後編
ー*ー
先生。ちゃんと全部わかってます。あなたが私に優しいことも、あなたが、とても苦しんでいることも、私に何を望んでいるのかも。
だから、きっとこれが一番、綺麗な終わりかた。
「さいご、って…?どういうことですか…」
驚きと、困惑と、ほんの少しの確信。その顔に滲んだ『嫌な予感』を見て、私は笑った。
「もう、あなたとは会わない」
自分で思った以上に揺るぎない声が出た。声に引っ張られるように、思いも締まっていく。
すっと冷たく温度を失くした先生の顔を見て、私は一層笑みを深めた。
「次の約束も、もうしないわ。昨日がさいごだったの。私の中では」
「どうして急に…私がなにか、あなたの気に触るようなことをしてしまったんですか…?」
先生の顔は、尋ねておきながらなにか心当たりがあるようだった。私の手に包まれていたスノードームを見て、悔いるように眉根を寄せる。
私の口から今の思いを伝えたら、きっと彼は全てを受け入れてくれるだろう。納得して、ここからなんの後腐れもなく立ち去って、そして2度と私の前に姿をあらわすことをしないだろう。
それがお互いのためであると、きっとわかってくれる。
でもそれはできない。何か1つでも伝えてしまったら、それを皮切りにきっと止まらなくなる。止まらなくなって、私が、心を揺らしてしまうだろうから。
「そうじゃないの。遠くに行くのよ。お父さまと一緒に、お母さまを忘れられる明るくて新しい場所に行くの」
「……」
嘘ばかりの私たちの関係には、嘘で終止符を打つ。お互いがお互いに、自分を守りながらの優しい嘘をついていたことに気づいていて、見ないふりをして、今日まで必死に繋いでいた。
自分も行くと言ってくれないのは、これが嘘だと彼には分かっているから。
そして、なんのための嘘なのかもわかっているから、騙されているふりをする。
「…そう、ですか…教授がそうに…?」
「私が言ったの。お父さまも、前を向かなきゃって思ってたみたい。もうすぐ命日だから、その日お墓まいりをしたら街を出るわ」
「どうして、私になんの相談もしてくださらなかったんですか?あなたはいつも、私に必ず相談してくれたのに」
そうだった。自分で答えの出ていることを、わざわざ先生に相談してた。ごめんなさい先生。私今は、甘えた子どもではいられない。 先生を気遣って言葉を選べない。それをしたら縛りつけた思いが全部溢れそうだから。
「それに…あなたにとってお母上は、大切な方でしょう…どうして忘れるなんて言うんですか」
「…先生、言葉の綾よ。本当に忘れるわけじゃないわ」
「だったら、ここにいても同じじゃないですか。はっきり言ったらいいでしょう。私と離れたいんだって」
先生の声は、だんだんと熱を帯び始めた。納得できていないのだ。嘘だとわかっていながら問い詰めるほど、受け入れ難い報せらしい。
「…そばにいても幸せになれないもの。離れた方がいいのは、先生だってわかってるはずでしょ」
「……」
先生、どうして私があなたと離れたがってると思うの…?
私がいたらあなたを苦しめることを知ってる。そう思う心はあっても、いつか変わるんじゃないかと、望む関係になれるんじゃないかと夢見て離れられなかったのに。
私の気持ちを知っていながら、知らないふりをしていたくせに。
そんなふうに今更、私がいなくなろうとしてることを納得してくれないのは狡い。
「目に映るからずっと忘れられなくて、苦しさも消えないの。だけどいなくなれば、良くも悪くも思い出になって霞んで、前を向けるんだって。先生もお父さまも、今はそれが必要でしょ」
「お嬢さん…」
何か言いたげに先生が息を詰めるのを、私は笑って遮った。
誤魔化すようにわざと、明るい声を出す。
「ねえ先生、ただのお引越しに思いつめすぎよ。手紙くらいは書きたいと思ってたのに、なんだかそれもためらうくらいショックを受けてるみたい」
「…あまりにも…突然だったから…教授からは何も聞いてなかったですし」
「私から話したいって言ったのよ。先に知ってたら、先生絶対いつも通りでいてくれなくなるでしょ。最後の約束だって分かってたから、悲しい雰囲気になるのは嫌だったの」
私が笑ったことで、少しだけ、先生の顔が和らいだ。まだ受け入れ難い色を残したまま、それでも好きな笑みを向けてくれる。
「…前もっていってくださってたら、きちんとこれまでのお礼もできたのに」
「ふふっ…先生、あなたにこれ以上お礼されたら、私ほんとに身動きとれなくなっちゃう。感謝を言わなくちゃいけないのは私の方だもの」
何かを贈ることも、どこかに連れて行くこともできない。手紙を書こうと思ったけれど、形に残るものは躊躇った。
彼を縛りたくなくて、私を忘れて欲しくて遠ざける決意をしたのだから、なんの痕跡もなくいなくなるべきだと思った。
言葉でしか、私に許された気持ちの表し方がないのがもどかしいけど、だからこそ、ちゃんと言おう。
「先生。私にくれたなにもかも、本当にありがとう」
すう、っと胸のうちの温もりが抜けた。
何よりも伝えたかったのは、正真正銘、純粋な感謝しかない。
ありがとうだけは、ただの私で言いたかった。こどもでも大人でもない、先生が望む私像でもない、ありのままの心で。
「……私は…あなたに、なにも…」
「たくさん、くれたよ。先生に出会えて本当によかった。あのとき先生に声をかけて、先生が死なないでいてくれて、本当によかった」
優しさも、あたたかさも、恋心も、苦しさも、切なさも、たくさん。いろんな心をくれてありがとう。いろんな心をくれた人が先生で、嬉しかった。特別で大切で、この先なにがあってもその事実は、私をとても満ち足りた気持ちにさせる。はるか遠い高みへ、誰の手も届かない、決して侵されることのない私だけの聖域に連れて行ってくれる。
だからお別れも、穏やかに迎えられる。
本当はね、好きだと言うつもりだった。でもやっぱり、それって縛ることだと思うの。これから先の綺麗な出会いに、要らぬ影を落としかねないからやめた。伝えなくてもきっと先生はとっくにわかってるんだから、わざわざ言うこともないのだ。せっかく知らん顔を貫いた先生のためにも、さいごまでしまったままにしておくことにする。
さようなら先生。
もう会うことはないから、はやく私を忘れてね。
ー*ー
灰色の石の前に、そっと抱えていた花を添えた。
その一瞬で触れた爪先が感じた、硬く冷えた温度に体がかすかに跳ねる。
彼女のさいごとは正反対の感覚。
彼女の家を襲った不審火でお嬢さんと教授の訃報を聞いたのは、もう数年前になる。報せを聞いたのは事件から数ヶ月後で、当時街を離れていた自分には連絡が遅くなったらしい。葬儀にも出られず再会したのはこの墓石の前だった。
訪れた焼け跡で、かつて2人でたくさん話をした部屋のあたりに溶けたスノードームのオーナメントが無残に埋もれていた。
もう誰の夢も閉じ込めることができなくなったそれは、ただ残酷な現実ばかり突きつけてくる。
熱い炎の中で父親に助けを求めていたかもしれない彼女を思った。動かない足でベッドから這い出て、懸命に逃げようとしていたかもしれないお嬢さんを思って、どうしようもないほどに心が崩れた。
「お嬢さん…あなたは、知っていたんですか…」
こたえが得られるわけでもないのに、ここに来るたびにそう問うことをやめられなかった。
お嬢さんとのさいごになったあの日から、ずっと確かめたい思いを抱えたまま、永遠にその機会を失った。
お嬢さん。知っていたんですか。
私の愚かな復讐心を。あなたのお父上の罪を。お母上を失った事故の真相を。過ごしてきた時間の中で、私があなたに抱いていた心も。
吐いてきた多くの嘘も、あなたが隠していた心を私がわかっていたことも。
私と同じような境遇の誰かが、あなたの家に火をつけることも知っていたんですか。
逃げられないとわかっていて、私を巻き込みたくなくて遠ざけたんですか。
さいご、って…そういう意味だったんですか。
私への恋心は、全てを知っていた心を隠すためのものだったんですか。愛おしかったその気持ちさえ、あなたはカモフラージュのために抱いていたんですか。
「あれからもう何年も経つのに…一向にあなたを忘れられない」
何度彼女がいない世界に絶望して、過去を悔いればいいというのだ。どれほどの時間、その心を繰り返せば忘れられると…
余計に色濃くなって辛さばかり降り積もる。
前を向けるだなんて、ひどい嘘だ。
嘘ばかりで、いつも、本心を隠して。でもそうとわかっていながら騙されているふりをしていた自分が、彼女にとっては酷かっただろう。
「全てを償っても、あなたのいる高みには届かないでしょうから…幸せな夢を贈る代わりに、願わせてください」
花束のそばに、小さなスノードームを置く。
「これで6つ目です。まだまだ、あなたのお母さまに追いつくには先が長いですが…これから先もずっと…いつか数を越して、もういくつ目かもわからなくなっても、こうしておそばにいると約束します」
雪の降るガラスの中、白い服を纏った天使の指先に結晶がふわりと煌めいた。
拙い表現、話にも関わらず、ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございます。
思い描いていたストーリーとはだいぶ変わって、ちゃんと終着するか不安でしたがなんとか…
これにて12月の戀紬シリーズは一旦ストップになります。
次回作・長編の準備ができるまで連載自体も止まります。
もしまたなにかの拍子にお見かけしましたら、覗いていただけると嬉しいです。
白藤あさぎ