孤独の街
「ひかる君はシャンプーの匂いがするけど、佐藤君はタバコ臭いよね」
移動教室の途中、後ろからそんな声が聞こえた。
「確かに、ちょっとキツいかも」笑い声が重なる。
振り返らなくても誰のことを言っているのか分かる。
冬の渡り廊下。コンクリートに積もった雪は踏まれて黒く濁っていた。
足音に紛れて、さっきの言葉だけが残る。
――別にどうでもいい。
その時、前の方でプリントがばら撒かれた。
「あ、やば」紙が風で広がる。
一瞬迷った。
どうせ―
そこまで考えて、やめた。
しゃがんで紙を拾う。
「・・・はい、これ」
「ありがとー」
一瞬だけ空気が緩んだ気がした。
でも。
「てかさ、匂い移りそうじゃない?」
小さな、笑い声。
手が止まる。
聞こえないふりをして、残りを拾う。
「・・・これで全部。」
「あ、ありがと」
さっきより声が遠かった。
立ち上がって、何事もなかったように歩き出す。
(バカみたい)そう思ったが声には出さなかった。
―タバコ臭い―
教室に着くまでの間、何度も同じ言葉が頭の中で繰り返された。
教室の窓には黒い雲が立ち込めていた。
カーテンが静かに閉められた時、なんとなく自分の心も閉ざされた気がした。
―この時はまだ気づいていなかった。
気が付くと、音がしていた。カシャンという乾いた音。
フェンスに当たった野球ボールが転がっていく。
一瞬どこにいるのか分からなくなる。
目の前の窓にはガードが付いていて、その向こうにグラウンドが見えた。
ここは――心の教室。
そう呼ばれている部屋だ。
名前だけ聞けば、優しそうな場所に思える。
でも実際は、グレーのカーテンで外と切り離された、妙に静かな空間だった。
まるで「普通じゃないやつがいる場所」だとでも言われているみたいで好きになれない。
勉強が嫌いでクラスに行かないんじゃない。
ただ、あの教室に戻りたくないだけだ。
椅子に深く座り、机に突っ伏す。
少しだけ目を閉じると、さっきの声がまた浮かんだ。
「タバコ臭いよね」―知ってる。
家に帰ればあの匂いがする。
服にも、髪にも、勝手に移る。
どうしようもない。
どうしようもないのに、それで嫌われる。
ノックの音で顔を上げた。
「おはよう」カウンセラーの先生が入ってくる。
いつもと同じ声。
「今日の調子はどう?」
少しだけ考えてから「・・・まあまあ」
本当は別に良くもない。
でも、そう答えるのが一番楽だった。
「まあまあね、でも悪くないってことならいいわ。」
そう捉えられて少しむっとする。
スクールカウンセラーとて人の感情など読めないのだな。
そう思った。
先生はそのまま、自分の椅子に座って、何やら仕事を始めた。
何も会話がない空間もなんとなく苦手である。
かといって喋りが得意なわけでもない。
でも頭の中をよぎる言葉を遮るならなんだっていい。
とにかく会話がしたかった。
「先生、今日何するの?」
先生が手元のファイルをパタンと閉じた。
「今日は心理テストをしたいと思います。ズバリ今、一番欲しいものは何ですか?」
こぶしを差し出してきて、マイクの真似をする。
「別に・・・。なにかな・・・バイク?」
突飛押しもない質問だと思った。
が、考えるまでもなく答えはそこにあったような気がした。
でも、それをそのまま言うのはなんとなく恥ずかしくて嫌だった。
自分でも適当だと思う答えだった。
先生は少しだけ笑って言った。
「バイク、いいね。自由って感じがするし。」
「まあね、気持ちよさそうだし。」
軽く返して、それで終わると思ったが、先生はつづけた。
「バイクみたいにすぐに手に入らないモノを答える人はね」一拍置く。
「本当に欲しいものをちゃんと言えない人が多いの。」
「別に・・・。」
反射みたいに言葉が出る。
先生は気にした様子もなく続けた。
「本当は別のものを考えたでしょ。」
心臓が少しだけ、ドクッとなった。
「考えてないよ」
「そっか」
それだけで、否定も追及もしてこなかったことに引っかかった。
やっぱり何もわかってない。
―「でもね」先生は窓の外を見ながら穏やかに続けた。
「“一番欲しいモノ”って、だいたい物じゃないのよ。」
その言葉が、妙に残った。
「・・・愛だよ」先生の口元は動いていない。
誰かの声が、頭の奥で重なった気がした。
一瞬何のことかわからなかった。
でも、すぐに打ち消す。
「そんなものどこにもないよ。」小さくつぶやいた。
先生には聞こえていないはずなのに、なんだか見透かされている気がした。
その日の帰り道、やけに静かだった。
いつも通りのはずなのに、どこか違う。
家に帰ると、あの匂いがした。慣れているはずの匂い。
「・・・はぁ。」ため息が出る。
リビングには誰もいない。
シーンとした空間が待っていた。
テレビもついていない。
「お帰り」もない。
通りざまに寝室を覗くと、母親は精神薬の副作用で死んだように寝ていた。
部屋に戻ると普段、「お帰り」を代わりに言ってくれるインコのサスケがいなかった。
あたりを捜索すると、鳥かごの横で息絶えたサスケを発見した。
ベランダから侵入した野良猫にかじられて暴れまわった形跡があった。
「くそ!なんで!」
唯一の友達だった。
手当たり次第にモノを投げた。
「あの時野良猫に餌をやったから―」
責任は自分にあった。
体が震えて、涙が収まらない。
サスケの遺体を持ったまま、しばらく動けなかった。
涙が少し収まったころ、アパートの敷地にある花壇に勝手に遺体を埋めた。
どうせ誰も見てない。
まだ泣きながらベッドに倒れこんで目を閉じると、さっきの言葉が浮かんできた。
“本当は別のものを考えていたでしょ?”
「・・・他の物。」
喉まで出かかった言葉を押し殺した。
「もういいや」
天井に向かって、つぶやく。
何も変わらない。
明日も同じで、いいことなんかない。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた
「なんで俺だけ。何をしたって言うんだよ。」
「どこか別の世界に行きたい」
そう願った。
ーー誰かに呼ばれた気がした。
気が付くと立っていた。
知らない場所に。
近くには誰もいないのに、話声や笑い声だけが聞こえてくる。
空はどんよりとしていて、なんだか霞んでいる。
太陽も見えないし、建物と言ったら色もない。
「なんだよ、どこだよここ」
自分の声だけがやけに浮いて聞こえた。
寒いわけでもないのに、足がわずかに震えている。
誰かがいる気配はある。でも、見えない。
すぐ横を“何か”が通り抜けた。
思わず振り返ったが、誰もいない。
「気持ち悪い」
その時だった。
「少年?」
声がした。
今までの“どこからか聞こえる声”じゃない。
ちゃんと距離のある声。
前を見ると、そこだけはっきりしていた。
色のある場所。
ネイビーの建物の前、ベンチに一人の少年が座っている。
「ここ、初めて?こっち来なよ」自然な声だった。
まるで普通の場所にいるみたいに。
「だれ?」警戒が先に出る。
少年は少しだけ笑った。
「やっぱりそうだ。最初はみんなそうなんだよな。」
“みんな”?
なんだか引っかかる。
「ここ、どこ?」と少し強めに聞と、少年は肩をすくめた。
「まあ、落ち着けって。」と軽い調子で言う。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「そのうちわかるよ」
「は?」
一番嫌な答えだった。
眉をひそめると、少年は少しだけ真面目な顔になった。
「じゃ、一個だけ教えてやる。」
少し間が空く。
「ここ、嘘つけないからさ。」
「どういう意味?」
聞き返すも、少年は答えず、立ち上がる。
「ほら、来いよ。いいとこあるから。」
そう言って歩き出した。
「ちょっと!まてって!」
慌てて追いかける。
「名前は?!」
振り返りもせず、手だけ軽く上げていった。
「ロイ」
少し間を置いて「お前は?」
とっさに口が動く。
「・・・ヒロキ」
言った瞬間少しだけ後悔した。
でも、ロイは気にする様子もなく、笑った。
「ヒロキか。いい名前じゃん。」
「別に。」
反射的に否定する。
ロイは少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。
「ま、来ればわかるよ」そう言って歩き出した。
ロイの背中を追いかける。
さっきまで見えていなかったはずの道が、今はぼんやりと続いていた。
「・・・なんで見えるんだよ」
思わず呟く。
ロイは振り返らず、答えた。
「意識したからじゃね?」
「は?」
「見ようとしただろ」軽く言う。
そんな簡単な話じゃない。
でも、確かにさっきより“見えている”。
「・・・意味わかんない」
ロイが小さく笑う。
「そのうち分かるって。」
またそれだ。少しイラついた。
しばらく歩くと階段が現れた。
やけに長く、上は霞んで見えない。
「ここ登るの・・・?」
思わず立ち止まる。
ロイは迷わず登り始めた。
「来いよ」当然のように言う。
(どうせ無理だ)
頭に浮かぶ。
途端に足が動かなくなる。
「・・・ほらな」
小さく呟いた瞬間、階段の先が歪んだ。
「・・・は?」
さっきまであったはずの階段が、ぐにゃりと揺れる。
まるで進むのを拒否しているみたいに。
ロイが振り返る。
「だから言っただろ」
少しだけ真面目な顔で「ここ、そういうとこなんだよ」
「何がだよ・・・」苛立ちを隠さず返す。
ロイは一段降りてきた。
「“どうせ無理”って思った瞬間にさ」
足元を軽く蹴る。
コツン、と音が響く。
さっきまで歪んでいた階段が、すっともとに戻る。
「こうなる」
言葉が出ない。
「逆に」
ロイが軽く顎で示す。
「ちょっとでも行く気になると、進める。」
試すように見られる。
「・・・・」
無言で階段を見る。
さっきより、少しだけはっきりと見えた。
「・・・ちょっとだけな」
ぼそっと呟く。
それから一歩踏み出す。
消えない。
二歩目、ちゃんとある。
「・・・マジか」
思わず声が漏れる。
ロイが笑う。「な?」
その笑い方が少しだけ安心する。
全部が気持ち悪いこの世界で、そこだけは普通だった。
気づけば、さっきより自然に歩いていた。
階段を上りきると、視界が開けた。
街が見えるも、やはり霞んでいる。
「な、いいとこだろ」
ロイが言うが、正直よくわからない。
「別に」
そう返すと、ロイは少しだけ笑って、空を見上げた。
「最初は、そんなもんだよ」
その言い方が妙に引っかかった。
「お前さ・・・」聞こうとするが、言葉が続かなかった。
ロイは気にせず続ける。
「あそこ、見えるか?」
指さす先、遠くの方にぼんやりと巨大な影がある。
木のような影。
「・・・何あれ」
「マリセポネ」
当たり前にいう。
「この世界の中心」
少し間を置いて「まぁ、ゴールみたいなもん。」
冷たい風が肌を透くが、どこか感覚が鈍い。
遠くに見える巨大な影。
「あれが、マリセポネ・・・。」
ロイが軽く頷く。
「そ」短い返事。
「で?」
「でって?」
「ゴールなんでしょ?行けば何かあんの?」少し強めに言う。
ロイは少しだけ考えてから、ベンチに腰を下ろした。
「あるっちゃあるし、ないっちゃない」
「はっきりしろし」
思わず返す。
ロイは笑わなかった。
「“実る”んだよ」
「何が?」
「果実」
一瞬言葉が止まる。
「木なんだから、当たり前じゃね」
そう言いながらもまた少し引っかかった。
ロイは空を見たまま言う。
「でもさ、誰でも取れるわけじゃない。」
沈黙。
「行けば分かるってやつ?」
少し投げやりに言うと「いや」
ロイは首を振った。
「行ってもほとんどのやつは何も見えない。」
「は?」
「木は見える。でも、実は見えない。」
意味が分からない。
「なにそれ」
ロイは少しだけ視線を落とした。
「自分で自分に嘘をついている奴には、見えないらしい。」
胸の奥がまた、引っかかった。
「嘘ってなんだよ」
すぐに答えは返ってこなかった。
ロイは少し考えるようにしてから、言う。
「“平気なフリ”とか、“どうでもいい”とか、“最初からいらない”ってやつ」
言葉が突き刺さる。
思わず目をそらすと、ロイは続ける。
「そういうの、全部ばれる。ここ、嘘つけないから。」
風が強くなる。
遠くのマリセポネが、少しだけはっきり見えた気がした。
「・・・じゃあさ、実を獲れたやつはどうなるのさ」
少し喉が鳴った。
ロイは少しだけ笑った。
でも、その笑い方は最初に見たものとは違っていた。
「さぁな。俺は見たことない。」
「ないんかい」
拍子抜けする。
「でも」こちらを見て「ちゃんとあるって話だ。」
「“気づいた奴だけが、手にできる”って」
「・・・気づく?」
ロイはそれ以上何も言わなかった。
「腹減ってない?」
急に話を変える。
「え?」
「飯、あるからさ」
おもむろに立ち上がる。
「来る?」
少しだけ迷うも、あとを付いていくことにした。
「まぁ、いいけど」
遠くで、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
ロイの後をついていくと、さっき見たネイビーの建物まで戻ってきた。
近づくと、そこだけやけにはっきりしていた。
「ここ、俺のとこ。」
ロイがそうやって中に入る。
「適当に座ってて」
ドアが閉まり、途端に一人になる。
相変わらず、声だけが聞こえる。
「タバコ臭い」
「うつるって」
「近づかない方がよくない?」
耳を塞ぎたくなるが、塞がなかった。
塞いでも意味がないとなんとなく分かる。
「うるせー」小さく吐き捨てる。
しばらくしてドアが開いた。
「お待たせしております」
ふざけながらロイが戻ってくる。
手にはバスケットがあり、サンドイッチが載っている。
色がはっきりと分かる。
「ほら」無造作に差し出される。
受け取ると、パンの柔らかさが妙にリアルだった。
中を見ると卵だった。
「・・・卵かよ」思わず口に出た。
ロイが肩をすくめる。
「きらい?」
少し間が空く。
「・・・臭いし」
言った瞬間、自分の中でズキっとした。
ロイは一瞬止まって、すぐに笑った。
「そっか」
怒るでもなく、否定するでもなく「じゃあこっちな」
バスケットから別のサンドイッチを取り出す。
「ツナ」そう言って差し出された。
「いいの?」
「いいよ、別に」軽い口調。
まるで、最初からそうするつもりだったみたいに言う。
受け取って、一口かじる。
「うまい。」思わず漏れる。
「だろ」ロイが笑う。
少しだけ間が空いて、ロイが卵サンドを頬張る。
「別にさ」もぐもぐしながら、続ける。
「臭いのって、悪いことじゃなくね?」
ドキッとする。
「・・・なんで?」
ロイは気にせず続ける。
「好きなやつもいるし、慣れてるやつもいるし、気にしないやつもいる」
「それだけの話だろ?」
何も言えなかった。
ロイは肩をすくめて言う。
「全部だめって決めつける方が、もったいなくね?」
胸の奥が少し痛む。
さっきの自分の言葉が、そのまま返ってきたようだった。
「・・・別に」小さく返すと、ロイはそれ以上何も言わなかった。
ただ、普通にとなりでサンドイッチを食べている。
その空気が妙に心地よかった。
ふと気づく。
サンドイッチの色がさっきよりはっきりしている。
「なんで・・・」
思わず呟くと、ロイがちらっと見る。
「食ってるからじゃね?」
適当な答えだが、それだけじゃない気がした。
もう一口食べると、さっきより少しだけ味が分かる気がした。
遠くで、誰かの笑い声がした。
でもさっきほど、嫌じゃなかった。
食べ終わってしばらく、無言の時間が流れた。
「なぁ」ロイが口を開く。
「ちょっと外いかね?」
「どこに?」
「すぐそこ」軽く顎で示す。
少し迷った後、立ち上がって外に出た。
相変わらず、街は霞んでいるが、さっきよりはっきりと見える。
「・・・人、いないよな」
ぽつりとつぶやくと、ロイは一瞬こちらを振り向いた。
「いるよ」即答だった。
「え?」
「見えてないだけ。」
意味が分からない。
「いや、いないだろ」
そう言った瞬間だった。
すぐ横を“誰か”が通り抜けた。
肩に何かが触れた感覚があって、思わず振り向いたが、誰もいない。
「今のなんだ・・・」少し声が上ずる。
ロイは平然と言った。「だから、いるって」
「見えないじゃん」苛立ちが混じる。
ロイは少しだけ考えて、言った。
「見ようとしてないからじゃね?」
「は?」またそれだ。
「ちゃんと見ろよ」そう言って前を指さす。
目を凝らすが、何もいない。
でも、よく見ると“歪み”がある。
空気がわずかに揺れていて、そこに人の形がある気がした・
一歩近づいて、手を伸ばすと触れたと思った瞬間にすり抜けた。
「・・・・ッ」思わず手を引いた。
冷たい。何もないのに、確かに“いた”。
「な?いるだろ」ロイが言う。
言葉が出ない。
「でもさ、ほとんどのやつは見ようとしない。」
「なんで」
「怖いから、じゃね?・・・拒絶されるのが。」
胸が締まって何も言えない。
ロイは前を向いたまま言う。
「触れようとしないと、見えないまんま。見えないまんまだと、いないって思う。」
「そんで」少し振り返る。「“一人だ”って決める」
言葉が胸に刺さる。
「違う・・・」小さく否定するが、自信がなかった。
ロイは否定せず「もう一回やってみ」そう言った。
さっきの場所を見ると“いる”と分かる。でも足が動かない。
どうせ―
頭に浮かぶ。
その瞬間、さっきまで見えていた“歪み”がすっと消えた。
「ほら」ロイの声。
「今、消えただろ」
何も言えない。
「そういうこと。」静かな声だった。
風が吹いて、遠くで、誰かの笑い声がする。
でも、その正体はやっぱり見えない。
「意味わからん。」小さく呟く。
少しだけ笑って、ロイは言う。
「いいんだよ、最初は。・・・俺もそうだったから。」
しばらく歩くと、似たような景色が続いた。
同じ建物、同じ道、同じ空。
「さっきもここを通らなかった?」足を止める。
ロイは何も言わず、少しだけ周りを見る。
「まあな」
「まあなって・・・」
振り返ると確かに見覚えがある。
さっき通った角、ひび割れた壁、傾いた標識。
「ねぇ、これ――」
言いかけた瞬間、遠くに見えた建物がゆっくりと同じ位置に戻った。
「は?なんだよ今の・・・」息が少し荒くなる。
ロイは少しだけ笑った。「気づいたか」
「何にだよ」苛立ちが混じる。
ロイは振り返って「ここ、ループしてる」
「は?」
「同じところぐるぐる回っているだけ。」
「そんなわけ・・・」
「じゃ、進んでみな」挑発する。
奥歯を噛んで、前を見ると「いける」歩き出した。
角を曲がり、見覚えのある壁をまた曲がる。
同じ標識に足が止まる。
「な?」
「くそ」イラついてもう一度歩く。
早足になって、曲がると同じ景色。
「くそ!なんだこれ!」
声を荒げると視界がぐにゃりと歪んだ。
建物が傾き、道がねじれる。
「!?」
あわてて後ろに下がる。
「落ち着けって」ロイの声。
でも、耳に入らない。
「なんだよ・・・何なんだよ!」
呼吸が荒くなり(どうせ無理だ)頭に浮かぶ。
その瞬間、景色が完全に崩れた。
上下もわからなくなり、体が傾く。
「だから言っただろ!ここ、そういうところなんだって!」
視界の端で、ロイが手を伸ばしている。
必死で息を整える。
「落ち着け!一回止まれ!」
言われたとおりに動きを止める。
ぐちゃぐちゃだった景色が少しずつ戻っていく。
歪みが消え、道が戻り、建物が元に戻る。
「・・・はぁ」息を吐くとロイが近づいてくる。
「ほらな」
「・・・なにが」力なく返す。
ロイはしゃがみこんで、地面を指の背で叩いた。
「焦ると崩れる、あきらめると止まる。でも」にやりと笑いながら頭を指さして
「考え変えると進める。」
言っている意味は分かるが、できる気がしなかった。
「無理だろ、こんなん」
「だからループしてんだよ」
言葉が刺さる。
少しだけ考えて、前を見る。
同じ道、同じ景色。
「・・・別に」ぼそっと呟いて一歩を踏み出した。
「一歩くらいなら・・・」消えない。
「二歩」景色が少しだけ変わる。
三歩目でさっきとは違う角に出た。
「行けた・・・?」思わず言うと、ロイが笑った。
「な?」
その笑い方が、少しだけ嬉しかった。
「別に・・・」目をそらす。
「でもさ」ロイが空を見上げたまま言う。
「これも考え方だよな」
「は?」
「信じるとか、あきらめないとか、そういうの」軽く言う。
「綺麗事だろ」思わず出る。
ロイは否定せず「まぁな」とあっさり認めた。
少しだけこっちを見て、言う。
「それでも、一人じゃないからやるんだよな。」
その一言で何かが引っかかった。
「は?」低い声が出る。
「だってさ、人って―」
「やめろよ。」空気ごと遮った。
「え?」ロイが少し驚いた顔をする。
「その話、するなよ。」視線をそらしたまま言う。
「・・・なんで」ロイの声が少しだけ真剣になる。
「最後には愛とか言い出すんだろ。」吐き捨てるように言う。
沈黙があたりを支配した。
少し考えてから、ロイは「まぁ、そうだな」と正直に言った。
胸の奥が強くざわついた。
「・・・ふざけるな」小さく漏れる。
「・・・何が」ロイの声が低くなる。
ロイの目を見て「あるわけないだろ、そんなもの。」言葉が止まらない。
「愛とか家族とか信じるとか、全部嘘だろ!」
ロイが黙った。
「・・・お前さ、本当は―」
「わかったようなこと言うなよ!」叫んだ瞬間、空がひび割れた。
音が消え、風がやんだ。
「お前に何がわかるんだよ!結局お前も他人で、いなくなるんだろ!」
ロイの目が揺れる。
「・・・ヒロキ」
「うるさい!」
地面にひびが入る。パキ!
「愛なんて無い!最初から一人なんだよ、生まれたときから!」
ひびが広がった。
「・・・それは違う」ロイが言う。
「違わない!」踏み込んだ足が地面に食い込む。
「全部嘘だろ!」
その瞬間、世界が割れた。
音が消える。
風も、気配も、全部止まった。
「・・・ッ」
さっきまでの怒りが一気に引いていく。
代わりに、嫌な静けさが残る。
「なんだ・・・これ・・・」足元を見ると、ひびが広がっていく。
「ヒロキ」ロイの声。
さっきより遠くで聞こえる。
顔を上げると、ロイが少し離れたところにいる。
「落ち着け」手を伸ばしているが、遠い。
一歩を踏み出そうとすると、ひびが広がっていく。
「動くな!」ロイが叫ぶ。「今、崩れる―」
言い終わる前に地面が崩れた。
体が傾き、落ちていく。
「ヒロキ!」ロイの声が響く。
手を伸ばすが、届かない。
落ちながら、さっきの言葉がよみがえる。
“愛なんてない”“最初から一人”
「はは、自分で言ったじゃん。・・・そうだよ、最初から一人だった。」
暗闇が迫る中、つぶやいた。
落ちつづけ、光がなくなっていく。
「期待した俺がバカだった」
胸がじわっと冷えていく。「どうせ」
言いかけたその時「ふざけんな!」声が叩きつけられた。
見上げると、ロイが同じように落ちてきていた。
「あきらめるな!」
「お前には関係ないだろ」力なく返す。
ロイがさらに近づいて言う。
「あるに決まってるだろ!」
手を伸ばして「一人じゃないって言っただろ!」と叫ぶ。
その言葉に、一瞬迷った。
「さっき嘘だって言ったし」
ロイの顔が歪む。「それでもだよ!お前が否定しても、なかったことにはなんねえんだよ!」
言葉が胸に刺さる。
ロイの手が目の前にある。
「掴め!」
―どうせ
浮かんでくる言葉を振り払って、手を伸ばす。
「死にたくない」手をつかんで言った。
ロイは強く手を引いて「それでいい!」と叫んだ。
一瞬落下が緩むが、止まらない。
「思い出せ、一個でいい」
「なにを!」
「嬉しかったこととかそんなの」
息が苦しい。
何もない。
嬉しかったことなんて―
「あんたさ、このお風呂の中に入りな」
古い記憶がよみがえってくる。
古い浴槽にふたが閉められている。
「なんで」
「じゃなきゃお姉ちゃんの事いじめるよ」
そう聞くと断れなくなる。
「入るだけな」
水が半分まで入った浴槽に体を鎮めるとふたが閉められた。
「出てこなくていいから」そう言って蓋の上に重たい何かが置かれた。
「まって、出して!怖い!」ありったけの声で叫ぶ。
誰にも聞こえない。水が音を吸い取っている。
真っ暗で、何も見えない。
空気が薄くなっていく。
苦しい。
どれだけ押しても、重りはどかせなかった。
義姉から虐待された記憶だった。
またシーンが変わる。
「なんで学校行かないの!病気じゃないんだから、行きなさい!」
「じゃあ、タバコ辞めてよ。」
「それとこれと、何の関係があるの!文句ばっかりいわないの!」
嫌な記憶ばかりあふれてくる。
ロイが言う「お前は一人じゃない!」
頭の中がごちゃ混ぜになっている狭間から柔らかい記憶の断片を見つけた。
「・・・あった」
暖かい光が、あたりを包み込む。
「ハッピバースデートゥーユーディアヒロキ~」
クラッカーの音が狭い部屋に鳴り響く。
「早く火を消しな。ろうそくがケーキについちゃう。」
「こんなに大げさにしなくてもいいのに」
10の文字に息を吹きかけると、ロウソクの匂いが立ち込めた。
ケーキの上にはバイクのチョコが載っている。
「お母さん、ありがとう」そう言ってにっこり笑った自分が見えた。
「・・・あったよ」
ロイが笑う。「だろ」
その瞬間、落下が止まり、足場が現れた。
静寂の中、息を整える。
ロイが肩をたたきながら言う。
「お前にもあるんだよ、ちゃんと」
「ちょっとだけな」
こころのもやもやは晴れなかったが少し軽くなった気がした。




