第七十三滴 記憶の断片
「どう、というのは……」
「そのまんまの意味だよ。珠羅に対して、思ってることを聞かせてほしい」
正直な気持ちが知りたいのだと話す風吹に、天璃は迷うことなく、一つの結論を口にした。
「可愛いです」
「……ん?」
「見た目もですが、中身も可愛いです。つまり、全部可愛いです」
「……んん?」
予想外の答えだったのだろう。困惑した様子の風吹が、戸惑いつつも耳を傾けている。
「温度のない笑顔も、私を見る時のあどけない表情も、甘えるのが好きなのに尽くしたがるところも」
感情が抜け落ちた瞳も、闇夜に浮かぶ月のように柔らかい眼差しも。他者に関心の薄い珠羅が、天璃だけは手放したくないと思っていることも。
「とにかく、何もかもが可愛いんです」
珠羅が天璃に何をしているのか、気づいていない訳ではない。それでも、満足げに笑う珠羅を目にするたび、天璃はこれでいいような気がしてしまうのだ。
「昔……ある人が言ってたんだけどさ。女性が誰かを可愛いくてしかたがないと思うのは、底なしに深い愛情の現れなんだって。天璃は、珠羅のことがすごく好きなんだな」
まるで、心を鈍器で殴られたかのような感覚だった。
──珠羅のことが、好き?
脳内で繰り返した言葉が、空っぽの心を埋めていく。
珠羅のことは大切だ。可愛いとも思うし、最も優先すべき相手だとも思っている。
しかしそれは、珠羅が天璃にとって必要不可欠な存在だからだった。
経験したことのない感覚に、意識がグラグラと揺れ始める。塗り潰された記憶を切り裂くように、稲妻のごとき光が走った。
『目には見えなくとも、心には感触があるのです。悲しければ擦り傷のように痛み、嬉しければ真綿で包まれたかのように温かくなる。愛も同じです。私は貴女を愛しているからこそ、こうしてお傍にいることが、心地よいと思えるのですよ』
誰かも分からない声の主が、なぜだかとても懐かしく感じる。
「あー、なんか安心した! 叶う見込みのない片想いって、苦しいだろ。珠羅には、そんな思いしてほしくなかったからさ」
スッキリした顔で笑う風吹を前にしながら、天璃の目は別の場所を見ていた。
『苦しいんです……っ! 貴女は──でも、私はただ──を──愛──』
先ほどとは別の声だ。けれど、同じくらい懐かしい声に、心を丸ごと鷲掴まれたかのような痛みを覚えた。
「なんか、作業場が騒がしいな」
扉越しに、ざわざわとスタッフの声が響いている。
何かあったのかとドアノブを捻った風吹は、飛び込んできた光景にポカンと口を開けた。
「どれか分からなかったから、全部持ってきちゃった〜」
「はああああ!? ちょ、持ってきすぎだって! 一回で全部運んでくるとか、色々と規格外すぎるだろ!?」
山のように積み上げられた段ボールは、作業場の入口を塞ぎかねないほどだ。片付けの労力を思い、風吹はしょぼくれた犬のように項垂れた。
「天璃ちゃん?」
不意に、珠羅の纏う空気が変わった。
椅子から立ち上がった天璃は、けれど珠羅の方を見ることはなく。胸元を強く握りしめ、引き攣った呼吸を繰り返している。
異変に気づいた風吹が声をかけるよりも早く、崩れかけた天璃の身体を珠羅が抱え込んだ。
「落ち着いて。大丈夫だから」
背中をさする珠羅の手が、一定のリズムを刻む。
「誰か、神領先生を呼んできてくれ!」
スタッフに指示を飛ばす風吹の傍らで、珠羅は荒い呼吸を封じるように、天璃の口を自らの唇で塞いだ。
反射的に身を捩った天璃の後頭部を、傷つけない程度に押さえ込む。
「ナニモミテイマセン」
両手で目を覆った風吹が、弁明の言葉と共に後ろを向いた。
「急患とやらは、どこにいるんだ」
段ボールを押し退けながら入ってきた神領は、普段よりもさらに濃いクマを張り付けている。
徐々に呼吸が整ってきたのを感じ、珠羅は拘束していた腕を緩めると、天璃を抱えたまま立ち上がった。
「またおまえたちか」
げんなりした様子の神領だったが、天璃を目にした途端、一瞬で医者の顔つきに変わる。
「医務室に移るぞ。話はそこで聞く」
珠羅たちを見送るため出口まで付き添った風吹は、ふと珠羅の唇が紅く染まっているのに気づき、心配そうに眉を寄せた。
「珠羅、口のとこ怪我したのか? 血が……」
「ああこれ? ちょっと舌噛んじゃっただけ〜」
いつも通りの笑顔には、有無を言わせない圧が含まれている。
風吹が見守る中、珠羅たちの姿は長い廊下の角に消えていった。




