第50章 真実
「結論から言うわ。……丈太郎を召喚したのは、私ではないの」
静寂に包まれたマスター室に、セラフィーナの艶やかな声が響いた。その言葉を聞いた瞬間、フィリスの肩からふっと力が抜け、安堵の吐息が漏れる。ずっと尊敬してきた恩師が、大切な弟子を理不尽な運命に巻き込んだ元凶ではなかったという事実に、心底ホッとした顔を見せた。
「つまり、先生以外の何者かが……丈太郎くんをこの世界へ喚び出したということですね」
フィリスの言葉に、セラフィーナは細い顎に手を当て、紫の瞳を伏せて思案に暮れた。
「ええ。……けれど、解せないわ。この大陸に、私以上に『召喚術』へ精通している者は存在しないはずよ。それに……私は五百年前、仁たちの悲劇があってから、召喚術に関する文献や記録のその全てを、帝都大図書館の『禁書庫』に封印したわ。あの場所は、私以外の誰にも絶対に開けられないよう、強固な術式を施してあるの」
「ということは……他の誰かが、召喚術について調べることすら不可能ということですか?」
フィリスが険しい表情で呟く。隣に座る丈太郎もごくりと息を呑み、深まる謎に静かに耳を傾けていた。
「そういうことね……」
セラフィーナは組んだ指に顎を乗せ、ふうと艶やかな溜息をついた。丈太郎の召喚が自分の仕業ではないとすれば、五百年もの間誰も成功させられなかった術式を、一体誰が成功させたというのか。彼女の明晰な頭脳を以てしても、すぐには答えが出ない。深い思考の海に沈みかけた、その時だった。
「あ、あの……先生」
セラフィーナの背後に控え、黙って話を聞いていたリシェルが、おずおずと口を開いた。
「先程から、召喚とか……元の世界に帰すとか……五百年前とか……一体、どういうお話なのでしょうか……?」
いつもの洗練された所作は影を潜め、その声は微かに震えている。なぜか、顔色も抜けるように白い。
「あら、ごめんなさい。リシェルにもちゃんと説明しないといけなかったわね」
セラフィーナは申し訳なさそうに微笑むと、気怠げな口調で事の経緯を語り始めた。丈太郎が別世界からやって来た転移者であること。彼が《絶対防御》という理外の異能を持っていること。そして、彼を元の世界へ帰すため、『帰還術式』を解析し、再構築する必要があること――。
セラフィーナの淡々とした説明が進むにつれ、リシェルの様子は明らかに異様になっていった。血の気が引き、白磁のようだった肌はみるみる蒼白に染まっていく。額には脂汗がにじみ、小刻みに肩が震え出した。説明を聞き終わる頃には、彼女はまるで生気を失った蝋人形のように固まっていた。焦点の合わない瞳が、絶望に揺れている。
「……どうしたの、リシェル? 具合でも悪いの?」
普段の優秀な愛弟子らしからぬ尋常ではない姿に、セラフィーナは眉を寄せて心配そうに声をかけた。丈太郎とフィリスも、ただならぬ気配を感じてリシェルを見つめる。
「…………ッ」
リシェルはカタカタと震える唇を必死に動かし、今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
「ご、ご、ご……ごめんなさいッ! 丈太郎さんをこの世界に召喚したの……多分、私です……ッ!」
「「「えっ?」」」
マスター室の深い静寂の中に、三人の間の抜けた声が重なった。
あまりの衝撃的な告白に、三人とも理解がまったく追いつかず、唖然としたまま固まっていた。
当のリシェルはと言えば、両手で顔を覆い、ガタガタと小刻みに肩を震わせている。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!」
消え入りそうな声で、懺悔の言葉をただひたすらに連呼するばかりだ。
永遠とも思える沈黙の後、セラフィーナがやっとの思いで乾いた唇を動かした。
「ど、ど、どういうこと……? あなたが、いったいどうして……? そもそも、どうやって……!?」
常に気品と妖艶な余裕を崩さない『帝都の魔女』の面影はどこにもない。その声は見事に裏返り、美しい顔には明らかな狼狽の色が浮かんでいた。
「あの……えっと……そのっ……!」
偉大なる師に問い詰められ、リシェルはポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。しゃくりあげてしまい、まったく言葉になっていない。普段の洗練された完璧な姿からは想像もつかないほどのパニック状態だ。
そのあまりにもいたたまれない空気に耐えきれなくなったのか、フィリスがガタッと勢いよく椅子から立ち上がった。
「と、とりあえず一旦落ち着きましょ! 私、お茶のおかわり持ってきますね!」
言うが早いか、フィリスはクルリと踵を返し、ぴゅーっと凄まじい勢いでマスター室から出て行った。バタン、と重厚な扉が閉まる音だけが虚しく響く。
残された丈太郎は、頭を抱えて狼狽する偉大な魔女と、泣きじゃくる天才弟子の姿を、ただ無言で眺めることしかできなかった。
バタンッ! と勢いよく扉が開き、部屋を飛び出していったはずのフィリスが凄まじいダッシュで戻ってきた。
「お待たせ!」
その手には銀のお盆が掲げられている。しかし、猛スピードで走ってきたにもかかわらず、お盆の上に載せられたワインボトルと四つのグラスはピタリと吸い付いたように微動だにしていなかった。さらに言えば、ご丁寧にすでにコルクまで抜かれ、芳醇な香りを漂わせている。
「フィリスさん……それ、お茶じゃなくてお酒……」
丈太郎は思わず的確なツッコミを入れた。
「こんな時はね、温かいお茶よりこっちの方が効くのよ!」
フィリスはパチンとウインクをして見せる。
フィリスは呆然としているセラフィーナと、まだしゃくりあげているリシェルの肩を押して半ば強引に椅子に座らせると、空のグラスになみなみと――ドボドボドボッ!という豪快な音を立てて赤ワインを注ぎ込んだ。
「さ、二人とも! これでも飲んで、とりあえず落ち着いて!」
有無を言わさないフィリスの勢いに押され、二人は小刻みに震える両手でグラスを受け取った。そして言われるがまま、おずおずと赤ワインを口に含む。
コクン、と喉を鳴らした瞬間――。セラフィーナの紫の瞳が、限界まで大きく見開かれた。
「――っ!? あなた! これ、私が大事に取っておいた100年もののワインじゃないの!!」
「えっ!? そ、それって先生が絶対に誰にも飲ませないって言ってた秘蔵のワインですか!?」
頭を抱えていた偉大な魔女と、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった天才弟子は、あまりの衝撃に完全に正気を取り戻していた。パニックなど吹き飛ぶほどの、別の意味での驚愕である。
「さ、ゆっくり深呼吸して、事の経緯を聞かせてくれる?」
先生の秘蔵ワインを勝手に開けておきながら、フィリスはまったく悪びれる様子もなく、にっこりと優しくリシェルに微笑みかけた。
(……この人、本当にブレないな……)
丈太郎は呆れを通り越し、もはや感心しながら自分のグラスに注がれた100年ものの高級ワインを見つめていた。
高級ワインのショック療法が効いたのか、リシェルは小刻みな震えを収め、ぽつぽつと事の経緯を語り出した。
「先生……昔、一度だけ先生のお手伝いで、大図書館の『禁書庫』に入ったことがありましたよね……?」
「ええ……。押収した大量の禁術書をしまうために、あなたに運ぶのを手伝わせたわね。数が多かったから……」
そこまで言って、セラフィーナはハッとして目を見開いた。
「ま、まさか、あの時!?」
リシェルは、申し訳なさそうにコクりと頷く。
「いや、待ちなさい。確かにあそこには召喚術の書物もあったけれどあなたが解読して読むような時間は……」
「……先生が別の棚に書物をしまっている間、召喚術の書物をチラ見したのです」
「チラ見、ですって……? まさか、あのわずかな間で、古代の召喚術式を記憶したというの!?」
「……チラ見だったので、全部ではないです。七割くらい……」
「…………」
リシェルのあまりにも規格外な告白に、偉大なる『帝都の魔女』の顔からすーっと血の気が引いていく。
(チラ見って……それ、昔なんかのドラマで見た『瞬間記憶』ってやつか……)
丈太郎は心の中でこっそりとツッコミを入れていた。見たものをそのまま写真のように脳へ焼き付ける特殊能力。どうやらこの大人しそうな天才弟子は、セラフィーナが「私すら凌ぐかもしれない」と評した通りの、とんでもない頭脳をしているらしい。
「それから、記憶した部分をベースにして、独学で欠損部分の召喚術式を論理構築しました。それで……一年程前に、実際に試してみたんです」
リシェルはもじもじと指先を合わせながら、上目遣いでセラフィーナを見た。
「自分で言うのもなんですけど……あまりにも美しい術式に組み上がったので、どうしても起動させてみたくなってしまって……。自室で試しました。でも、魔法陣が一瞬光ったような気もしたんですが、何も現れず何も起こらなかったので……ただの伝説上の術式だとばかり……まさか成功してるなんて…」
「…………この師あって、この弟子ありってことね」
フィリスは呆れ果てたように大きくため息をついた。純粋な知的好奇心を満たすためだけに禁忌の術式を起動させるその危うさは、かつて仁と紗菜を好奇心で召喚してしまった目の前の師匠とまったく同じだ。
「……一年程前か」
丈太郎は、手元のワイングラスを見つめながらぽつりと呟いた。
「確かに、俺がこの世界に転移した時期と重なりますね。……そうか、もうすぐ一年になるのか……」
思いがけず明らかになった真実と、流れた月日の長さに、丈太郎はふと遠い目をした。
「本当に、本当にごめんなさい……! 私が原因だったなんて……本当にごめんなさい! なんてお詫びすれば……!」
『帝都の魔女』として常に余裕と気品を保っていたセラフィーナは、すっかり威厳を失い、何度も何度も頭を下げて平謝りしていた。
「丈太郎さん、悪いのはすべて私です! どうか先生を責めないで下さい! 本当にごめんなさい……っ!」
その横で、リシェルも涙目で必死に頭を下げている。天才と称される師弟が揃って身を縮こまらせている姿は、普段の彼女たちからは想像もつかない光景だった。
「あなたたちねぇ……謝って済む問題じゃ……!」
フィリスの声が低く沈み、怒気を帯びる。大切な弟子である丈太郎が、理不尽な運命に巻き込まれたのだ。いくら尊敬する恩師と妹弟子であっても、簡単に許せるはずがない。フィリスが語気を強めて言いかけた、その時だった。
「二人とも、顔を上げてください」
静かで、けれどよく通る優しい声がマスター室に響いた。丈太郎だった。
フィリスが驚いて振り返ると、丈太郎は怒るどころか、どこか穏やかな表情で二人を見つめていた。
「確かに最初、転移してきた時は混乱しました。元の世界に帰りたいという気持ちもあります。でも……もしあの転移がなければ、俺はフィリスさん達に出会えませんでした」
丈太郎の脳裏に、これまでの旅の記憶が鮮やかに蘇る。頼もしい師匠との特訓、迷宮でのマリナやダリオとの死闘、そして数々の出会い。
「それに、例え帰れないとしても……俺には帰る場所がありますから」
ルノア村で待ってくれている、アンク、テラ、ミィナ。彼らは行き場のない丈太郎を「家族」として温かく迎え入れ、「いつでも戻ってくるといい。この家はもう、お前の家だ」と言ってくれた。その絆は、今の丈太郎の心を支える確かな柱となっている。
「だから、そんなに謝らないでください。むしろ、感謝したいくらいですよ」
丈太郎は、心からの言葉と共に、にっこりと優しく笑いかけた。
恨みも憎しみも微塵も感じさせないその真っ直ぐな笑顔に、セラフィーナとリシェルは言葉を失い、ただ呆然と彼を見つめ返す。
「丈太郎くん……」
隣に立つフィリスは、そんな丈太郎の横顔を静かに見つめていた。かつては野盗に怯えていた少年はもういない。今、目の前にいるのは、誰かの過ちすらも包み込むほどに大きな器を持つ、頼れる青年だ。フィリスの胸の奥に、誇らしさと、そして少しのくすぐったいような温かさが静かに広がっていった。
「だから、フィリスさんも、そんなに二人を責めないであげてください」
丈太郎の穏やかで真っ直ぐな言葉に、マスター室は温かな静寂に包まれた。
「……まったく。丈太郎くんがそう言うなら、これ以上は怒らないでおくわ」
フィリスは小さくため息をつきながらも、どこか誇らしげな目で愛弟子を見つめ、握りしめていた拳をゆっくりと解いた。
「ありがとう、丈太郎……」
セラフィーナは静かに顔を上げた。その紫の瞳には、先ほどまでの狼狽や申し訳なさは消え去り、『帝都の魔女』としての揺るぎない意志と威厳が戻っていた。
「あなたが示してくれた器の大きさに報いるためにも……全力で、あなたの帰還に協力させてもらうわ。私の知識と魔力のすべてを懸けて、必ずあなたを元の世界へ帰してみせる」
「私も、全力でサポートさせてもらいます!」
横に立つリシェルも、両手をぎゅっと胸の前で握りしめ、力強く宣言した。涙でぐしゃぐしゃだった顔を引き締め、その声には確かな気合いが宿っている。
天才と称される二人の魔術師。その力強い決意の言葉を受け取り、丈太郎は深く、静かに頭を下げた。
「はい。よろしくお願いします」
そして顔を上げた丈太郎は、これからの希望を見据えるように、晴れやかで優しい微笑みを浮かべた。




