第九章 きらめく雨
1
「待て! 我々を食べても食中毒になるだけだ。食中毒は怖いぞ。下痢、嘔吐、腹痛、発熱、下手をすると死ぬ。おい、聞こえているのか?」
ノリスの必死に警告に、薪を積み直す人喰いが歯を向いた。
「心配無用だ。焼いて喰えば問題はない」
ノリスはため息を着くと柱にもたれた。
「ジャミロ、顔は大丈夫なの?」
「僕は平気だ。ニーナの方は?」
「ううん。あの、ごめんなさい……あなたが嘘をついていると思ったの」
「分かった後だって逃げられたはずだ」
「もしも、あなたがわたしだったら、そうできた?」
ジャミロは首を振った。「……ありがとう、ニーナ」
デルザに殴られた頬は、まだヒリヒリしているが、今はそれどころではない。
「チャンスはある」
ノリスはそう漏らすと、長い鼻を何度か擦り、盛大なくしゃみを放った。するとなんと、二つある鼻の穴の片方から、なんとマッチ棒の先が飛び出した。象の鼻のように、彼はうまくマッチ棒を摘んで、マッチの先を壁にこすり付けて火を点けた。
「冒険に保険は必要だ」ノリスは誇らしげに言った。「いいかね。私が今からロープを焼き切る。それから見張りの連中がよそ見をしたら、一斉に鉄扉の方を目指せ。それから――」
マッチが火で短くなるまで、ノリスが長々と説明した。案の定、彼の鼻先をチリチリと焼いた。「アチチ!」野素っ頓狂な声が上がった。 ノリスの鼻から、火を点けたままのマッチ棒が落ちた。谷底から吹きかける風によって、マッチ棒は坂を転がり続けた。おかしな事に、火は消えそうで、なかなか消えそうにない。
「火が消えにくいと謳った、舶来物のマッチだ。結構な高値だったよ」
ノリスは悠長に説明する間も、マッチ棒は風に吹かれるまま転がり、例の扉まで流れ、下の隙間へと消えていった。扉にある注意書きに、三人に目を止めたのは、ほぼ同時であった。
【火薬庫 火気厳禁】
ニーナ、ジャミロ、ノリスの甲高い悲鳴が鉱山内にこだました。
彼らの奇声を聞きつけ、怪訝に目を光らせる人喰いが確かめに来た。
「いきなり叫んで、どうした?」
「悲鳴の練習だよ。気にしないでくれたまえ」
「そうか。くくく、じきに死ぬほど叫ばしてやる」
人喰いは低く笑いながら、自分の持ち場に戻っていった。
「すまない。私の力が及ばなくて」
彼が諦めているのなら、本当にダメなんだろうか。まさか、こんな最後だとは夢にも思わなかった。
ニーナは、アンディ達を思い出した。最初は誰もが怯えていた。まるで森に入った時の自分みたいに。ノリスの言葉を信じるなら、ちゃんと逃げおおせたはずだ。彼らが無事ならば、自分達の犠牲は決して無駄にはならない。
「わたしこそ、ホントにごめんなさい。塔に行こうと言ったばかりに、ノリスさんまで巻き込んじゃった。ジャミロの言う通りにしておけば……」
「いや、我々が行かなければ、あの子供達は助からなかった。君の訪問で彼らが助かったのであれば、これは天命に違いない」
ドアの隙間からは少しずつではあるが、モクモクと煙が漏れ始める。
大惨事の前触れなど露知らず、人喰い達は準備を終えようとしていた。三人を括る柱の周りに、赤さびの浮いた皿が並べられている。一体が雄叫びを上げると、ナギンの怪物達が、壁の穴倉から次々と這い出て来た。十体、二十体、いや、それ以上の数だった。
三体がかりで、大振りの包丁が運ばれてきた。
「はたして、喰われるのが先か、木っ端微塵が先か」ノリスは目をつぶった。
一体の人喰いが松明を掲げて宣言する。
「兄弟達よ。今年の収穫は事故もあったが、豊作だ。まずは三人。子供、一族の面汚し、そして、奇々怪々な豚人間。生きとし生けるすべての者を、我らの糧にせよ!」
食前の口上と、「ナギンに栄光あれ」の連呼が洞窟の中を満たした。誰もが口を大きく開かせ、突き出た牙から涎が滴っている。
松明を持った奴が近づいて来る。ジャミロは牙をむいて抵抗した。だが、容赦なく、怪物の持つ松明はまっすぐと足元の薪に向かおうとする。
もう今度こそダメだと、ニーナは目を閉じた――。
2
突如、鉄扉の向こうから悲鳴が上がった。
「だ、誰か助けてくれ!」
素っ頓狂な声が鉱山中に響き、ニーナは思わず目を開けた。
「せっかくの食事の前だというのに……」
明らかに機嫌を損ねたデルザが聞いた。他の連中も野次を飛ばす。
「早く鉄扉を閉めてくれ!」
だが、普通ではない態度に異変を察したのか、彼女が命じると、数体が駆け寄って重い鉄扉を締めた。頑丈そうな太いカンヌキを下ろされる。
「さあ、説明おし。何があったんだい?」
「人間の姿をした化け物が来やがった!」
「それは俺達の事じゃないのか?」
誰かが茶化すと、甲高い爆笑が起きた。
「静かにおし!」
デルザの一喝で沈黙に変わったその時――。扉の向こうから誰かが叩きつけた。三回。外からの力で鉄扉の表面が凹んだ。
「貴様らの助っ人か?」
三人も答えようがなかった。ただ、予想もしていなかった出来事に呆然としていた。少なくとも、ノックをするだけで、鉄の門を凹ませるほどの猛者を味方につけた覚えはない。
六回目のノックで、とうとう穴が空いた。隙間から、人の顔が覗いたかと思うと、次の瞬間、獣の顔が映り込んだ。
デルザが合図を出すと共に、人喰い達が次々と扉の前に殺到した。一様に肉食獣の顔を歪ませ、針の牙を立てて、臨戦態勢に備えた。
一方、もぞもぞ動いているノリスをよそに、ジャミロは必死にロープをかみ切ろうしている。ニーナも嫌な予感を扉の向こうに察知していた。
カンヌキがへし折れ、扉が勢い良く内側へ開かれた。
突然の闖入者に人喰い達がたじろいだ。さらに、その顔に彼らは驚きの呻きを漏らし、ニーナの方は心の中で絶叫を上げた。
「バアバの赤ずきんちゃんは、どこに行った?」
そう、あのミセス・オズワルドだった。一度はトロッコもろとも渓谷へと消え、二度目は観覧車の下敷きになったはずの、老婆の顔はあまりにも変貌していた。しわだらけの顔がはがれて下に垂れ下がっている、その下からは長い口ばしと、ぎらついた獣の目、耳を立てたオオカミの顔をさらしていた。
古い童話に『赤ずきん』という話があったが、それとまったく同じだった。おばあさんを食べて変装してオオカミが、今度は赤ずきんを待ち伏せするために、彼女のおばあさんに化ける。
オオカミに似せた顔は、妙にリアルでグロテスクだった。ついでに猟師も出てきて、ズドンと撃ってくれたらいいのにと、ニーナは思った。
人喰い達が一斉に、老婆に向かって襲いかかった。おびただしい数の彼らが次々と覆いかぶさっていくが、老婆の人間離れした力で振り回され、ある者は谷底へ振り落とされ、またある者は壁に投げつけられた。
必死にロープから抜けようとしたが、ロープは頑丈でなかなか解けない。ナギン族が気を取られている今がチャンスだというのに。
一方、火薬庫からは煙が漏れ続けている。ダイナマイトか何かに引火すれば、大爆発する。その前に逃げなくてはいけない。
「ニーナ、ジャミロ! 目をつぶれ。一か八かのイリュージョンだ」
二人は咄嗟に従って目をつぶった。
「いいか。三、二、一、ハイ!」
ニーナは恐る恐る目を開けると、異変に気がついた。隣にいたはずのノリスがいない。彼を挟んだジャミロも目をパチクリさせている。
まさか、マジックで彼は自分自身を消してしまったのだろうか?
いずれにせよ、ロープが緩んだ事で二人は抜け出すのに苦労はしなかった。
「ノリスさん、どこに消えたのかな?」
「ここだ」
いつの間にか、ジャミロの背後に立つノリスに、彼は飛び上がるほど驚いた。
「今のどうやったの?」
「教えてほしいか、ジャミロ君? 種明かしはここを出た後だ」
ニーナは柱から離れる時、無造作に置かれているノリスのリュックを拾った。彼はすっかり忘れているようだった。
三人は開け放たれた入口に走った。だが、扉の前に複数の細長い影が立ちはだかる。先頭に立つデルザが、憤怒の形相で彼らを睨みつけた。
「逃がすものか。貴様らは一人残らずここで死ぬ」
ニーナは持っていたノリスのリュックから、咄嗟にある物を取り出した。そして、それを天井に向かって投げた。
「二人とも、伏せて!」
小箱が地面に落ちて蓋が開いた。突如、竜巻に似た突風が鉱山内に吹き荒れた。薪や食器、果てには採掘用の乗り物が宙に浮かぶ。すべてが箱の中に吸い上げられていく。
「這って逃げるのよ」
地面を這い進みながら、三人は鉄扉を過ぎる。ニーナは重い扉を閉めようとした時、デルザの手が扉越しに伸びて、彼女のマントの端を掴んだ。
「どこにも逃がしやしないよ。お前ら人間は、あたし達の餌に過ぎない。地の果てまで追いかけて喰い殺してやる」
「わたし達は餌にはならない」ニーナは隠し持っていた壜を取り出した。「自分の腕でもかじっていればいい」そして、壜の水をデルザに振りかけた。
数種類の毒草を煎じた劇薬をまともに顔に浴び、ナギンの女は断末魔を上げた。マントを掴んでいた手が離れる。ジャミロが少女の手を握り、外に向かおうとするのを見て、デルザは顔を歪ませた。
「ジャミロ、あんた、自分の母親を殺そうというのかい?」
「ごめんなさい、母さん。僕はもう、耐えられない」
二人は先を行くノリスを追いかけた。デルザの雄叫びが背中に突き刺さる。耳を塞ぎながら、少年少女は懸命に洞穴を駆けた。
追いついたノリスにリュックを返しながら、ニーナは言った。
「ノリスさん、パンドラの箱の事だけど……ごめんなさい」
「気に病む必要はない。あれは神話のアイテムではないのだよ。古の人々が残した遺物だ。家の掃除をする機械、さしずめ、掃除機と呼ぼうか」
話しているうちに前方に外の灯りが見えた直後、何の前触れもなく、耳をつんざく爆音が起きた。同時に強力な風圧が背中を押し上げ、巨人の手で叩かれたように、三人は洞窟からはじき出された。
何度も転びながらも、目まぐるしい視界の端で映ったのは、頂上付近の斜面が膨れ上がり、噴火のように木々や岩が吹き飛ぶ光景だった。
やがて、夜空に砂金が舞い上がり、輝く雨となって地上に降り注いだ。
「ノリスさんはここの宝が欲しかった?」
ジャミロの質問に、大冒険家は苦笑いを浮かべながら首を振った。
「財宝がそれを求める者を選ぶように、冒険家もまた財宝を選ぶ権利がある。血みどろの遺産は、私の趣味じゃない」
高台の近くに、梯子の付いた鉄塔があった。三人は鉄塔の上に登った。上は、錆びた手すりが囲む展望台になっていた。手すりには望遠鏡が付いている。
ニーナは双眼鏡から眼下を眺めた。一面の黒い樹海とその向こうには、村と分かる光の点が散らばっている。七つの集落の他にも、あちこちにも小さな村があった。ナギンの連中は、ここで村の様子を見張っていたのだろう。
七つの村に向かって、森を乱暴にかき分けながら猛進する、無数の群れを見つけた。ニーナはレンズ拡大した。蠢く集団の正体は、ナギンの残党だった。まだ距離はあるものの、確実に彼女の育った故郷と近辺の村々近づきつつある。
オツカイが台無しになった上、住処を追われたナギン一族。怒りに燃える彼らの爪と牙が、餌の子供を送り出した村々に向かうのは、当然の成り行きだった。報酬の金塊を懐に入れ、大手を振りながら逃げるように去った、“育ての親役”の二人も無事では済まないだろう。
「さようなら」
双眼鏡のレンズから目を離すと、ニーナはポツリと言った。
誰に向けた言葉だったのか、彼女自身にも分からなかった。特別な感情は湧かなかった。故郷を見殺しにする罪悪感も、兄を奪われた怒りや悲しみさえも、十二年間の虚ろな思い出もまた脳裏から薄れつつあった。
複雑な表情を浮かべる彼女の肩に、ジャミロは手を置いた。
「この樹海でオツカイが行わる事は二度とない。もう二度と……」
ニーナは沈黙で返した。本当にそうでありたいと切に願いながら。
ノリスは深く息を吸って鼻を収縮させると、二人に呼びかけた。
「我々に残された使命は、生きてこの森を出る事だ。さあ行こう、若者達よ」
「はい!」
同時に発した少年少女の声に、もはや迷いはなかった。
3
ナギンの住処《ガイコツ帽子の塔》を後にして間もなく、はるか後方で爆発音が轟いてから、ヴィクターと妻のエブリンの足取りは自然と早まった。
取り返しのつかない事態が起きた。ヴィクターにはそんな気がしてならない。 否、間違いなくナギンのいる山から光るのが見えた。我々が出てからあの広間で何かが起きたと考えて、ほぼ間違いはないだろう。頭の端でくすぶる焦りが、第六感に激しく警告の点滅させ始めていた。
――まさか、そんなはずはあるまい。今頃、彼らはナギンの胃の中にいる。
「あなた、待って!」後ろから、妻が追いすがる。「何かがおかしいわ」
「だからどうした? とりあえず村に帰るしかないだろ」
やや、いら立ち気に言い返した。
いずれにせよ、今年のオツカイをもって、自分達夫妻は、村の一員として認められる。村長と役員らに直接呼び出されて、そう匂わせる言葉を聞かされた。ここまで来るのに長い時間と苦労を費やした苦労が遂に実を結ぶと言う時に――。
ヴィクターとエブリンの夫妻は村の出身ではない。樹海の外、村人達が忌避する大都会に生まれ育った。
彼らが住んでいた街の一角は、ご多分に漏れず、貧富の差が激しかった。豪華なドレスに身を包む貴婦人を乗せる馬車が通る端では、複数の病気を抱えた浮浪者や性病持ちの売春婦が路頭に迷っていた。
富む側にいれば、こんな場所にはいない。ヴィクターには手に職があったが、暮らしの収入を作るには程遠かった。当然、妻が正規で働ける場所などない。
二人は日々の糧を借金で間に合わせながら暮らしていた。借金の返済が難しくなると、夜逃げを繰り返す日々。その日暮らしと踏み倒しで命を繋いだ。まさに、爪に火を灯す生活だった。
罪悪感など持つ暇もない。正義や道徳や誇りなど、所詮は、金満家が身に付ける宝石の指輪やネックレスと同じで、満たされて初めて持てて、そうでない者には無償の長物に過ぎない。
しばらくして、娘のキャサリンが生まれると、その生活に無理が生じた。同じ頃、街の行政は借金の貸し借りに規制を掛けた事も、その拍車をかけた。もう、安易に金が借りられなくなった。灯していた爪がついに燃え尽き、とうとう、指先の皮膚や骨を焼き焦がし始めたのだ。
乳飲み子のキャサリンを抱えて、二人は故郷の街を出た。未練があるほどの思い出などない。むしろ消し去りたい記憶で溢れている。
森の中を数日間さまよううち、何度も脳裏にちらつく、一家心中という言葉。妄想を実行に移す直前に、七つの村を包囲する丸太の門に辿り着き、さらに巡回する村人に遭遇したのは、まさに奇跡としか言えない。
間もなく村の慣習を知った。ヴィクターは村長に直談判した。村の住人に加えてほしいと願い出たのだ。恥も尊厳もない。あって何になる。反対する役員を頷かせる条件もすでに腹積もりしていたし、躊躇する理由も見つからなかった。
十二年後、ヴィクターは約束通り、実娘のキャサリンを塔へ導いた。事実を知った妻は激しく泣き叫んだが、おかげで見た事のない砂金や宝石を手に入れた。
二年後、次は五歳の双子を引き取った。村人達が遠くの街からさらって連れて来たらしい。ヴィクターは妻に、愛情を持ち過ぎないように警告したが無駄だった。娘を失ったエブリンは、彼らを身勝手なまでに愛情を注ぎ、そして彼らの死を悲しんだ。そして、けろりと忘れたように報酬の宝石を鑑賞の肴に、一生飲めないと思っていた高級銘柄のワインをすすった。
三人の“育ての親役”を歴任したにもかかわらず、彼ら夫妻は依然と村の中では外様の扱いだった。挨拶しても返す者は多くなかった。
双子のオツカイから一年と待たずして、今度は二人の兄妹を預かった。幼子のブライアンと、その兄に抱かれて、安心して眠る赤ん坊の妹。それがニーナだった。ブライアンは自分達が本当の親ではない事を知っている。だが、彼は何も反抗せず、ニーナに教える事もしなかった。
だが、それは警戒していたからかもしれない。ブライアンは昔から利口だった。毎日、教会や学校に入り浸り、本ばかり読んでいた。特にオツカイの事をよく聞き込んでいた、と村人や教師からの報告で聞かされた。
嫌な予感がよぎった。もし、ブライアンがオツカイの事実を知れば、どんな行動を起こすだろうか? 妹を連れて村を脱走でもすれば、おまけにオツカイが森の外に露見すれば、七つの村は終わりだ。そして、自分も妻も。
ヴィクターは即断して、村長にブライアンのオツカイを頼んだ。そして、本人にはそれとなく、妹のオツカイをちらつかせた。もしも、兄弟姉妹で一人がオツカイに出れば、その家は対象から外される。
「すべては、ニーナのためだと思ってくれ」
そう伝えると、ブライアンは反論しなかった。
結局、ブライアンのオツカイは、失敗に終わった。儀式を成功しなか買った子供の“育ての親役”には、村人から厳しい非難が浴びせられた。ヴィクターらには、財産の一部を没収された上に、今日まで配給される金貨も最低限の量に引き下げられた。貧しさに離れていたので苦にはならなかったが、やはり、一度染み着いた贅沢は忘れられない。
あと少しだ。村について、追加の子供の件を話し、子供達を連中の所に連れて行けば、今までの苦労が報われる。晴れて村の一員として、以前のような優雅で安定した暮らしが待っている。
――金貨の山に宝石の海、贅沢な食べ物に高い酒……そしてレンガ造りの家。今年のオツカイは思わぬアクシデントのために冷や汗をかいたが、収穫は例年よりも大きい。責任回避のためにも、逃げた子供の件は上手くごまかさなくてはいけない。村の長達がナギンの要求を飲んで、改めて七人分を追加、《ガイコツ帽子の塔》に送り出せば、今年のオツカイは終わる。ゴールはもう間近だ。
「あなた……あの人達がいる」
長い追想と妄想に耽っていた夫の肩を、エブリンが押した。
前方と左右、それに振り返ると後方にも、先ほど別れたはずの人喰いの連中がいた。一様に、息遣いが荒い。《ガイコツ帽子の塔》でしか顔を合わせていないせいか、森の中にいる彼らは一層グロテスクで不気味な存在感を放っていた。まさにヒトモドキと呼ばれて相応しい醜悪な姿だと、ヴィクターは毒づいた。それから自分達が囲まれているのに気がついた。
「まだ何か用があるのか? 今から新しい子共を連れて来るから、もう少し待っていてくれないか」
「もうその必要はねえよ」
「何だって?」
「あんたらとの関係は今夜限り終わりだ」
最初、何を言っているのか理解できなかった。オツカイが終わる? 脈絡もなく放たれた言葉を整理すると、ヴィクターは狼狽の表情を浮かべた。それでもとぼけた振りをした。
「意味が分からない。私達に過ちはない」
「自分達の胸に手を置いてみろ。猛毒の生贄を仕込みやがって」
「猛毒?」
「お前達が差し向けた、悪魔の娘のせいだ!」
「ニーナが? 馬鹿な。あの娘は兄と違って愚鈍で臆病になるように仕込んだ。間違っても、あんた達に爪を立てるなどできるはずが――」
「窮鼠猫を噛むって言うだろ。お前達の目が節穴だったんだよ。本当に愚鈍はお前達の方さ」
じりじりと迫ってくる人喰い達。終わった。瞬時に切り替えたヴィクターは躊躇なく、エブリンを突き飛ばした。後方の怪物達の隙間をかいくぐり、背後で妻の断末魔に背後に聞き流しながら、無我夢中で森の中を走る。
やはり、さっきの爆発音は致命傷だったのだ。すべてが瓦解した。オツカイ成功の名誉と地位も報酬も満ち足りた余生の未来図もすべて。一体何をしたというのだ? 自分達は無事に子供達を引き渡したはずなのに……。ニーナ……やはり、ブライアンの妹だ。あの娘も兄と同じく毒蛇。富を求める者の足に毒牙を立て、破滅に陥れる魔童。なぜ、我々の元にあの子達が回ってきた? 今までうまくいっていたはず……まだまだ、これからだったのに。
急に体が前に傾き、ヴィクターはつんのめる体勢で地面に倒れた。ぬかるんだ地面に足を取られたのだ。眼鏡がどこかへ飛び、ついでに、懐に仕舞っていた金塊が外に飛び出した。小気味の良い音を鳴らしながら地面に散らばる。必死に拾い集めたが暗い森、それも眼鏡無しではどうしようもない。
――自分達が何か悪い事をしたか? ヴィクターは地面を殴りつけたい衝動に駆られた。
「見ぃつけた」
上から歓喜の声が響いた。人間でないのは確かである。
「俺らは今から村の奴らを喰いに行く。だが、その前に試食といくかな」
「待ってくれ! どうか、見逃してくれ。私は元々村人ではない」
「あんたがどこの誰であろうと、生きた人間には違いない。この森に入った時点で、あんたも村人の奴らと運命共同体なんだよ」
ヴィクターは、以前の悲惨な暮らしに思いを思い出していた。そうだ、いつものように、生まれたばかりのキャサリンの鳴き声で憂鬱な朝を迎え、昼はしがない小金稼ぎに精を出し、夜は安い酒を肴に夜逃げの算段に頭を悩ます日々が待っているはず、と。
人喰い達が彼を取り囲んだ。一様に口を広げ、牙から唾液を垂らす。
「これは現実ではない! 全部夢だ。夢に違いない……」
「ああ、そうさ。永遠に目覚める事のない、悪夢の森へようこそ!」
誰彼の合図もなく、何十体もの人喰い達が俊敏な動きで一斉に襲いかかる。最初の一体が彼の喉笛に喰らいつき、強靭な顎で食道と気管をまとめて噛み千切ったせいかもしれない。先立った妻みたいに盛大な断末魔を上げる余裕など、今のヴィクターには一秒たりとも残されていなかった。
地面に散らばったままの砂金は、闇の中で輝きを燦然と放ち続けた。