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〇二「彼女らを殺さなければ」

 集会が解散になった後は、暫くの時間があった。

 教師達の会議が開かれているのだろう。本日も通常の日程通り授業をすべきか否か、金井鏡花の殺害について各教室でどう続けて伝えるべきか。また生徒らの精神にいかなるケアを加えるべきか。考えるべき事は多い。しかも「先生」などと呼ばれる大人達にとっても、整理も消化も不可能な事案である。特に金井鏡花の担任をしていた女性教師には過酷なものに違い無い。


 一方で、生徒達は喧々囂々の様子だった。沈黙し悼む者など指折り数える程しか無いだろう。

 日常起こり得ない事件に直面した時、ただただ声を上げて騒ぐのは、極々正常な反応ではある。肉体も精神も、傷が付く事を避けるのは本能だ。故に、身近に起きた殺人という巨大な暴力を前にして、それを自分の内部には受け付けず、あくまで外部で発生した事としようと、声を立て発散していく。

 つまるところ、勝手な憶測や死んだ金井鏡花の風評などを口々に語り合うのは、嘔吐と比喩出来る。

 嘔吐は消化器から毒素を排出する為の生理だ。そうした排泄が出来ない者は中毒症状を起こす。泣きじゃくっている女子が実例だろう。友人の突然の死。勿論その悲しみは大きい。しかし的外れな自責の念、論理的整合性を欠く混乱という毒素を排出し切れていないのだ。

 その子の周囲に群がって、慰めを囁き続ける女は、上手くやっている。代謝に成功している上に、激しく悲嘆する生徒に毒の成分を口移しして、自己を守っているのだろう。


 面白いものだ。


 非日常化に反応する現象を客観視し、内心で失笑しつつ、葦原圭介は席を立った。肉体的な意味で排泄する為だ。狭い部屋の騒がしさから逃れる目的もあるが。

 廊下へ出ると、より喧騒は大きく感じられた。どこの教室も同じ状態だ。トイレなどに至っては、わんわんと反響して全く落ち着かないに違い無い。だから圭介はわざわざ教室棟を離れ、理科実験室や音楽室のある特別教室棟にまで足を運ばざるを得なかった。更に一階下り、特別教室棟二階のトイレに入った。

 それだけ離れれば流石に煩くはない。ただ少々ノイズの様にして、鼓膜が小刻みに振動する。だがそれも、男子トイレの換気扇の回る音が掻き消してくれた。上履きでタイルを踏むぺたりという音も寧ろ聞き心地が良い。

 奥の小便器の前に立った時、圭介は深く呼吸した。アンモニアと芳香剤の混ざった気持ちの悪い臭いがした。けれども、それで圭介はやっと心の平穏を取り戻す事が適ったのだった。

 圭介にすれば、他の生徒達の極めて健常な反応こそ、馬鹿騒ぎでしかない。


 心臓が砂だらけになった様な気がしていた。いや「かさぶた」だろうか。何にせよ、そのこびり付きがいくらか剥がれ落ちた感じがしていた。

 やっと用を足そうとズボンのジッパーを下ろして、圭介は皮肉を感じた。排泄をする。尿意を感じる。生きている証しだ。

 死んでしまったら代謝は無くなる。生命とは、糧を摂取し汚物を排出する、そのサイクルを指すのだろう。

 葦原圭介は生きている。

 だが金井鏡花は死んだ。

 結局、まだ胸の奥は止血されていないのだと、圭介は実感した。


 小便をする事に黄昏れてどうするのだか。

 圭介がさっさと済ませて戻ろうと決意した時、ぺたぺたと足音が近付いてきた。

 教師だろうか。それとも圭介同様に騒ぎを嫌った生徒だろうか。小さな推測と共に足音の方へ目を向けると、やって来たのは、凪だった。


 凪。彼の苗字だ。それしか圭介は知らない。同じ三年生、同じ教室の男子生徒なのだから、名前くらい聞いた事はあるだろうに、記憶に無い。

 印象に残らない男では、決してない。いわゆるイケメンだ。細身だが痩せ過ぎぬ、すらりとした体躯に、制服のブレザーをいつもきっちりと着こなしている。女子の目線に立つなら、きっと少女漫画のヒーローとしても遜色無いはずの容姿だ。

 しかし不思議と凪の周囲には群れが出来ない。いや、あまり男子生徒に興味を持たない圭介にとっては、実際のところ不思議がる様な事柄でもないのだが、やはりそう、外見だけの印象しか無いのだ。


 凪は別段挨拶をする訳でも無く、背筋を伸ばした歩みで圭介につかつかと近寄って、隣に立った。四つも並んでいる便器の中から、わざわざ圭介の隣を選んだのである。

 なんだこいつは。圭介は初めてそう思った。そして、まさかああいう性癖、性的指向の持ち主なのかと疑いを持った。途端、圭介にとっての凪という男が、無関心からメーターを振り切り、おぞましいものへと変貌した。ならば凪の周囲が無人であるのも納得がいく。

 よし、逃げよう。生命の循環などという哲学などすっかり忘れて、圭介は急いで排尿を始めた。

 そこへ。


「なにゆえに、金井は殺されなくっちゃあならなかったんだろう」


 突然、凪が言い出した。声は聞いた事もあろうが、話し掛けられるのは最初だ。芝居がかった様で、妙に抑揚の強い口調である。高校生らしからぬ言葉遣いは、外見同様とも言える。


「さあな」


 圭介はたった一言で返した。この一言以外に何か言い様があっただろうか。


「解らないのかあ」


 と凪が残念そうに言う。


「葦原は何か知っていると思ったんだけどなあ」


 そう言われた時、圭介の排泄はぴたりと止まった。


「どうして」


「あんた、金井と仲良くしてただろ? だからね」


 ああ。圭介の顔は意に無く強張った。

 凪の言う通り、圭介は金井鏡花と親しかった。親密だったのだ。

 ただし、周辺にはそうと悟られぬ様努めていた。同じ三年生ではあるが別の教室だ。互いを訪ねるのはやめておこうと約束していた。惚れた腫れたの話題は子供達には恰好のゴシップであるし、囃されたり茶化されたりしていては、関係に円滑さが欠けていく。だからこっそりと付き合おう、そう約束を交わしていたのだ。

 けれども……見ている奴は見ているのだなと、圭介は思った。確かに接触の機会は少なからずあった。恋人らしい振る舞いを避けていたとは言え、そうした雰囲気に敏感な者なら気付いていたかも知れない。

 凪は群れに属さないだけに、観察に長けた男の様だ。どれ程の目を持っているかは計り知れないが。


 図星が顔に出てしまっていた。凪は圭介の対応を待たずに続けた。だが続く言葉は、かなり唐突なものだった。


「ボクはさ、探偵なんだ」


「は……何だって?」


「探偵だよ。解るだろ。ホームズとか金田一とか、ポワロとか。そういうのをやってるんだ」


 こいつは何を言っているんだ。圭介は眉間に皺を立てた。

 探偵と言えば、いや凪が例に出した名探偵と言えば、その優れた推理力と洞察力とで難事件を解決に導く、カタルシスの権化だ。

 しかし現実の探偵とは、もっとこう、何と言うべきか、肩身の狭い職業である。こそこそと人を尾行して、浮気か何かの悪い素行を調べたり、犬猫を探して歩き回ったり。違法な依頼に荷担してはならないそうだが、言ってみれば、探偵自身が合法的なストーカーなのだから。

 で。凪の弁から察するに、彼が行っている「探偵」は、やはり前者の名探偵なのだろう。高校生探偵。馬鹿馬鹿しい語感である。

 よって圭介は、怪訝な顔をしながらも、ふっと鼻で笑った。


「じゃあ、お前は金井の事件を調べるのか?」


「いいや。調べたりはしないかな。ボクはね、やらされる運動はそれなりにやれるけど、自分で体を使うのは不得意なんだ。面倒くさがりでさ。だから、まあ、理由が解れば良い」


「理由」


「お話に出てくる探偵ってのは、みんな好きでやってるだろ。嫌々引っ張り出される人もいくらかは居るけど、大抵は自分が愉快だから、真相を追っ掛けるのが楽しくてしょうがないからやってるんだ。ボクもご多分に漏れない。ボクの中で納得がいけば、それで良いんだよ。知りたがりなんだなあ」


 成る程。要約すれば、首を突っ込むのが趣味という訳だ。

 圭介はジッパーを上げて、水洗ボタンを押した。


「人が死んだのを楽しむなんて、悪い奴だな。まあ、頑張って。何か解ったら教えてくれよ」


 どうせ何も解りっこ無い。推理小説の主人公は、警察が親切にも協力してくれるか、警察官本人だ。何のつても無い男には、勝手な憶測をいくつか挙げるばかりだろう。

 凪は立ち去ろうとする圭介を追う様に、急いで切り上げて振り向いた。


「いや、いや、もう一つ解ってる事があるんだ」


「はあ」


 チョップする様な、また映画の如き所作でボタンを弾きながら、凪は言った。


「あんたこそ、悪い奴だ」


 ああ、と圭介は思わず首を突き出した。


「何? そりゃ、彼女が殺されて黙ってるなんて、薄情かも知れないけど……」


「薄情じゃないよ。情が強いからこんな所に逃げ込んだんだ。喧しい連中に堪えられなかったんだろう? そういう事を言ってるんじゃあない。あんたは、隠し事をしてる。隠し事をしてる奴は、大体が悪い奴なんだよ」


 圭介は遂に失笑した。は、はは。ならお前は随分正直者なんだろうな。そう思った。


「じゃ、悪は正義の前から消えるよ」


 ぷいと背中を向けてすぐ、圭介の鼻は、芳香剤の刺激臭に鼻腔を痛めた。

 凪は、存外に気を許せない男かも知れない。冗談じみた口振りの裏に、絶えず稼動する思考の気配があった。それに会話の中身からすると、今後も圭介を見張るつもりだろう。警戒すべき相手だ。


 圭介が金井鏡花を殺した事を気取られてはならない。

 まだ二人も残っているのだから。


 彼女らを殺さなければ……。

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