番外編 融解
最終章からの続き──
バンッ!
アウトリアの夜の喧騒の中、大衆酒場『獅子亭』の重厚な木の扉が勢いよく開け放たれた。
「……はぁ、はぁ……っ!」
入り口に立っていたのは、息を乱し、漆黒の軽甲冑を身にまとった金髪の女剣士――フィリスだった。
突然の乱入者に、店内に響いていた笑い声やジョッキを打ち鳴らす音がピタリと止む。
だが、フィリスは周囲の視線など気にも留めなかった。
あふれ出る涙で視界がぼやける中、彼女の青い瞳は、カウンターの隅でエールを傾けていた一つの背中に釘付けになった。
少し広くなった肩幅。見間違えるはずもない。
「丈太郎くん!」
思わず、ホール全体に響き渡るような大声で叫んでいた。
その名を聞いて、店中の客が一斉にフィリスへと視線を向ける。
呼ばれた青年は、背中をビクッと跳ねさせた。
そして、持っていた木のジョッキを静かにカウンターへ置くと、ゆっくりと振り向きながら立ち上がる。
そこにあったのは――あの日と変わらない、少し困ったような、けれど底抜けに優しい笑顔だった。
「フィリスさん……」
その顔を見た瞬間、フィリスは弾かれたように駆け出していた。
あっという間に距離を詰めると、丈太郎の胸に思い切り飛び込んだ。
ドンッ、と軽い衝撃。そして、確かな『痛み』。
この世界に来てから、あらゆる外的干渉を無効化してきた彼が感じた、初めての他者からの痛みだった。この瞬間、彼の《絶対防御》は、フィリスという強烈な愛情によりその境界線を優しく融解させていた。
丈太郎はしっかりと腕を回し、彼女の震える細い身体を受け止めた。
「バカ! なんでここにいるのよ! バカぁっ!」
フィリスは丈太郎の胸に顔をうずめ、まるで迷子から見つかった子供のように泣き叫んだ。これまで誰にも見せなかった彼女の本当の弱さと、どうしようもないほどの愛情が、涙となって止めどなく溢れ出す。
丈太郎は少し照れくさそうに、けれど愛おしそうに、彼女の艶やかな金髪をそっと撫でた。
「ごめんなさい。……戻ってきちゃいました」
「ほんと……バカなんだから……世話の焼ける弟子ね……っ」
涙声で必死に強がるフィリスの言葉に、丈太郎は小さく、優しく笑う。
「ほんと、バカ弟子ですよね」
フィリスはさらに腕の力を込め、丈太郎の背中をぎゅっと掴んだ。
「もう、離さない……絶対離さないんだから……!」
「はい。俺ももう、絶対にどこにも行きません」
そんな二人を、獅子亭の客たちはヤレヤレといった雰囲気で温かく見守っていた。
ここの客は地元の常連も多く、かつて毎晩のようにここでエールと名物のロック鳥の唐揚げをつついていた二人の姿を知っている者もいる。
「なんだよ、痴話喧嘩か?」
「いや、見ろよ。あれ……《紅き絶防》の二人だろ。久しぶりに揃ったじゃねえか」
「まったく、あの“神炎のフィリス”をあんなに大泣きさせるなんて、“不滅のジョー”もとんでもねえ男だぜ」
常連客たちの野次馬交じりの笑い声が、酒場の温かい空気に溶けていく。
やがて、誰からともなく「おかえり!」という冷やかし半分の歓声と拍手が沸き起こった。
周囲の温かい歓声の中、しばらく抱きしめ合っていた二人だったが、やがてフィリスが顔を真っ赤にして身を離した。その時、二人の左腕がそっと触れ合う。彼女の手首で青い宝石が輝き、彼の枠だけのブレスレットとカチンと小さな音を立てた。
「あの……久しぶりに、一緒に飲みませんか?」
丈太郎が照れくさそうに言う。
「……うん!」
フィリスは涙でくちゃくちゃになった顔を上げ、ようやくいつもの眩しい笑顔を見せた。
二人はカウンターに肩を並べて座る。
「乾杯」
久しぶりの乾杯だ。
カチン、と木のジョッキがぶつかる心地よい音が響く。
しかし、二人は無言のままジョッキを傾けていた。話したいことが、伝えたいことが山ほどあるはずなのに、いざ隣に座ると胸がいっぱいで言葉が出てこないのだ。
丈太郎が、グビッとエールを飲み干す。
「フィリスさん、店、出ませんか」
「……うん」
店を出た二人は、夜の温泉街を無言のままあてもなく歩いた。
湯けむりが漂う石畳の道。夜風が火照った頬を撫でる。
やがて、丈太郎が立ち止まり、一度、夜空を見上げた。
そして、フィリスを真っ直ぐに見つめて意を決したように口を開いた。
「フィリスさん。俺、日本に帰って平和な日常を取り戻したはずなのに、ずっと心が空っぽでした。……それは、隣にあなたがいなかったからです」
フィリスの青い瞳が、わずかに揺れる。
「だから……あの、これからはずっとあなたの側にいたい。弟子とか、相棒とかではなく……一人の男として…」
丈太郎は、逃げることなく真っ直ぐにフィリスを見つめた。
「俺、フィリスさんが好きです」
夜風が静かに吹き抜ける。
フィリスはしばらく目を丸くしていたが、やがてふうっと小さく息を吐いた。
「まったく……あんなに苦労して先生たちに帰還術式を完成させてもらったのに、ほんっと無駄骨だったわ」
「……すいません」
丈太郎が消え入りそうな声で縮こまると、フィリスはふわりと優しく微笑んだ。
その目には再び大粒の涙が浮かんでいる。
「でも……戻って来てくれて、本当に嬉しい。おかえりなさい、丈太郎くん」
フィリスは涙を拭いもせず、月光よりも眩しい、心からの笑顔を咲かせた。
「私も……好きよ、丈太郎くん」
──二人の旅は続く




