186年 趙慈の乱01
中平三年、晩冬。湖陽の湿原を数ヶ月にわたって支配していた、皮膚を刺すような厳しい寒さがようやく和らぎをみせ、凍てついていた白河の泥の底から、青臭い新たな芽吹きが微かに顔を覗かせ始めた頃、劉憲の元へ届いたのは、せっかくの春の柔らかな陽光すら一瞬で凍りつかせるような凶報であった。
「……徐璆様が、罷免された、と?」
劉憲が手にした、洛陽からの伝令がもたらした古い竹簡を握る指先に、じわじわと白くなるほどの強い力がこもる。冷え切った竹の表面が、彼の皮膚に硬く食い込んでいた。
かつて南陽太守としての汚職を徐璆によって暴かれ、命からがら職を追われたはずの元太守・張忠が、都の権勢を握る十常侍ら宦官の徒と裏で固く結託し、ありもしない讒言を朝廷の耳に弄したのだという。
正義を貫き、泥を啜って民を救った者が不当に泥を塗られ、不義を働いて私腹を肥やした者が上座で肥え太る。漢室の腐敗はいよいよ、その根幹から末期的な崩壊を迎えていた。
「正方、手の動きが止まっているぞ。墨が乾いてしまうな」
役所の薄暗い一角で、李厳は新しく調達した粗末な木机に向かい、冬の間に傷んだ堤防の修繕計画を記した木簡の束を整理していた。窓からは、まだ冷たさを残した湿った風が吹き込み、部屋の隅に置かれた炭盆の灰を頼りなく揺らしている。
「止めたくもなりますよ、孝子。せっかく冬を越した麦の芽が順調に育ち、正当な徴税の計画がようやく立ちそうだったというのに。
あの徐璆様が荊州の刺史の座におられたからこそ、我らのような名もなき義勇軍も、官という確かな枠組みの中で、秦頡らの嫌がらせを受けずに堂々と動けていたものを」
李厳は手にしていた筆を、墨壺の縁にカチリと静かな音を立てて置くと、苦渋に満ちた深い横顔で吐き捨てた。彼の目の下に刻まれた濃い隈が、この数ヶ月の激務を物語っている。
荊州全体の確固たる防波堤であった徐璆という巨大な重石が外れてしまえば、これまで無理に抑え込まれていた中央の濁流が、この湖陽の小さな開墾地へと一気に溢れ出してくるのは目に見えていた。
「こめかみの辺りが、今朝から妙に痛む理由がようやく分かった。天が荒れる前触れだったのだ。劉憲様、洛陽へ少々の手土産を贈り、張忠の首を夜陰に乗じてすり替えて来ようか」
部屋の入り口に音もなく佇んでいた周倉が、戟の柄に太い指先を這わせながら、冗談ともつかぬ低い声で呟いた。彼の着ている毛皮からは、まだ冬の猟でついた獣の油の匂いが微かに漂っている。
「馬鹿を言うな、周倉。そんなことをすれば、今度こそ我々は正真正銘の逆賊だ。それよりも、お前は少し表の風に当たって、頭を冷やしてこい。正方、お前は少し目を休めろ。目が真っ赤だぞ。私は少し、襄陽まで行ってくる」
劉憲は竹簡を机に置くと、衣服の埃を軽く払い、即座に動き出した。彼は湖陽の市に集まる商人たちの中から、口の堅い者を募り、行商の荷車に仕立てた密偵として荊州の各郡へと素早く放った。
情報の正確な真偽と、徐璆の後任として送り込まれる新たな刺史の人事、その背後にある洛陽の動きを探らせるためである。そして自らは、再びあの竹林の奥に潜む襄陽の龐徳公の庵へと、一頭の馬を急がせた。
襄陽の竹林は、冬の終わりの乾いた風を受けて、ざわざわと硬い音を立てて鳴り響いていた。庵の周囲には、凍てついた土が融けかけたことによる、独特の土の生臭い匂いが立ち込めている。
「先生、お耳に入っているかとは存じますが、急ぎお聞きしたいことがございます。徐璆様に代わって新しく荊州に赴任する刺史とは、一体いかなる人物なのかご存知でしょうか」
再会した龐徳公は、いつになく火の通りが悪い冷えた囲炉裏の前に座り、向朗が渋い顔で温めた、いささか質の落ちる苦い酒を小さな杯で煽っていた。パチリと炭が爆ぜる乾いた音が、静寂に消える。龐徳公は、吐き捨てるように濁った声で答えた。
「王叡という者になるようだ。巨先が今朝から、あの男の過去の悪評を記した古い書物を裏で熱心に整理しておるが、読む価値もないな。有り体に言えば、洛陽の去勢された犬よ。
己の器の小ささを露ほども弁えず、中央の宦官どもへせっせと民の血税を賄賂として送り、ただ己の栄達の梯子をいかに高く登るかということのみに執着する、極めて度し難い小人物だ。民を安んじ、この乱れた世を正そうなどという大志は、あの男の肥え太った腹の中には一欠片も残っておらんよ」
龐徳公の冷徹な言葉を聞き、劉憲は静かに瞳を伏せた。天井の隙間から差し込む薄い光の屈折が、彼の端正な顔半分を暗がりに沈めている。
徐璆のような、大局を見て理を通じる相手ではない。己の私欲と保身のためにのみ動く小人物が組織の頂点に立つということは、実力を持ち始めた地方の官吏や、独自に民を集めて勢力を強める劉憲のような存在は、彼にとってただの排除すべき邪魔者か、あるいは自らの点数を上げるために搾取すべき格好の獲物でしかなくなる。
「先生、貴重な平穏の時間を割いていただき、感謝いたします。……いよいよ、この荊州の風向きが大きく変わりましたな」
「左様。劉憲殿、これからは自らの背後に伸びる影にも、十分に気を配るがよかろう。飼い主に節操なく尾を振る犬というものはな、身内の飼い主には決して吠えぬが、肉を持つ隣人が通りかかった時、その足首を不意に噛みち切ることには、奇妙なほど長けておるものだからな」
龐徳公の、深い警告の籠もった言葉を耳の奥に刻みつけ、劉憲は再び陽の沈みかけた湖陽への道を、馬の腹を蹴って戻った。
彼の頭の中では、泥を踏み締める蹄の規則的な音に合わせて、王叡がこれから確実に仕掛けてくるであろう嫌がらせの数々、すなわち理不尽な徴税の強化や、兵権の不当な剥奪、あるいは流民の受け入れ禁止命令に対する、幾重もの目に見えぬ強固な防壁の設計図が、すでに構築され始めていた。
帰着した役所の部屋は、夜の帳が降りてすっかり冷え切っていた。劉憲は、火の消えかけた炭盆の前に立ち、戻ってきたばかりの周倉に向き直った。
「周倉、すぐに仲業をここへ呼べ。湖陽の周囲の砦の守りを、これまでの倍に固めるぞ。正方には申し訳ないが、明日からまた新しい帳簿の裏を掻いてもらう。これからは、外からやってくる黄巾の残党のような賊だけでなく、利を掠め貪る内の牙とも、泥の中で戦わねばならんのだからな」
暗闇の中で響いた劉憲のその命令は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、そして氷のような響きを帯びて、部屋の壁に冷たく跳ね返った。




