第1話【最悪な幕開け①】
「もしかして太川?」
始業式が終わり、教室に戻る途中に声をかけられた。身長一八〇センチはあろう、その縦に大きな男子は私を見下ろしている。
その人物を前にして、世界が歪んで、ぐらついた。心臓の音が耳にまで届いて、頭を殴られたかのような感覚がした。
「優奈?」
親友の春ちゃんに名前を呼ばれるまで――この間たった数秒だったのかもしれないが、息を止めていたことに気付き、空気を吸う。急ぎ、親友の手を引いてその場を足早に去った。
高校生活、初日。頭の中で男子達の嘲笑う声が響き渡る。
「ちょ、ちょっと優奈ったらどうしたの!」
黙って教室の前まで春ちゃんを引きずってきてしまう。その言葉で我に返ると、震えながら彼女の腕を解放した。
呼吸の仕方が分からない。ハッハッと息を吸い、額に浮かんだ汗を制服の袖で拭った。
「優奈? 大丈夫? 顔色悪いよ?」
視界に彼女の心配そうな顔が映った。
「さっきの人……」
震える声を抑えながらやっとのことで声を絞り出す。
「え?」
「背の高い男子……」
「なんか優奈に言ってた人?」
「あいつ、私のこと――」
忘れていたのに。遠くの学校に来れば、もう会うこともないと思っていたのに。
中高一貫校のここでは、高校入学の外部生は目立つ。だから余計に見間違いなんかじゃない。確実にさっきの男子は私のことを『太川』と呼んだ。そして特徴的な右目の下にある小さなほくろ。男のくせにまつ毛が長くてぱっちりした目。そして悪魔のような笑み。
さっきの男子は私が小学生の時に『いじめられる』きっかけを作り、私に『太川』というあだ名をつけた張本人。
そいつの名前は――
「戸津龍介」
「え?」
教室の前で呆然と立ち尽くす私に春ちゃんが聞き返してくる。
「さっきの人、小学校の時の……」
壁に額を擦りつけてまさかまさかと混乱する。自分でも顔が強張っているのが分かる。春ちゃんが横から私の表情を見て、何か悟ったのか息を飲み、辺りを見回した。
「戸津って言った?」
私にだけ聞こえるように彼女は囁いて尋ねてくる。
「うん……」
「前聞かせてくれた人?」
「そう……」
春ちゃんが声を抑えながら耳打ちしてくる。それからまた何かを発しようとした彼女が突然私の腕を掴んだ。
「来たっ」
その台詞に全身に力が入った。壁と対面しながら掌から汗が滲み出てくるのを感じた。
右横に人影が映り込む。
「おい、太川だよな?」
どうするのが正解なのか。思考がフル回転する。
反射的に取った対応は
「お……久しぶりです」
と、体だけ向き直り、目は合わせずにモゴモゴと話すことだった。
体がグラグラして、目の前が真っ暗になりそうだった。
「よう、久しぶり。俺だよ、戸津。戸津龍介。同じ小学校だった。覚えてるか?」
彼は何もなかったように、親しげに挨拶をしてくる。とは言え、顔は見れていない。声の抑揚からそう感じとった。もうこの人の中では、あの当時あったことはなかったことになっているのだろうか。それとも彼にとっては元々何もなかったのだろうか。
「覚えて、ます」
顔を上げるには勇気がいる。でも露骨に避けている事を悟られるわけにはいかない。
「あー、だめだめ。そいつまともに話さないぞ」
突如として同級生の声が耳に入ってくる。横から話しかけてきた男子を目だけで追った。名前は覚えている。だがいい印象はない。むしろいい印象がある男子なんてほとんどいないのだけど。
「話さない? そうなのか?」
「そうそう。ここだけの話、相当な男嫌いのオタクって噂あるぜ」
あいつの――戸津の質問に律儀に答える同級生。こそこそ話しているつもりだろうが丸聞こえだ。
そうこうしているうちに二人が自己紹介を始め、嫌な予感が全身を駆け巡る。
「あ、俺。A組になった橋本大樹。よろしくな」
「おう、よろしくな、俺は太川と同じ小学校だった戸津龍介。今年から入学したんだ。同じくA組だ」
「太川って?」
その時初めて顔を上げて戸津の顔を見た。
やめて!
喉から声が出そうになった。目を見開いて、目だけで訴える。
突然顔を向けたからなのか、もしくは般若のような顔をしたからか定かではないが、戸津は私を見て一瞬言葉を飲み込んだのが分かった。
「あれ。えっと……細川、の方だっけ苗字……? ごめん、どっちだったか分かんなくて……」
戸津は察したようで言い直す。返事もできず、二人の間を通りA組の札がついた教室へ入っていった。
席替えが行われた。窓際の一番後ろの席。人の視界に一番入りづらい場所で一番好きな場所。だが肝心の春ちゃんはと言うと、一番前の席の窓際から三列目になってしまっていた。
そして――
「よう」
戸津が隣になった。
人生で会いたくないランキング一位の人間。同じ学校の、同じクラスの隣の席とか、これはもはや神様のいたずらにしては質が悪すぎる。
「……」
挨拶されても、なんの言葉を発すればよいのか分からず、机の上をジッと見つめるだけ。こういう人はスルーするのが一番いいのだ。人生から学んだ経験を活かすんだ。
そんなことを思っていると戸津が他の人に話しかけられたので私に意識は向かなくなった。ホッとして体から力を抜く。
「最悪……」
窓の外を見ながら、誰にも聞かれないようにぼそりと呟いた。
『デブ』
いつからか当たり前のように言われていた。
一番覚えているのは、小学六年の算数の時間だ。問題はもう解き終わっていて、机の中から塾のプリントを出していた。
「あー! 太川お前何してんの、授業中に! いっけないんだー!」
戸津の声が教室に響いた瞬間、空気が凍り付いた。
視線が一斉に集まる。体が動かない。怒られるとか、そういう問題じゃなかった。
「なになにー? 頭いいの見せびらかしたいの?」
戸津の声に釣られるようにして、ガタガタと椅子の音がした。何人かが近付いてきたかと思うと、机の上に影が落ちた。
「うっわ、くせー。デブってなんでこんなに臭いの?」
男子が笑いながら、鼻をつまんでいるのが分かった。下敷きでわざと空気を扇ぐ。戸津達の笑い声が重なる。
毎日、ちゃんとお風呂も入ってるのに……
先生は教科書から顔を上げない。友達も、他の人達も誰も何も言わない。
手の中で鉛筆が軋んだ。でも顔は上げられない。涙が勝手に落ちて、プリントの文字を滲ませた。
「うわ、今度は嘘泣きかよ」
「ブスがもっとブスになるぞー」
自分の中で何かが弾け、立ち上がった。
「……保健室、行ってきます」
それだけ言って、教室を出た。
でも、足は保健室には向かなかった。気付けば屋上にいた。
誰もいない場所でやっと声が出た。
その日を境に笑うのをやめた。それからは、誰とも話さずに勉強だけしていた。




