な、震えが起きた。
圭介は紫崎陽子の腕を掴み、力任せに引き寄せた。後ろから肩を抱く様にして、ナイフの僅か数ミリ残った刃を、頸動脈に押し当てる。
陽子の白い肌から、ぷつ、と血の球が浮き出た。
「寄るな!」
「葦原! 抵抗は止めろ!」
飛び掛かり、ナイフを奪おうとする斉木の手首を、圭介は切り裂いた。動脈は僅かに逸れたが、身を怯ませ、刑事らを動揺させるのには、充分だった。
不意に斉木へ目を遣った工藤を、圭介は体当たりで突き飛ばし、陽子を引き摺ってトイレから駆け出た。
「あ、葦原……」
喉を圧迫された陽子が呻く。その耳元で、圭介は呟いた。
「陽子ちゃん、俺は……」
「葦原ッ」
刑事の叫び声が響き、圭介は陽子を突き放すと、一人走り出した。
へたり込んだ陽子は、呆然として、角を曲がり消えていく圭介の後ろ姿を見送っていた。
圭介は陽子に、こう囁いたのだった。
「俺は、君の名前が好きだ」
皮肉めいた、呪いの様なその名前を、圭介は好きだと言った。
圭介にとって、陽子は眩しい存在だった。死にたいと願いながら、死ねないでいる。生きていたくないと望みながら、生きている。陽子の存在そのものが抱える矛盾は、路地裏に咲く野花の様で、圭介にとって、まるで奇蹟だった。
コンクリートの隙間に埋もれ、決して芽吹く事の無い種であった圭介を、陽子は一点の光として照らし出した。そうして初めて、圭介は愛情を覚えたのだった。
儚く、脆く、切なく、そして尊い生命を「陽子ちゃん」と呼び続けた。
陽子の脇を、凪が走り抜けていく。陽子はもう凪の眼中に無い。工藤と斉木も続いて追う。
陽子は既に、圭介を許していた。
死にたいと求める事も、生きていたくないと忌避する事も、全ては生命があって初めて生まれる煩悶だからだ。そうした病的な欲求や願望が生じるのは、生命という健常な土壌があるからだ。
死にたければ死ねば良かった。生きていたくないなら、やめれば良かった。その選択を、陽子はいくらでも取る事が出来た。なのに、しなかった……それだけだ。
ならばもし、足下から大地が崩れ落ち、選択を奪われたら、どうなるだろう。
死にたくとも死ねず、生きたくとも生きられぬ……そうなってしまった時、陽子には何が出来ただろう。想像も付かない。
だが圭介は、陽子が考えも付かない様な選択を取った。
愛する者を自らの手に掛ける。破壊されゆく日常を、自らの手で壊し尽くす。
それがどれだけ苦しい事か、己の腕を浅く切るだけで誤魔化せる様な、浅はかな苦悶しか抱いていなかった陽子には、想像を絶していた。
「圭介……」
誰も居ない廊下で、陽子はその名を呼んだ。
今からでも、彼を愛する事が出来ると思った。
もう手遅れだと知りながら。
圭介が特別教室棟を出た時、大声が追ってきた。
「正解だ。ここは全部鍵が掛かってるだろうからな!」
凪の声だ。
圭介は教室棟の階段を駆け上がる。
「それも正解だ!」
飛び込んだ先は、自らのクラスだ。
「正解。鍵を掛けられていない確かな場所は、ここしかない」
圭介は行く手を阻む机を払い除けながら、窓へ向かう。
クレセントを下ろして、窓を開け放つ。ぴゅう、と北風が入り込んだ。そしてサッシに足を掛け、見下ろす。
自転車置き場の青い屋根が見える。それより手前には植え込みが。直下にアスファルト地は少ない。
「だけど……不正解だ」
凪が、肩を上下させながら言った。
「三階の高さから飛び降りた時の致死率は、どれくらいだと思う? たぶん、そう高くはない。運良く死ねるか、運悪く死ねないか。後者の場合、きっと、首か背骨を折るだろう。生き残った君は、どうなると思う」
やっと追い付いた刑事二人は、息を切らせている。
「全身麻痺。良くて半身不随。癌に苦しめられながら、一生をベッドの上か、車椅子で過ごすんだ。君は、そんなで良いのか」
圭介は振り返り、凪を見返す。
その表情には、笑みが浮かんでいた。
「凪……さっきの言葉を返すよ。『馬鹿なんじゃないか?』」
「ボクが……馬鹿だって?」
「ふふ」と、圭介は嘲笑った。
「お前、散々知った風な口を叩いてくれたな。だけど、何も解っていない。だから馬鹿なんだ。お前は何も解っていない」
途端、凪の顔が紅潮した。不敵な笑みでこけにされる事など、凪はこれまで一度も経験に無いのだ。
「何だよ! ボクが、何を解ってないって言うんだ。言ってみろ!」
「はは、ははははは」
圭介は大笑いした。人を一人殺してまで追い詰めた男に嘲られ、駄々を捏ねる様に怒り狂う凪涼太郎という人間が、可笑しくて堪らなかった。
「教えてやるよ、凪。俺はな……『死なない方に賭けてるんだ』」
そう言い残して、圭介は窓から身を投げる。
最大にして最悪の罰を受けるために。
そして圭介は、地獄に落ちた。




