Chapter 6
「これは酷いわね……」
散々に荒されたドアを見て内田が呟く。
あれから少年と内田は、加藤が住んでいたアパートまで来ていた。
部屋のドアや窓には、加藤に対する誹謗中傷がカラースプレーで書き殴られている。郵便受けには、数週間前の新聞や広告のチラシが詰め込まれており、この部屋の住人が暫く戻ってきていない事を示していた。
地方出身者である加藤は、大学に通うため実家を離れこのアパートで一人暮らしをしていたと言う。品行方正で真面目と言われていた彼が、何故あのような事件を起こしたのか、動機についてもこの事件は謎が多い。ネットの住人達は、この事件についてある事無い事を面白おかしく書き連ね論争を繰り返していた。犯罪を犯した人間には、人権が存在しなくなると言うが、恐らくこの落書きも掲示板を見て触発された無関係な人間が行ったものだろう。
少年はドアに書かれている落書きを一瞥すると、ポケットから鍵を取り出した。ここに来る途中に立ち寄った不動産屋から借りたこの部屋の鍵だ。
不動産屋の男は、部屋の荷物を引き取りに来たと告げると、少年が何者かろくに確認もせず喜んで鍵を貸してくれた。なんでもあの事件が起きて以来、加藤の家族は後始末に追われ忙しいらしく、部屋を放置され困っていたそうだ。
鍵を差込みドアを開けると、埃臭い匂いが外へと飛び出した。目の前は、すぐに畳が敷かれた六畳一間の和室が広がっている。少年は、律儀に靴を脱ぐと鞄からスリッパを出して履き変え、部屋に足を踏み入れた。
部屋は恐らく加藤が捕まる直前の状態のままなのであろう。脱ぎっぱなしの服や、台所には洗われていない食器等が放置されていた。部屋の奥の角には小さい机が見える。その隣にはカラーボックスが置かれており、窓から差し込む夕日の光に照らされていた。
「ここが犯罪者が住んでいた家なのね。こんな場所に入れるなんて、そうそう無い事よ」
内田は大きな黒い瞳を輝かせ、物珍しそうにキョロキョロと部屋を見渡している。
少年は、部屋を一通り見回すと奥にある机に歩み寄った。
机の上には、大学の授業で使っていたのか、何かの参考書が立てかけられていた。その横には、埃をかぶった写真立てが置いてある。少年はそれを手に取った。
「これは……」
「何々? どうしたの?」
思わず声をあげた少年に、内田が後ろから写真を覗き込んだ。そこには、生前の姿をした伊東を中心に二人の男が並んで映っていた。見覚えの無い右の男は、恐らく加藤だろう。そしてその逆側には、昨日の夜に事故現場で出会った男、辻の姿があった。
「ねぇ、これって……」
驚く内田に、少年が頷く。
「この三人は見知った仲だった、と言う事か」
少年はフムと頷くと、再び写真に目を落とした。
「昨日の辻の話によれば、最初に伊東さんと彼が付き合っていた。そして、二人は別れる事になり、次に加藤があなたと付き合う事になった。そう言う事ですよね? 伊東さん」
そう言って、少年はゆっくりと振り返った。その視線の先には、玄関で佇む伊東の姿がある。伊東は自分の体を抱きしめ、その身を小刻みに震わせていた。
少年は伊東の側まで歩み寄ると、満面の笑みを浮かべた。
「別に隠す必要は無いんですよ。三人の仲の良い男女が揃い、一人の女のせいでそれがバラバラに引き裂かれる。そんな事は、世の中では日常茶飯事に行われている事なんですから。何もそれをあなたが気に病む必要は無いんです」
「ちょ、ちょっとそんな言い方しなくても」
諌めようとする内田を無視し、少年は目を見開きさらに楽しそうに続ける。
「そして、あなたは辻を捨ててまで選んだ最愛の男に殺されたんだ。車で三キロも引きずられ惨たらしくね。その抉られた醜い顔はその時によるものですか? 可哀想に、この写真を見る限りあなたは美しい人だった。それがどうですか、今は見る影も無い。今の姿を加藤が見たらどう思うでしょうね。少しは罪の意識に悩まされるのでしょうか?」
「もうやめて……」
伊東が消え入りそうな声で呟く。だが、少年はやめない。
「あなたは加藤に殺されたんだ。なのに現実を受けいられず、未だこんな所で彷徨っている。そろそろ認めたらどうですか。私は、最愛の彼に轢き殺された可哀想な女だって」
「もうやめてええええっ!!」
伊東の悲痛な叫び声が部屋中に響き渡る。
その声に内田は驚いた顔を見せた。
「い、今の声は?」
辺りをキョロキョロと見回す内田を見て、少年は呆れた顔でやれやれと首を振った。
「やっと君にも彼女の声が聞こえたのか」
そう言うと、少年は呆然と佇む伊東の横を通り過ぎ、無言で靴に履き替えた。
もう用は無いと言わんばかりに、そのまま部屋を出て行こうとする少年の背中に、内田が慌てて話しかけた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。これって事件解決って事? 結局、彼女を殺したのは加藤って事なの?」
ドアノブに手をかけたまま、少年は振り向かずにゆっくりと口を開く。
「確かに彼女を殺したのは加藤だと思うよ。それは彼女の反応を見れば良く分かる。だけど、まだ真犯人が残っているんだよ。この事件を演出した本当の犯人がね」
そう言って、少年は振り向くと、いつの間にかその手に持っていた一冊の本を内田に見せた。
「さっき、その机の上で見つけたんだ」
その本を見た内田は、目を見開き驚きの表情を見せた。
「こ、これって……」
「恐らく、今回の事件の全ての理由がこれに集約する。そして、加藤が犯行に及んだその動機もね」
そう言い残し、少年はそのまま部屋を出て行った。
慌ててその後を内田が追いかけていく。
「ちょっと待ってよ。鍵はかけなくてもいいの?」
後には一人、伊東だけが残された。
「加藤君じゃない。加藤君がそんな事するハズないもの。そンなコとスるハズないモノ。ソンナコトスルハズナイモノ……」
誰も居ない暗い部屋の中で、伊東はいつまでもそう呟き続けていた。