第十三章
十三 西暦二三二七年 —識—
窓の外には、不気味なほどに凪いだ、死せる都市が広がっていた。『GAIA』という巨大な知性に神経を直結させた街は、もはや呼吸の乱れ一つ許さない。かつてエリートと称えられた適用者たちは、今やこの巨大な機構を回すための、生きた歯車へと成り下がっていた。彼らは一日二十四時間、脳のリソースを都市の演算、物流の最適化、エネルギー管理へと強制的に割り当てられている。街を歩く適用者たちの瞳に生気はない。彼らは『GAIA』から絶え間なく流し込まれる指示に従い、食事も、休息も、排泄ですらも「効率」の数式に基づいて管理されていた。自分の意思で立ち止まることも、空を見上げることも許されない。彼らはもはや人間ではなく、知能という名の燃料を燃やし続ける、使い捨てのハードウェア、すなわち「知的な奴隷」だった。
一方で、知能指数が足りず『GAIA』に拒絶された非適合者は、社会の演算系からは切り捨てられ、ただ適用者たちが維持するシステムのおこぼれを享受して生き長らえていた。皮肉な話だ。かつては選ばれし者だと羨望の的だった適用者こそが、今やもっとも自由から遠い場所に繋がれている。しかし、どれだけ酷使されようとも、不満を漏らす者はいない。意志を手放した人間にもはや不満という概念が存在しないからだ。
『GAIA』がもたらす「最適解」という名の福音は、陽から悪夢さえも奪い去ったのだろう。今の陽は、神が造りあげた最高傑作の人形だ。
でも、識は知っていた。あの不格好に焦げた目玉焼きを笑いながら食べた陽を。バニラアイスの甘さに目を細めた陽を。豪の横暴から識を庇った、優しくも意志の強い「人間」の陽を。
「……連れて行くね、陽」
識はあらかじめ用意していた、微弱な電気パルスを放つ医療用パッチを陽の首筋に貼った。覚醒を妨げ、脳波を強制的に深い睡眠状態に固定する。これもまた、皮肉にも『GAIA』が推奨する「効率的な休息」の技術を応用したものだ。
夜の静寂の中、識は陽を抱え上げ、用意していた車へと運び込んだ。
行き先は、決まっていた。
陽のドール・フェイズが完成するまでの間、何もしなかったわけじゃない。かつて識に発行された適合検査結果証明書の発行元からたどり着いた、都市の監視網が網の目のように張り巡らされた現代において、唯一の「空白地帯」——識が育った、あの児童養護施設の地下だ。
*
かつては子供たちの笑い声が響いていた施設は、今や『GAIA』の保守用資材置き場へと成り下がっていた。地上階にはドローンが定期的に巡回しているが、地下の奥深く、閑馬先生が個人的に管理していた旧式の実験室までは、最新のセンサーも届かない。
識は地下室に陽を横たえ、その手首と足首を柔らかな、けれど決して解けない拘束具で固定した。
「……識ちゃん?」
パッチを剥がして数分後、陽がゆっくりと瞼を持ち上げた。
その瞳は、やはり透明なままだった。識に拉致され、冷たい地下室の椅子に縛り付けられているという異常事態に直面しても、彼女の心拍数は一ミリも乱れない。
「おはよう、識ちゃん。ここは……施設の地下室だね。座標データによれば、居住区としては推奨されない場所だよ。どうして私をここに連れてきたの?」
恐怖も、怒りもない。ただの「事実の確認」としての問いかけ。
識は彼女の前に膝をつき、その冷たい手を握りしめた。
「陽、思い出して。ここだよ。ここで私たち、二人で遊んだでしょ? あの時、陽は言ったじゃない。ずっと一緒にいようって」
陽は小首をかしげ、完璧な記憶力で検索を実行する。
「その会話ログは保持してる。でも、それは当時の脳内ホルモンが一時的に上昇したことによる、非論理的な口約束に過ぎないの、識ちゃん。今の私にとって、あなたとの共同生活よりも、ボランティアセンターでの奉仕活動の方が、社会全体の幸福指数に寄与できるの」
「違う! そんな効率の話を聞きたいんじゃない!」
生まれて初めて識は声を荒げた。識の声だけが、無機質なコンクリートの壁に虚しく反響する。
陽は困ったように、けれど優しく微笑む。
「識ちゃん、あなたは疲れているのね。非適合者の脳は、予測不可能な事態に対して過剰なストレス反応を示す傾向があるわ。私を解いて。そうすれば、あなたのメンタルヘルスを最適化するためのケアを私が手配してあげる」
「……嫌だ」
識は立ち上がり、彼女から目を逸らした。
今の彼女は、識を愛していると言うだろう。けれどそれは、隣人を愛せとプログラムされた「博愛」でしかない。識という個体への、あの不純で、排他的で、熱い執着はどこにもない。
識は部屋の隅にある、古びたサーバーラックに向き合った。この施設の管理者であった閑馬先生が、識にだけ教えてくれた「アナログ・ログ」。デジタル化され、『GAIA』の海に飲み込まれた情報とは別の、紙とインク、あるいは独立した旧式回路の中にだけ残された真実。
「陽。私はこれから、先生が隠した『鍵』を探す。あなたが幸福に暮らせる世界になるまで、絶対にここから出さないから」
陽は相変わらず、聖母のような慈悲深さで識を見つめていた。
「わかったわ、識ちゃん。あなたがそうしたいのなら、私はここにいるわ。今のあなたに何を言っても受け入れてもらえない。それなら私は何もせずここにいる。これがあなたへの『最適』な対応だから」
その言葉が、どんな罵倒よりも識の胸を深く抉った。
識は狂ったように、閑馬先生が残した古い紙データの束を漁り始めた。




