第一章 第一話 七聖獣の物語
世界がまだ世界と呼べる形を持たず、空と大地の境さえ定まっていなかった遥かな昔、そこには国も、村も、道も、ましてや人々が暮らす家々も存在していなかったという。山は生まれておらず、海は満ちず、風がどこへ吹けばよいのかさえ知らなかった。夜はあまりにも深く、朝はまだ名を与えられていない。生命が根を張るべき土も、身体を温める火も、乾いた喉を潤す水もなく、ただ形を持たない静寂だけが、果ての見えない世界へ広がっていた。
その混沌へ最初の炎をもたらしたのが、不死鳥だった。巨大な翼を広げて暗闇を渡り、その羽根からこぼれ落ちた火によって、世界は初めて温度を知ったという。火は夜を照らし、冷え切った大地を温め、やがて生き物が食べ物を焼き、灯りを囲み、互いの顔を見るための力となった。しかし、不死鳥が与えた火は暖かさだけをもたらすものではない。扱いを誤れば森を焼き、家を奪い、命さえ呑み込む。だから火とは、与えられたことそのものよりも、それをどう使うかによって意味が変わる力なのだと、古い物語では語られている。
続いて現れたのはグリフィンだった。獅子のように力強い身体と、空を覆うほどの大きな翼を持つ聖獣が羽ばたくと、それまで静止していた空気が初めて流れ始めた。風は山を越え、谷を渡り、雲を運び、季節を巡らせ、種を遠くへ飛ばし、やがて海を渡る者たちの帆を押すようになった。人々がいつの日か、生まれた場所を離れて遠い土地へ旅立てるようになったのも、グリフィンが空に道を開いたからだと伝えられている。
大地に緑を広げたのはキツネだった。九つの尾を持つと伝えられる美しい聖獣が森を歩くたび、足元から草が芽吹き、樹木が枝を伸ばし、まだ色を知らなかった世界へ無数の花が咲いた。果実が実り、小さな虫や獣たちが生まれ、その命を追う別の命も現れる。森も草原も、やがて人々が耕す畑へ姿を変える植物も、その始まりを辿れば、キツネが世界へ与えた自然へ行き着くのだという。
水をもたらしたのはネラリスだった。山々さえ小さく見えるほど巨大な海蛇が世界を巡り、その鱗から滴った雫が雨となり、川となり、泉となって大地を満たしていった。やがて低い場所へ水が集まり、果ての見えない海が生まれる。魚が泳ぎ、人魚たちが深い海へ住み、川辺には町が築かれた。雨も、雪解け水も、井戸の底から湧き出す一滴も、遥かな昔にネラリスが世界へ与えた恵みの続きなのだと語られている。
けれど、水と緑だけでは、人々が立つ大地はまだ脆かった。そこで現れたのがウルリクムミだった。岩そのものが歩き出したような巨体で世界を踏み固め、地面を持ち上げ、山を造り、谷を刻み、数え切れない鉱石を大地の奥深くへ眠らせた。建物を支える石も、鍬や剣へ姿を変える金属も、暖炉へ積まれる鉱物も、大地から得られるものの多くは、ウルリクムミが後の生命へ残した贈り物なのだという。
生命が増え、種族が増え、やがて人間、エルフ、獣人、ゴブリン、竜人、翼を持つ者、角を持つ者、水の中で生きる者たちまで世界へ広がると、異なる者同士が共に生きるための知恵と決まりが必要になった。そこで姿を現したのが麒麟だった。静かな威厳を宿す聖獣は、世界へ法と知恵を与え、力のある者がただ弱い者を従わせるのではなく、互いに言葉を交わし、学び、考え、何が正しいのかを問い続けるための礎を築いたのだと伝えられている。
そして最後に現れたのが、エイラヴェルだった。白い毛並みと大きな翼、美しく枝分かれした角を持つ聖なる牝鹿。彼女が歩いた土地では、争う者の怒りが僅かに静まり、怯える者も隣にいる誰かの声へ耳を傾けられるようになった。ただし、エイラヴェルは誰かへ誰かを愛することを強いることはできなかった。愛を命じれば、それはもう愛ではないからだ。彼女が世界へ与えたのは、恐怖や憎しみだけに心を支配されず、自分自身で誰かを大切にすることを選べる余地だった。それゆえエイラヴェルは、平和と愛をもたらした聖獣として語り継がれている。
「それで?」
幼い声が物語を止めた。暖炉の薪がぱちりと弾け、橙色の火の粉が一瞬だけ舞い上がる。創世の時代から遥か未来、山も海も森も町も、そして数え切れないほどの種族もすでに存在する世界。その片隅にある小さな村ラークホロウで、七歳のアレン・ヴェイレンは寝台の上へ座り、母親が読んでいる古びた本を食い入るように見つめていた。黒い髪は眠る前だというのにあちこちへ跳ね、炎の光を受けるたび、その内側には僅かな赤銅色やくすんだ薔薇色が浮かぶ。大きな琥珀金色の瞳は眠気などまるで知らないように輝き、掛けられていたはずの毛布は、とうに腰の辺りまで蹴り落とされていた。
「『それで?』って?」
寝台の横に座るエララが尋ねる。アレンの母は、村の大人たちと並んでもひどく若く見える女性だった。艶のある黒髪には薔薇を思わせる赤みが混じり、肩から胸元へ流れる髪が暖炉の明かりを柔らかく反射している。穏やかな琥珀色の瞳を持ち、今夜は飾り気の少ない象牙色の室内着の上へ青緑色の肩掛けを羽織っていた。左手の薬指には、長い年月を経たことを思わせる細かな傷のついた指輪が一本だけ嵌められている。
「そのあと七聖獣はどうしたの?」
「世界を見守った、と言われているわ」
「今も?」
「そう信じている人は多いわね」
「いるの?」
「どうでしょう」
エララが曖昧に笑うと、アレンは納得できないという顔で眉を寄せた。
「物語なのに、お母さん知らないの?」
「物語を知っていることと、今どこにいるか知っていることは別でしょう?」
「じゃあ、死んだ?」
「聖獣に普通の生き物と同じ意味で寿命があるのか、それすら誰も知らないわ」
「じゃあ生きてるかもしれない」
「そうね」
その返事を聞いた瞬間、アレンの表情がぱっと明るくなった。
「なら僕、会いに行く」
「……誰に?」
「七聖獣」
あまりにも当然のことのように言われ、エララは一度だけ瞬きをした。
「七頭全部?」
「うん」
「一頭だけじゃなくて?」
「全部」
「どうして?」
「だって、みんな世界作ったんでしょ? 本当にいるなら見たい」
アレンは毛布の上へ身を乗り出し、指を一本ずつ折りながら、まだ見たこともない旅の順番を真剣に考え始めた。
「最初に不死鳥。火を出すところ見たい。でも近づいたら服燃える?」
「可能性はあるんじゃない?」
「じゃあ水持っていく」
「随分小さな水で不死鳥に挑むのね」
「いっぱい持つ」
「重いわよ」
そこで少し考え、今度は二本目の指を折った。
「次、グリフィン」
「空を飛んでいたら?」
「山に登る」
「もっと高く飛んだら?」
「もっと高い山」
「山より高かったら?」
アレンは口を開いたまま止まり、しばらく真剣に悩んだ末、ようやく答えを見つけた。
「……待つ」
「何を?」
「降りてくるの」
「賢明ね」
「それからキツネは森にいるでしょ? ネラリスは海だから泳ぐ。ウルリクムミは山。麒麟は……どこにいるの?」
「それが分かったら、探す必要がなくなるでしょう?」
「そっか」
五本の指を使い切ったアレンは反対の手へ移ったが、六つ目まで数えたところで急に動きを止めた。
「……あと誰だっけ」
「もう忘れたの?」
「忘れてない。今出てくる」
「そう?」
「白い鹿で、翼あって……エ……エイ……」
エララは笑いを堪えるように口元を緩めながら、それでも答えを先に言わず待った。
「エイラヴェル」
「あっ、それ!」
「七頭全部に会うと言った人が、もう名前を忘れてるじゃない」
「一回だけ!」
頬を膨らませたアレンは、今度こそ忘れまいとするように背筋を伸ばした。
「もう覚えた。エイラヴェル。絶対忘れない」
「本当に?」
「本当」
七歳の少年は、まるで大切な誓いでもするように何度かその名を口の中で繰り返した。エララはその様子を微笑ましそうに見つめていたが、やがて開いた本へ視線を落とす。古びた頁には、不死鳥、グリフィン、キツネ、巨大な海蛇、石の巨人、麒麟、そして翼を持つ白い牝鹿という七頭の聖獣が描かれていた。アレンはまだ、母が最後の白い牝鹿を見つめる時間だけ、ほかの聖獣よりほんの少し長いことには気づいていなかった。
「でも、会いに行くなら強くならないと」
突然そう言い出した息子へ、エララは本から視線を戻した。
「どうして?」
「旅するから。今日トーマが言ってた。村の外には盗賊とか魔物がいるって」
「トーマのお兄さんが言っていた、の間違いじゃない?」
「同じだよ」
「かなり違うと思うけれど」
「だから剣教えて」
エララは本を閉じた。
「またその話?」
「今度は本気」
「三日前、棒を剣だと言って振り回して自分の足を叩いた子が?」
「あれは事故」
「二回も?」
「二回目も事故」
「同じ場所を?」
「……ちょっと違う場所だった」
エララはとうとう声を出して笑った。アレンは不満そうに母を睨んだものの、それで諦めるつもりはないらしく、毛布の上で両手を握り締める。
「僕、強くなる。そしたら七聖獣探しに行ける」
「強くなれば何をしても大丈夫、というわけじゃないのよ」
「じゃあ何がいる?」
「まず、もっと大きくなること」
「それは勝手になる」
「よく食べること」
「食べてる」
「野菜を残さないこと」
「それは関係ない」
「大いに関係あります」
二人はしばらく真剣な顔で見つめ合い、結局、アレンの方が先に視線を逸らした。
「……明日の人参は食べる」
「明日だけ?」
「明後日も」
「それなら考えておくわ」
「剣?」
「剣」
アレンの顔が再び輝いた。
「本当!?」
「今すぐとは言ってないでしょう?」
「いつ?」
「そのうち」
「そのうちっていつ?」
「アレン」
エララは寝台から落ちかけていた毛布を引き上げ、息子の胸まで掛け直した。
「もう寝る時間よ」
「まだ眠くない」
「さっき欠伸していたけれど」
「してない」
「大きな口を開けて?」
「呼吸しただけ」
「随分豪快な呼吸ね」
アレンはすぐに反論しようとしたが、その途中で本当に大きな欠伸が出た。慌てて両手で口を塞いでももう遅く、エララは楽しそうに笑っている。
窓の外では、夜のラークホロウが静かに眠り始めていた。村の中央を通る街道も昼間の賑わいを失い、家々の明かりは少しずつ消えていく。この村で暮らしているのは人間だけではない。犬人族の夜警が門を巡り、猫人族のパン職人は明日の仕込みを終え、少し離れた鍛冶場ではゴブリンの職人が最後の炉を落とす頃だった。エルフの薬草師もいれば、季節によって村を訪れるケンタウロスの旅人たちもいる。異なる姿を持つ者たちは、アレンにとって生まれたときから同じ村や街道を行き交う、ごく普通の人々だった。
それでも七聖獣だけは違う。誰も簡単には会えず、本当に存在するのかさえ分からない。だからこそアレンは、いつか自分の目で確かめてみたかった。
「お母さん」
毛布へ潜り込みながら、アレンがもう一度呼んだ。
「今度は何?」
「お父さんも七聖獣見たことあるかな」
エララの笑みが、ごく僅かに止まった。この家には父親がいない。アレンは幼い頃からそのことを知っていたが、父が死んだとは聞かされていないし、いつ帰ってくるとも教えられていない。家の中には父の肖像画もなく、かつて使っていたという剣や服、旅道具さえ残されていなかった。
「どうかしら」
「お父さん、旅してたんでしょ?」
「遠い場所を知っている人だったわ」
「強かった?」
エララは少し考えてから答えた。
「ええ。とても」
「お母さんより?」
「さあ、それはどうでしょうね」
「戦ったことあるの?」
「秘密」
「ずるい」
アレンは毛布から顔だけを出した。
「どんな人だった?」
エララはすぐには答えなかった。暖炉の炎が小さく揺れ、左手の古い指輪へ橙色の光を落とす。彼女はそれを無意識に親指で撫でてから、静かに口を開いた。
「遠い場所へ行くことを怖がらない人だった。とても強くて、少し頑固で……それから、不思議なくらい広い空が似合う人だったわ」
「空?」
「ええ。どこにいても、まるで最初から開けた空の下にいるべき人みたいだった」
アレンは数秒ほど真剣に考えた。
「鳥?」
「人よ」
「でも空が似合うんでしょ?」
「それと鳥は別でしょう」
「じゃあ冒険者?」
「そう思っておけばいいんじゃない?」
エララは笑っていたが、それが肯定なのか、単に答えを避けただけなのか、七歳のアレンにはまだ分からなかった。
「僕が旅したら会えるかな」
今度は、それまでより少しだけ声が小さかった。
「お父さんに?」
「うん」
エララは息子を見つめた。長い沈黙ではない。それでもアレンには、母がどの言葉を使うべきか選んでいるように見えた。
「いつか、あなたが本当に自分の足で世界を歩くようになったら……会えることもあるかもしれないわね」
「本当?」
「『かもしれない』よ」
「じゃあ探す」
「七聖獣に加えて?」
「うん」
「ずいぶん忙しい旅になりそうね」
アレンは指を折って数えようとしたものの、途中で面倒になったのか手を下ろした。
「大丈夫。遠かったら、その分いっぱい歩けばいいから」
エララの表情が僅かに静まった。
「……そう」
「歩けば着くでしょ?」
「必ずとは限らないわ」
「でも歩かなかったら絶対着かない」
七歳の少年にとって、それは世界で最も単純な理屈だった。エララはしばらく何も言わず息子を見つめ、それから毛布の上から胸元を優しく撫でた。
「そうね。歩かなければ、見つからないものもあるわ」
「だから僕、行く」
「まず明日ちゃんと起きられたらね」
「起きる」
「朝寝坊したら?」
「しない」
「本当に?」
「絶対」
その自信に満ちた返事から大して時間も経たないうちに、アレンの瞼はゆっくりと重くなっていった。まだ何かを話そうとしていた口も次第に動かなくなり、やがて規則正しい寝息へ変わる。エララはしばらく寝台の横へ座ったまま、眠った息子を見つめていた。
「七頭全部、か……」
小さな呟きに返事はない。アレンはもう夢の中にいた。
広い草原を走る少年の上を巨大な不死鳥が飛び、遥か高空ではグリフィンが翼を広げていた。森の木々のあいだから九つの尾を持つキツネが姿を現し、青い海では巨大なネラリスが長い身体をくねらせる。山の向こうには岩の巨人ウルリクムミが立ち、その先では気高い麒麟が静かにこちらを見つめ、さらに遠くには大きな翼と美しい角を持つ白い牝鹿エイラヴェルの姿があった。夢の中のアレンは、その誰にもまだ会ったことがないというのに少しも迷わず、七つの姿へ向かって歩き続けていた。
七歳の少年はまだ、父が今どこにいるのかも、本当はどのような人物なのかも知らない。母がときおり問いへの答えを曖昧にする理由も、左手の古い指輪にどのような思い出が残されているのかも知らなかった。毎晩のように聞いてきた七聖獣の物語についても、今の彼にとってはただ胸を躍らせる遠い昔の物語でしかなく、その向こうにどれほど広い世界と、まだ知らない真実が待っているのかを想像することさえできない。
この夜のアレンが知っていたのは、世界のどこかに七聖獣が本当にいるのなら、いつか必ず自分の目で会ってみたいということ。そして、いつかラークホロウの外へ出て、自分の足でまだ見たことのない世界を歩いてみたいということだけだった。
それがアレン・ヴェイレンにとって、まだ見ぬ世界へ向けて生まれた最初の夢だった。
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