蝦蟇湖の死体
初投稿です。
第一話 蝦蟇湖の死体
蝦蟇湖には、死んだものが戻ってくる。そんな話を、子どもの頃によく聞いた。湖に沈めたものは、いつか必ず湖畔に打ち上げられる。
石でも、財布でも、動物でも。そして、人間でも。
もちろん、そんなことを本気で信じている人間は、この町にはほとんどいなかった。少なくとも、十年前まで。
午前五時四十分。
蝦蟇湖の東側にある遊歩道は、朝霧に包まれていた。湖面はほとんど見えない。白い霧が水面から立ち上がり、湖と空の境目を曖昧にしている。その中を、一人の老人が歩いていた。
毎朝の日課のランニングである。
齢六十八歳になる老人は、もう三十年以上、この湖の周りを歩いている。
雨の日も、雪の日も。
湖畔の桜が散る春も、蝉の声が響く夏も、木々が赤く染まる秋も、何もかもが白く凍る冬も。だから、少しの変化にも敏感であった。最初に気づいたのは、臭いだった。
魚の腐った臭い。
老人は足を止めた。
「なんだ?」
風向きが変わり、鼻を刺すような臭いが、霧の向こうから流れてくる。湖畔には、夏の終わりから秋にかけて、魚の死骸が流れ着くことがある。
だから老人は、それほど珍しいことではない。そう思って歩き出した。
十数歩進んだところで、老人はもう一度足を止めた。今度は、臭いではなかった。
何かが、湖畔の草むらに転がっている。
黒い。
最初は、古いゴミ袋だと思い特に気にしなかった。しかし近づいていくにつれ、それが人間であることに気づいた。
老人の足が止まる。
「おいそこの人」
返事はない。
草むらには、大きな黒いビニールシートが敷かれていた。
その上に、何かが置かれている。
腕。足。胴体。そして頭部があった。
老人は声を出せなかった。喉が震え、視界が歪む。
この湖をずっと見てきた老人にとってその光景は理解できなかった。
人間が。ばらばらにされている。
やがて老人は腰を抜かし、その場に尻もちをついた。そして震える手で、携帯電話を取り出した。119に電話しようとして、指が止まった。
なぜか。
その死体の顔を見ていたからだ。知らない男だった。
少なくとも、最初見つけた時そう思った。だが、老人はもう一度顔を見た。
白い肌。閉じられた瞼。頬の辺りに残った傷。そして、右の眉の上にある、小さな傷跡。老人は、その傷跡を知っていた。
「まさかそんな」
十年前。
町中を騒がせた失踪事件。高校生が一人、突然姿を消した。警察も探した。学校も調べた。家族も、友人も、何年も待った。しかし、見つからなかった。
名前は
「白鳥……京介」
老人の口から、その名前が漏れた。
午前七時十二分。
警察車両が三台、蝦蟇湖の東側に到着した。黄色い規制線が張られ、遊歩道は封鎖された。鑑識が湖畔を歩き回る。刑事たちは、遺体の周囲を調べていた。
「バラバラにされていますね」
若い刑事が言った。
「言わなくても見れば分かる」
隣に立つ刑事が答える。五十代くらいの男だった。
男はしゃがみ込み、遺体の頭部を見た。
「身元は?」
「まだです。ただ…」
「なんだ」
「指紋が取れそうです」
「歯型は?」
「今、鑑定に回しています」
男は頷き、遺体の胸元に視線を落とした。
そこには衣服の切れ端が残っている。
服は古い。十年近く前のものに見えた。
「妙だな」
「何がです?」
「死体が古すぎる」
「はい?」
刑事は遺体を見た。確かに奇妙だった。
発見されたばかりの死体にしては、状態がおかしい。
腐敗が進みすぎていた。
まるで
「十年くらい、どこかに置かれていたみたいだ」
刑事がそう言った瞬間だった。鑑識の一人が声を上げた。
「刑事さん!」
二人が振り返る。
「これ、ポケットから」
鑑識の手には、小さなビニール袋があった。中には、一枚の写真が入っている。
「写真?」
「はい」
刑事が受け取る。写真は古く、色が少し褪せている。
高校の校庭。
十数人の生徒。
中央には教師らしき男が立っている。
おそらく卒業写真か何かだろう。
「撮影時期は?」
「分かりません。ただ、服装を見る限り、かなり古いです。」
刑事は写真を裏返した。裏には薄らと日付が書かれていた。
手書きではない。写真店で印字されたような文字。
そこには、2015.9.18とあった。
刑事の眉が動いた。
「どういうことだ。今日の日付じゃないか」
「はい」
「死体が見つかったのも今日。どうなってやがる。」
奇妙な偶然だった。刑事は写真をもう一度表に返した。
そこには高校生たちが並んでいる。
その中に
一人だけ、見覚えのある顔があった。刑事の表情が変わった。
「どうしました?」
若い刑事が尋ねるが返事は、ない。
写真の右端。少し離れた場所に立っている男子生徒。
黒い髪。細い顔。笑っているわけでもない。ただ、こちらを見ている。
刑事は、その顔を知っていた。
十年前、自身が捜査した事件。あの時の町中の人間なら知っている少年。
突然、消えた高校生。
白鳥京介。
「そんなはずない」
「え?」
「この写真に写っているのは――」
刑事は言葉を失った。写真の中の少年は、明らかに十代だった。
高校生だった頃の顔。
それなのに、写真の裏には2015.9.18と書かれている。
そして写真と一緒に発見された死体は、十年前に失踪した白鳥京介だった。
その日の午後一人の女性が、警察署に呼び出された。
名前は、宮下美咲。現在二十七歳。
十年前、白鳥京介と同じ高校に通っていた。
刑事は、机の向かいに座った美咲を見た。
「白鳥京介という名前を覚えていますか?」
美咲は、一瞬だけ目を伏せた。
「はい」
「どんな人物でした?」
「普通の人です」
「普通?」
「成績も普通。運動も普通。顔も……まあ、普通でした」
美咲は少しだけ笑った。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
「でも、変なところがありました」
「どんな?」
「記憶力です」
刑事がペンを止める。
「記憶力?」
「はい」
美咲は窓の外を見た。
「京介って、昔のことを妙に覚えてるんです」
「例えば?」
「私が中学一年のときに、一度だけ言ったこととか」
「どんなことです?」
「くだらないことです」
美咲は少し考えてから言った。
「私が小学生の頃、犬を飼ってたって話をしたことがあるんです。でも、私はその話をしたこと自体、覚えてなかった」
「それを白鳥君は覚えていた?」
「はい」
「他には?」
「先生が昔言ったこととか。誰がどこに座ってたとか。去年の文化祭で誰が何を言ったとか」
美咲はそこで言葉を止めた。
「だから…」
「だから?」
「京介が最後に言っていたことが、今でも忘れられないんです」
刑事は顔を上げた。
「何と言ったんです?」
美咲はしばらく黙っていた。そして、小さな声で答えた。
「俺、昔のことを全部覚えてると思ってた」
「はい」
「でも違った」
「……」
「思い出せないんだ」
美咲は刑事を見る。
「一番大事なことだけ」
夜。
蝦蟇湖には、誰もいなかった。警察が引き上げた後も、規制線だけが残されている。
湖面には月が映っていた。
風が吹く。水面が揺れる。
そのとき、湖畔の少し奥。
誰もいないはずの木々の間から、一人の男が現れた。
男は湖を見ていた。そして、静かに呟いた。
「戻ってきたか」
手には、一枚の写真があった。警察が見つけたものと同じ写真。
男は写真を裏返す
そこには日付が書かれている。
2015.9.18
男は写真をポケットにしまった。
そして湖に向かって、もう一度呟いた。
「京介」
返事はない。当然だ。
十年前に死んだ少年なのだから。
男はそのまま暗闇へ消えていった。湖面だけが、静かに揺れていた。蝦蟇湖には昔から、一つの噂がある。
沈んだものは、必ず一度だけ戻ってくる。
その噂を誰が最初に言い出したのか。知っている人間は、もうほとんど残っていない。
ただ一つだけ確かなことがある。
白鳥京介は十年前に消えた。
そして十年後。彼は、蝦蟇湖から戻ってきた。
死体となって。
――事件は、そこから始まった。
行き当たりばたりこ




