第九十八滴 綱渡り
いくら特殊な場所といえど、ファンタジアは女学園であり、学生たちの通う場所だ。当然、試験はある。
獲物がどれだけ生き延びようと、卒業資格のないものを島から出すわけにはいかない。狩りという生死の支配する時間から逃れるためには、学生の本分にも力を入れる必要があった。
「御門殿ぉ、恩に着るでござるううう」
天璃が手渡したノートを抱え、千莉が感激した様子で鼻をすする。横目で見ていた音夢も、どこかホッとした顔をしていた。
「付箋を貼ったところは覚えておいてね。あとは、ノートから答えを探せば大丈夫だと思う。少なくとも、赤点にはならないと思うよ」
かいつまんで説明していた天璃が、あくまで赤点の回避用だと念を押す。何度も頷く千莉の隣で、音夢は安堵から肩の力を抜いた。
信用していなかったわけではない。天璃なら約束を守ってくれると思っていた。それでも、どうしても不安な気持ちを取り除けずにいたのだ。
本来なら天璃と音夢の住む世界は、表と裏のように異なっている。生贄としてやってきた天璃が、裏側の世界で誰よりも巧みに生き抜いているのを目にするたび、音夢はこう思うのだ。
やはり自分は、生まれる場所を間違えたのだと。
中学までの音夢は、普通の学校に通っていた。
千莉とはすでに腐れ縁だったが、互いに友人がいたため、今ほどべったりというわけでもなく。能力者がどうたら、後継者がこうたらと話す両親からは目を逸らし、音夢は平和な日々を謳歌していた。
しかし、卒業後の音夢に待っていたのは、残酷な現実だった。
日常と同じ場所には行けない。家のために、音夢は非日常へ逝かなければならない。
そう両親から聞かされた時、音夢はいっそ首を吊ってやろうかと思った。日溜まりの中に去っていく友人を羨み、囀りのような彼女たちの不平不満に、ならば変わってくれと憎しみを抱いたりもした。
けれど、どれだけ足掻いたところで、音夢にとっては非日常こそが日常であり、現実なのだ。
──生き延びて、必ず帰ってきなさい。
重い身体を引きずり家を出ようとした音夢の背に、祖父は静かな声で告げた。
信の置ける強者に出会ったら、懐に入りなさい。お前に情をかけてくれる相手なら、悪いようにはしないだろうから。
そう続けた祖父の声には、音夢が生き残れるよう願う思いが込められていた。
祖父の言葉を胸に乗った船には、一足先に千莉が座っていた。
身体の震えは船の揺れだと言い訳をする音夢の隣で、千莉は珍しく気丈だった。
怖がりな千莉が真っ赤に腫らした目で何度も大丈夫だと繰り返すから、いったいどの口が言ってるのかと呆れた。呆れてから、音夢は少しだけ笑った。
間違った場所に生まれても、全てが間違いになるわけではない。
音夢はあの日、決意したのだ。たとえ這いつくばってでも、強者の足にしがみついてでも、千莉と共に必ず生きて帰ると──。
「ひとまず、これで三年生には上がれそうかな。ほんと助かったよ。ありがと、リーダー」
「対抗戦は終わったのに、まだそう呼ぶんだね」
「あー、半ば無意識って言うか……。あたしにとって御門さんは、灯台みたいなもんだからさ」
漠然とした言葉でも、天璃になら伝わるだろう。不思議そうな千莉の視線を流しつつ、音夢はあまり変わらない天璃の表情を見つめた。
「ねー、天璃ちゃん暇。かまって〜」
不意に背後から腕が伸び、天璃を抱え込んだ。甘えるように頬を擦り付ける珠羅を前に、音夢の身体がピシリと硬直する。
音夢にとって先祖返りは等しく恐ろしいものであり、猛獣の中では人当たりが良いと言われる珠羅であっても、怖いものは怖かった。
一歩距離を置いた音夢に気づき、天璃が「来年」と口にする。
「来年も生きてたら、そのノートを返しにきて。続きも書いておくから」
「それって……」
来年。ノート。続き。意図に気づいた音夢が、くしゃりと顔を歪める。
眼鏡を押し上げ俯いた音夢は、早口で感謝を伝えると、自分の席へと戻っていった。
後を追う千莉から目を逸らし、天璃が珠羅の頭を優しく撫でる。
「気に入ってるの?」
「どっちかというと、気にかかるのかも」
「ふーん」
必要ならば、自分の身を賭けられる覚悟。自ら盤上に進む音夢の気概を、天璃は評価していた。
「もし私が狩りたいって言ったら、どうする?」
天璃を腕に囲ったまま、珠羅が楽しげに問いかける。
「いいと思うよ」
「いいの? あんなに手間をかけてるのに?」
「私にとって、珠羅ちゃんより優先するものはないからね」
きょとんとしていた珠羅が、満足げに笑う。
機嫌が良さそうに「冗談だよ〜」と返すと、珠羅は天璃の髪に指を絡ませ、くるくると螺旋階段のように巻いた。
◆ ◆ ◇ ◇
「命拾いしたな」
不意に呟いた霊藻を、兎々が不思議そうに見つめる。
霊藻の視線を辿った兎々は、音夢と目が合ったことで慌ててぺこりと会釈した。
元の席に戻ってきた天璃に、カフェにでも行こうと声をかけられ、兎々が嬉しそうに頬を染める。
そんな兎々に口角を上げると、霊藻は何事もなかったかのように席を立った。




