Chapter 4
その日の放課後、少年は旧校舎の前まで来ていた。
来年取り壊しが決まっている旧校舎。正面玄関には立ち入り禁止を告げる何枚もの板が打ち付けられており、とてもじゃないが入り込めそうにもない。少年は旧校舎の裏側へ回ると、ポケットから鍵を取り出し勝手口のドアを開けた。
ガタガタと立て付けの悪い引き戸を開けると、むせ返るような埃とカビの匂いが襲ってきた。口元を押さえ、少年は旧校舎内に侵入する。
湿った空気の中、ギシギシと軋む木造の廊下を歩く。陽は沈みかけ、窓から差し込むオレンジ色の光が少年の行く先を照らしている。暫く進むと、二階へと続く朽ちかけた階段が見えてきた。その目の前には、等身大の自分を映し出す大きな古ぼけた鏡がある。恐らくここが黒いラブレターに書かれていた待ち合わせの場所に違いない。
少年は鏡の前に立つと、年季の入った木製の枠にそっと触れた。しっとりとした冷たい感触が指先から伝わってくる。噂ではこの鏡は、旧校舎が建てられた当時からこの場所にあると言う。
この鏡は今まで何を映してきたのだろうか。そして、今日こいつは一体何をその目に焼き付けるのだろうか。
少年は黙って鏡を見つめる。だが、その瞳に映っているのは鏡に映る自分の姿では無い。その自分の背後に佇む女生徒の姿だ。
「それにしても、まさかあなたがこんな場所にまで来るなんてね」
階段の手すりにもたれながら、内田が言った。
少年が、自分から何か行動を起こすような人間では無い事を内田は知っている。都市伝説の解明調査だって、内田が無理やり少年を引っ張りまわしているだけで、彼から積極的に参加してくれている訳では無いのだ。文句こそ言わないが、彼が内心面倒だと思っている事くらい内田は気がついていた。だが今回は違った。放課後になって、少年から内田に黒いラブレターに書かれていた待ち合わせ場所に行ってみようと誘ってきたのである。
内田は、旧校舎の鍵を職員室から無断で拝借し、自分の目の前でチラつかせていた少年の顔を思い出していた。あの時、少年は本当に嬉しそうに無邪気に笑っていた。普段とはあまりにも違うその表情、行動に、内田は心底驚いたのだ。
「黒いラブレターを読んでおきながら、その指定場所にわざわざやって来るなんて、あの噂を信じていないのか、それともよっぽどの命知らずなのか。どちらにしろ、あなたって長生きできないタイプよね」
「君だけには、言われたくないな」
鏡から手を離し、少年は薄い笑みを浮かべると内田に向き直った。
「それに、あの手紙は僕宛に届いたものじゃない。僕が殺される事は無いさ」
「どうしてそんな事が言い切れるのよ。だって、あのラブレターを読んだ人はみんな死んでいるのよ?」
内田がそう言うと、少年は呆れた顔を見せた。
「君はまさか、死んだ男子生徒達に何の関連性も無かったとでも思っているのかい?」
少年の言葉に内田はきょとんとした。
「殺された三人の男子生徒、そして鈴木はクラスは違うけど同じグループのメンバーだよ」
「そうなの?」
「ああ。四人とも成績優秀な上にあのルックスだろ? やはり人間は似た者同士集まるものさ。よく彼らがつるんで行動していたのを僕も何度か見かけた事があるし、あのグループにはファンクラブもあったぐらいだからね。相当目立つ存在だったと思ったけど?」
「無知で悪かったわね。私は俗世間には疎いんです」
内田は少年に向かって舌を出すと、あっかんべーをした。
「と言う事は、殺された三人と友達だった鈴木君に黒いラブレターが届いたのは単なる偶然ではなく、犯人が意図的にあのグループのメンバーを選んで殺害しているって事よね。だったら、彼らを選ぶその理由って一体何なのかしら?」
額に指を当て、内田はう~んと考えている。
その疑問に、少年は鏡越しに答えた。
「次々と変死した三人の被害者だけど、実は彼らには良くない噂がある」
「良くない噂?」
ゆっくりと振り向き、少年は内田を見つめた。
「彼らはあのルックスだ。当時は相当もてていたし、女遊びもかなり激しかったらしい。彼らに弄ばれて泣いた女生徒は少なくないって話だよ」
そこまで少年が話した所で、内田は、はたと何かに気がついたように手を叩いた。
「そう言えば昼間会ったあの子達、彼女は騙されたって言っていた……。もしかして、その弄ばれた女生徒の中に、今野さんも含まれていたって事?」
「あくまでも可能性の話だけどね」
「なるほど。じゃあ、失恋をした今野さんはそれを苦に自殺した……」
内田は、一人納得した様子でうんうんと頷いている。
だが、少年は首を振った。
「いや、そう結論づけるのは早いと思う。だって考えてもみなよ。戦時中の話ならいざ知らず、今時の子が失恋したぐらいで自殺なんてしないだろう。それとも、君は失恋をしたくらいで、死にたいなんて考えた事があるとでも?」
意地悪な笑みを浮かべながら、少年は内田に問いかける。
内田はぷぅと頬を膨らませた。
「ふん、そもそもそんな出会いすら無い事くらい、いつも一緒に居るあなただったら知っているでしょ? て言うか、あなた、分かってて聞いているでしょ」
「ご名答」
不機嫌そうな内田を煽るかのように、少年は小馬鹿にした笑みを浮かべる。
そんな少年の態度に、眉を吊り上げた内田が手を振り上げた、その時だった。
突然裏口の方から物音がし、続けて懐中電灯の光が少年たちに向かって放たれた。驚いた内田は、振り上げていた手を慌てて引っ込めた。
「誰か来た……」
「隠れよう」
少年は、急いで階段の影に身を潜めた。
突然の侵入者は、きしむ廊下を歩きながらゆっくりとこちらへと向かってくる。
懐中電灯の光が鏡に反射し侵入者の姿が鏡に映し出された。その人物とは、少年のクラスメイト、鈴木だった。
「あれって……鈴木君? 確か彼は今日学校休みだったはずじゃ……」
「僕が呼んだのさ」
少年の言葉に、内田は驚いた表情を見せた。
「なんで彼を呼んだりするのよ。ここは、あの黒いラブレターの待ち合わせ場所よ。当の本人を呼ぶなんて危険じゃない」
「君は知りたくないのかい? 今回の事件の真相を」
振り向きもせず、少年はジッと鈴木を見据えながら呟く。
「そりゃ知りたいけど……」
「それに、僕はこの目で見たいんだよ」
「何を?」
少年はゆっくりと内田に向き直ると、口元を裂けんばかりにニィと広げた。そして、目を大きく広げ嬉しそうに言った。
「人が死ぬ瞬間ってのをね」
その時、内田は少年に違和感を感じた。一瞬の事だが、少年の右目にぽっかりと空洞が出来ているように見えたのだ。驚いた内田は、瞬きを繰り返し再度少年の目を見る。だが、少年の目は、元の底無し沼のような暗い瞳のままだった。
「おい、誰か! 誰かいないのか!」
陽はすっかり沈み、旧校舎の中は既に真っ暗だった。鈴木は懐中電灯を振り回しながら、怖いと思う気持ちを誤魔化そうと、必要以上に大きな声で少年の名を叫んでいる。そんな彼の様子を、少年は息を潜めながら観察していた。
「彼、あなたの事呼んでいるわよ」
「気にしなくていいよ」
少年は冷たくそう言い放つと、まるで獲物を狙う獣のような目で鈴木をジッと見つめ始めた。
「ちくしょう……なんで俺がこんな場所に来なくちゃならないんだ……」
肩をすくめ、その身を縮こまらせながら鈴木は呟く。
今日の昼頃、鈴木の携帯に少年から突然の電話があった。
「今野美香、彼女の事で話があるんだ」
少年の口から突然その名を言われ、鈴木は心底驚いた。
何故今頃になって、しかもあの事とは無関係なはずの奴から彼女の名が?
奴は電話で、来ないと全てをバラすとも言っていた。しかも、待ち合わせ場所を黒いラブレターと同じこの旧校舎に指定してきた。俺が黒いラブレターを受け取った時、奴は偶然あの場に現れた。あの時はなんとも思っていなかったが、今思えばあれは偶然なんかじゃない。奴は何かを知っている。知っていてあの場に現れたのだ。
復讐……。
鈴木の脳裏に、その二文字が浮かび上がった。
仲間の三人が次々と惨殺され、その彼らの元には黒いラブレターが届いていた。そして、ついにその黒いラブレターが俺の元にも届いた。俺はその時既に分かっていた。このラブレターは単なる恋文なんかじゃない。これは、れっきとした殺人予告である事を。
三ヶ月前に自殺した今野美香。その後次々と殺された仲間達。それらが導き出す答えは、あの事しか考えられない。奴は今野と何かしらの関係があり、復讐のため俺を殺そうとしているのでは……。
鈴木の心臓がバクバクと高鳴り、荒い息遣いが旧校舎内に響き渡る。
奴はこの旧校舎のどこかに潜み、俺を殺そうと様子を伺っているのかもしれない。何処だ。奴は何処に隠れている?
その時、鈴木の目の前に突然黒い影が現れ立ちはだかった。
「ひっ!」
驚いた鈴木は、慌てて懐中電灯をその影に向けた。そして次の瞬間、ほっと胸を撫で下ろした。それは鏡に映った自分の姿だった。
「な、なんだ鏡かよ。脅かしやがって……」
安堵の溜息を吐きながら、鈴木は鏡を睨み付けた。
とその時、唐突に鈴木の脳裏に黒いラブレターの文面が蘇った。
『放課後、旧校舎の鏡の中で待っています』
鏡に映る鈴木の顔からサーッと血の気が引いていく。
旧校舎の鏡。そう、ここが黒いラブレターに書かれていた待ち合わせ場所、そして殺人予告に指定された場所だった。
古ぼけた大きな鏡が、懐中電灯に照らされ不気味に光輝いている。それは、まるで鈴木をどこかの異世界へと誘う入り口のようにも見えた。
その時、突然鏡に映る鈴木の背後に、すーっと音も無く黒い影が浮かび上がった。朧げなその黒い影は、少しずつその形を鮮明に現していき、そしてその姿がはっきりと映し出された時、鈴木は目を大きく見開いた。そこに現れたのは、三ヶ月前にマンションから飛び降りて死んだはずの今野美香だった。