プロローグ
青く薄暗い電灯の光に照らされ、彼女は台の上で静かに横たわっていた。その周りには、重い表情を浮かべる医師と、彼女のクラスの担任が佇んでいる。
僕は、突然目の前に突きつけられた現実を未だに理解出来ていなかった。ゆっくりと彼女の元へ歩み寄り、物言わなくなったその姿を見つめる。
「目を覚まして下さいよ先輩。またいつものイタズラなんでしょ?」
霊安室内に僕の声だけが静かに鳴り響く。だが、彼女からの返事は無かった。
僕の手元から、青いハンカチが零れ落ちる。
あの日、先輩の見舞いに病院にやって来た僕は、彼女が病室の窓から落ちてくるのを目の前で目撃した。このハンカチは、その時彼女が手にしていた物だった。
「すまない。もう少し僕が早く駆けつけていれば、彼女の自殺を止める事が出来たかもしれないのに……」
「自殺だって? そんな馬鹿な!」
担任の言葉に、僕は食って掛かった。
確かに、あの事件は彼女にとってショックな出来事だったに違いない。だが、あの時彼女は僕に言ったんだ。家族の分まで自分は生きてみせると。そして、この事件の犯人を自分の手で捕まえてみせると。だから僕には、自らの命を絶ってしまった彼女の行動がどうしても信じられなかったのだ。
背後で、医師と担任が何かを話していた。だが、僕の耳にその内容は伝わってこない。ただ、黙って横たわる彼女の姿だけを見つめていた。
それから、どの位の時間が経ったのだろうか。
気がつくと霊安室には誰も居なく、僕と彼女だけが取り残されていた。恐らく、悲観に明け暮れる僕に気を使って、みな部屋から出て行ってしまったのだろう。
僕は改めて彼女を見つめた。
元々雪のように肌の白かった彼女。青白い今の肌の色は生前となんら変わらない。
もしかしたら、これは何かの冗談で彼女は死んだフリをしているだけなんじゃないか?
そんなありもしない想像をしながら、僕は彼女の腕を手に取る。だが、彼女の手は氷のように冷たかった。
「僕と約束したじゃないですか先輩。一緒にこの事件を解決しようって。それなのに何故自殺なんて……」
「彼女は殺されたんだよ」
突然聞こえた背後からの声に、僕は驚きながら振り向いた。そこには、一人の男が佇んでいた。
少年のような無垢な笑みを携え、男は僕を見つめている。その顔には見覚えがあった。確か、彼女と同じクラスの男子生徒だ。恐らく、彼もこの事を聞きつけ彼女に会いに来たのだろう。
「殺されたって……。一体誰に……?」
「決まっているじゃない。あの事件の犯人だよ」
その言葉に、僕は顔を強張らせた。
「彼女の一家を皆殺しにしたあの事件の犯人が、彼女を病室の窓から突き落としたのさ」
男から突然告げられた話に、僕は言葉を失った。だが、すぐに心の奥で何かが芽生え始める。それは、怒りの感情だった。すぐにその感情は憎しみへと変わり、やがて最後に殺意へと変わった。
「犯人が憎いかい?」
まるで僕の気持ちを見透かしたように、男は薄い笑みを浮かべながら顔を覗き込んで聞いてくる。その声は、僕の耳では無く直接心に問いかけてくるようだった。
拳を握り締め、僕は頷く。
「……ええ。僕は犯人を殺してやりたい程憎い」
「なら、その復讐に力を貸してあげようか?」
男の口が、裂けんばかりにニィと広がった。
「僕は、この事件の犯人を知っているんだ」
その時、僕は思わず自分の目を疑った。何故なら、彼の瞳がまるで燃え盛る炎のように赤く光り輝いて見えたからだ。驚いた僕は瞬きをし、もう一度彼の瞳を見つめる。だが、彼の目は赤くなど無く、光の無い深い闇に覆われていた。
男は何も言わず、黙って僕を見つめ返事を待っている。
多少の面識はあるとは言え、僕は校内で彼と話した事などなかった。僕にとって彼は、彼女のクラスにいる一人の男子生徒と言う認識しか無い。そんな彼に、突然こんな話を聞かされても、普段の僕なら信じたりはしなかっただろう。だがこの時の僕は、彼女の死を目の前にして正常な判断が出来なかったのかもしれない。そして何よりも、彼の言葉、瞳には人を信じさせる何かがあった。
その深い瞳に吸い込まれそうになりながら、僕はゆっくりと頷く。
「交渉成立だね」
彼は満面の笑みを浮かべると、懐から何かを取り出した。それは、銀色の鎖に繋がれている丸い水晶だった。よく見ると、それは人間の眼球のような形をしていた。見る角度によって様々な色に変化するその水晶は、見る者を虜にする魔性の光を放っていた。
「これは、嘆きのタリスマンと言ってね。きっと君の復讐に役立つと思うよ」
そう言って、彼はその水晶を僕に差し出した。
僕はその水晶を手に取る。すると、突然僕の頭に何者かの声が聞こえてきた。
――殺せ!
まるで悪魔が誘いかけているような、不気味な声が僕の頭の中で鳴り響く。僕は頭を抱え、その場にうずくまった。
「彼女を殺した犯人が憎いんでしょ? 殺したいんでしょ? だったら殺しちゃいなよ。きっと彼女もそれを望んでいるはずさ。彼女の無念を君の手で晴らしてあげるんだ」
男の声と共に、抑えきれない程の怒りと憎しみ、そして殺意の感情が僕の中に流れ込んでくる。それはまるで、血に溶け込んだ狂気が全身を駆け巡っているようだった。
「やめろっ!」
僕は叫びながら、手に持つ水晶を思いっきり床に叩きつけた。パンと空気が弾けたような音を立て、水晶は粉々に砕け散る。
「……彼女は、そんな事を求めてなんかいない」
僕の荒い息遣いが部屋に響き渡る。僕は男を睨みつけた。
「それに、復讐をした所で彼女は生き返らないんだ……」
男は、意外だと言った表情で驚いていた。だが、すぐに何かを思いついたようで、ポンと手を叩く。
「じゃあ、こうしよう」
そう言うと、男はいきなり何を思ったのか自分で自分の目に指を突き刺した。
突然の男の行動に、僕は唖然とする。
ブチブチと神経の切れる嫌な音が鳴り響き、彼は自分の眼球を抉り出した。
「僕のこの目を君に貸してあげるよ」
ニコリと微笑みながら、男は血まみれの眼球を僕に差し出す。
一瞬僕は、目の前で何が起きているのか理解出来なかった。頭が混乱する。夢でも見ているのだろうか?
ボタボタと右目から血を流しながら、男が僕に歩み寄ってくる。
僕はガタガタと震えながら、後ずさった。
「うわあああああああっ!」
恐怖に叫びながら、僕は部屋のドアに向かって駆け出した。ドアノブを掴み、ガチャガチャと捻る。
「彼女を生き返らせたくは無いのかい?」
男のその言葉に、僕は動きを止めた。そして、震えながらゆっくりと振り向く。
「彼女を……生き返らせる?」
男は頷く。
「彼女を見てみなよ」
男が台の上で寝かされている彼女を指差す。
僕は言われるがまま、彼女を見つめる。そして気がついた。彼女の肩が僅かに揺れ息をしている事に。
慌てて僕は彼女の元に駆け寄り、腕を手に取って脈を計った。相変わらずその腕は冷たかったが、彼女の鼓動が指先から伝わってくる。彼女は確かに生きていた。
「体は蘇生させたよ。だけどね、まだ彼女は完全に生き返った訳じゃない。言うなれば、それはただの抜け殻さ」
その声は、僕の耳元で聞こえた。驚きながら振り向くと、すぐ真後ろに彼が佇んでいた。彼はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべ、僕を見つめていた。
「……抜け殻?」
「そう。体は生き返ったけど、彼女の魂はこの世に彷徨ったままなんだ。今のままじゃ、植物人間となんら変わらない。一度体から離れた魂を元に戻す為には、君にも協力してもらわないとね」
ベロリと、人とは思えない程の長さの舌で、男は舌なめずりをした。
「あなたは一体……」
「僕? 僕は単なる彼女のクラスメイトさ」
ニィと口元が裂けんばかりに、男の口が邪悪に広がる。
「……僕は、何をすればいい?」
僕の言葉に、男は満足そうに頷く。
「なぁに、簡単さ。君は彼女を蘇らせる為に、この目を使ってある事をすればいい」
「ある事?」
男が僕の目の前まで歩み寄る。
「死を見つめる事さ」
男の指がゆっくりと僕の右目に近づいてくる。そして、ブチリと言った神経の切れる耳障りな音と共に、僕の視界は閉ざされた。