Chapter 8
「ふざけやがって……俺を殺すだと? 殺されるのはお前の方だよ」
見ると、顔を押さえてのた打ち回る伊東と、彼女を見下ろしながら佇む辻の姿があった。辻のその手には、波打った刃を持つ奇妙な形をしたナイフが握られている。
「また俺様を怒らせやがったな? 死んでからも俺を怒らせるとは、お前もつくづく懲りない奴だよ」
そう言いながら、辻はその手に握るナイフを振り下ろし、伊東を突き刺した。
「ぎゃああああああっ!」
「霊でも痛がるのかよ! お前、死んでいるんだぜ? 死んでいるのに、何を痛がっているんだよ! それとも、もう一度死んでみるか?」
光悦の表情を浮かべながら、辻は狂ったようにナイフを振り下ろし伊東をめった刺しにする。ナイフが伊東の体を貫くたび、彼女の泣き叫ぶ声は段々と小さくなり、やがて彼女はピクリとも動かなくなった。
「どうして? どうして生身のあいつが伊東さんに触れる事が出来るの?」
驚きの表情で、内田は少年の肩を掴み揺さ振った。
少年はガクガクと首を揺らしながら、スッと辻を指差す。
「あれだよ。あのナイフだ」
言われるがまま内田は目を細め辻を見つめた。確かに、言われた通り辻の手には奇妙な形をしたナイフらしきものが握られている。
「あれは、霊を切り裂く事が出来るクリス・ナイフだ」
「クリス・ナイフ? それってどういう……」
「詳しくはネットで」
少年に質問をシャットアウトされた内田は、ぷぅと頬を膨らませた。
「って言うか、なんでそんなものをあいつがが持っているのよ」
「そんな事、僕に聞かれても知らないよ」
辻は倒れている伊東からナイフをゆっくりと引き抜いた。外灯に照らされ、伊東の返り血を浴び真っ赤に染め上がった辻の姿が暗闇に浮かび上がる。辻はゆっくりと首を動かすと血走った目を少年に向けた。その顔には、亀裂が走ったような不気味な笑みが浮かんでいた。
「なんだかヤバイ雰囲気ね……。あの目は、絶対に私たちも狙っている目よ」
「逃げよう」
だが、少年が駆け出そうとした時、突然彼の足が何者かに捕まれた。足元を見ると、真っ白な手が地面から伸び少年の足首を掴んでいる。
「なるほど、こうやって使う訳か」
辻はポケットから何かを取り出すと、それを見つめた。それは、増岡が持っていた物と同じ、人間の眼球をモチーフにした水晶、タリスマンだった。
ペロリとナイフに舌舐めずりをした辻は、猛然と少年に向かって走って来た。
少年はその場から逃げようとするが、地面から伸びた白い手に足首を捕まれ身動きが取れない。そんな少年と辻との間に、内田が両手を広げて立ちはだかった。
「ここは私に任せて」
いきなりの内田の行動に、少年は驚いた表情を見せた。
「僕の事はいいから早く逃げるんだ。いくら君でも、あのナイフが相手じゃ分が悪い」
だが、内田はニコリと微笑むだけでその場を動こうとしない。
「もしかして、私の事を心配してくれてるの?」
「そんな事を言っている場合か! 早く逃げろ、本当に殺されるぞ!」
珍しく声を荒げる少年を見て、内田は目を細め嬉しそうに微笑んだ。
「私ね、あなたがそうやって声を荒げるの初めて見たかも。クールないつものあなたもいいけど、熱いあなたも悪くないわね」
そう言って、パチリとウィンクをした内田は、迫る辻に向き直る。
少年との間に立ちはだかった内田を見た辻は、一瞬驚いた顔を見せた。だが、すぐに狂気の顔に戻ると、走るそのままの勢いで内田に向かってナイフを突き出した。
「何だてめぇは! 一体何処から現れやがった! お前も切り刻まれたいのか!」
「おあいにくさま。あなたなんかにやられる私じゃないわ。それにね、私はあなたよりも、もっと怖い人を知っているのよ」
迫るナイフをかわした内田は、すれ違い様に辻に体当たりをした。バランスを崩した辻は、倒れまいと体勢を整えながら内田に向かって闇雲にナイフを振り回す。
「痛っ」
辻の振り回したナイフの切っ先が、内田の手首を切りつけた。手首から流れ落ちる血が、真っ白な指先を流れ、地面に向かってポタリと落ちる。
「女のくせに、男に歯向かうとはいい度胸してるじゃねぇか」
その言葉に、内田は手首を押さえながら呆れた顔を見せた。
「あなた、さっきから『女のくせに女のくせに』って、いったい何様のつもり? 今は男女平等の時代なのよ。ほんと、時代錯誤もいい所だわ」
「けっ、何を言っていやがる。女は黙って男の言う事に従っていればいいんだ! 俺様に生意気な口を聞くな! 意見するんじゃねぇ! てめぇも、あいつと同じように切り刻んでやるよ!」
「それは無理ね」
そう言って、内田はゆっくりと手のひらを開いて見せた。そこには、辻が持っていたはずのタリスマンがあった。
「な? いつの間に!」
その時、唖然とする辻の肩をトントンと叩く者がいた。驚いた辻が慌てて振り向くと、その頬に拳がめり込み、辻は勢いよく吹き飛んだ。
「ホラ、怖い人が来ちゃった」
「やれやれ、君もなかなかの無茶をする」
拳をさすりながら、少年は内田を見つめると、フッと微笑んだ。
普段あまり見せない少年の優しげな笑顔に、内田は内心ドキリとする。思わず顔を赤らめた内田は、少年に見られないよう咄嗟に俯いた。
「て、てめぇ……よくも、やりやがったな」
「あなたは、やってはいけない事を三つ犯した」
そう言って、少年は倒れている辻に向かって三本の指を突きつけた。
「一つは、霊を傷つけ冒涜した事。一つは、この僕に刃を向けた事。そして……」
少年は内田の元に歩み寄ると、そっと傷ついた手首に触れた。
「もう一つは、内田を傷つけた事だ」
少年は内田からタリスマンを受け取ると、それを握り締め何かを念じ始めた。すると、無数の白い手が地面からヌッと現れ、倒れている辻の手足を掴んだ。
「な? は、離せ!」
少年は辻にゆっくりと歩み寄ると、薄い笑みを浮かべながら彼を見下ろす。
「辻さん、あなたはそのナイフとこのタリスマンを何処で手に入れたのですか? これらは、その辺の店で売っているような代物じゃない」
少年の言葉に、辻は不敵な笑みを見せた。
「お前、本当は俺が誰からもらったのか知っているんだろ? あいつは、お前と同じ目をしていたぜ?」
辻の言葉に、少年は珍しく驚いた顔を見せた。だが、すぐに元の無表情な顔に戻ると、光の無い暗く淀んだ瞳で辻を見つめた。まるで虫けらを見るような、その無感情な少年の瞳に、辻はブルッと身震いをした。
「さて、あなたの処遇については、彼女に決めてもらいましょうか」
少年は交差点の方へと視線を向けた。つられて辻も同じ方向を見つめる。そこには、外灯に照らされヨタヨタとこちらへ歩いてくる人間の姿が見えた。
「さ、沙耶……」
それは、辻に切り刻まれより一層無残な姿となった伊東だった。
「伊東さん、こっちですよ、こっちこっち」
パンパンと手を叩きながら、少年は楽しそうに伊東を誘導する。
残ったもう片方の目も辻に潰された伊東は、聞こえる音と気配だけを頼りにゆっくりと近づいてくる。切り刻まれた全身から血を流し、腹から飛び出した腸をズルズルと引きずりながら歩いてくるその様は、もはや人間ではない完全な化け物だった。
「や、やめろ! ち、近づくな!」
伊東が近づくたび、辻は必死になって起き上がろうとするが、全身を白い手に捕まれ身動きが取れない。そんな半狂乱になりながら叫ぶ辻の元に伊東が辿り着いた。伊東は手を伸ばし、辻の頬にヒタリと触れる。その瞬間、辻は青ざめた表情でビクッと身を震わせた。
「ゆ、許してくれ……。お、俺が悪かった……」
伊東はニタリと微笑むと、おもむろにその指を辻の頬にめり込ませた。
「ぎゃあああああああああああ!」
そのまま伊東は辻の頬肉を抉り落とすと、血だらけの歯をむき出しにし、辻の首に噛み付いた。目を見開き叫びながら、辻は動けない体を仰け反らせのたうつ。伊東は、その首の肉をもむしりとった。
暗闇に響き渡る辻の絶叫と共に、その首から真っ赤な鮮血が噴水のように飛び出し、あたり一面を真紅に染めあげた。返り血を浴びてますます赤くなった伊東は、満足気にニタリと微笑むと、突然操り人形の糸が切れたようにバタリと辻の上に突っ伏し、そしてそのまま動かなくなった。
「な、なんで俺がこんな目に……」
ゴポッと口から大量の血を吐き出し、辻は息も絶え絶えにか細い声で呟いた。
そんな辻に向かって、内田は軽蔑の視線を浴びせた。
「女を甘く見るからそんな目に会うのよ。せいぜいあの世で彼女に謝る事ね」
「お、お前らは、勘違いをしている……」
小刻みに震えながら、辻は不敵な笑みを浮かべた。
「言っとくが、こいつの腹にいたガキは、俺のガキじゃねぇ……」
「え?」
辻の言葉に、内田が驚いた顔を見せた。
「俺とこいつの関係なんて、とうの昔に冷めていたのさ。こいつは、俺と加藤以外にも男がいたんだよ。腹にいたガキは、他の男のガキだ……」
「それじゃあ、加藤は……」
「そうだ……、加藤は狂ったんじゃない。あいつは、初めから俺と一緒にこいつを殺す計画に乗っていたんだよ。俺と加藤を騙したこいつを惨たらしく殺すためにな……」
辻は自分の腹の上で倒れている伊東をチラリと見ると、その頭にそっと触れた。そして、一際大きく目を見開いたかと思うと、そのまま動かなくなった。
足元に転がる辻の死体を少年は無感情な瞳で見下ろしている。
そんな少年の背中を見つめていた内田は、一瞬自分の目を疑った。物言わぬ辻の死体から、白い煙のような何かが抜け出し、少年の右目に吸い込まれて行ったように見えたのだ。
「ねぇ、あなた今……」
「何?」
少年が振り向く。その目はいつも通り暗い瞳のままだ。
「いえ、なんでも無いわ……」
きっと見間違いだったのよ……。
何事も無かったように自分を見つめてくる少年に、気まずくなった内田は思わず視線を逸らした。
少年は、その場で前かがみになると、鞄から取り出した手袋をはめ、辻の手に握られていたナイフを奪い取った。
辻のシャツで返り血を拭い、少年はそのナイフを頭上に掲げる。
月の光に照らされたナイフは、眩い銀色の光を放っていた。