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第2巻 第6話:深淵への道

背後の存在しない視線、そして胃の中に沈んだ苦いコーヒーの重みを感じていた。ムキョは狭い路地を抜け、折り重なるような壁が朝の光を遮る中を俺を導いていった。

「――なぜだ、ムキョ」俺の声が、誰もいない路地の静寂を切り裂いた。立ち止まり、彼女の細いシルエットを見つめる。「お前は『虚無』だ。その存在だけで天使と悪魔の戦争を止めたはずだ。なぜ指先一つで彼女たちの記憶を戻せない? 彼女たちの中に……俺を」

ムキョはゆっくりと振り返った。その瞳に同情の色はなく、ただ星々が沈んでいくような無限の深淵があるだけだった。

「そんなに簡単なことではないわ、クロナ」彼女は静かに言った。「私の力は『創造』ではない。私は『非存在』。山を消し、魔法を消し、生物の存在そのものを消し去ることはできる。けれど『構築』はできない。記憶とは繊細な繋がりの糸。私の接触は『刃』なのよ。もし私が強引に彼女たちの精神を修復しようとすれば、人格そのものを消し去ってしまうかもしれない。彼女たちが意志も魂もない生きた人形になってもいいの?」

俺は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。

「……いや。そんなことは望んでいない」

「それに」彼女は一歩近づき、言葉を続けた。「リュウザキは想像以上に狡猾よ。彼が使ったのは『禁忌の忘却』。単に思考を封じるのではなく、魂の欠片を引き抜き、別の次元に隠す技術だわ。リュウザキ自身、その魔術で多大な力を消耗して今は弱まっているけれど、代償は大きい。彼女たちの記憶は今、肉体的には彼女たちの頭の中にはなく、彼の世界の宝物庫に保管されているの」

俺は重いため息をついた。つまり、近道はないということだ。

「虚無の世界には戻りたくない、ムキョ」廃墟が立ち並ぶ街の外れに着いたとき、俺は言った。「ここに居場所が必要だ。人間たちの間で。たとえ、俺が彼らにとっての幽霊だとしても」

彼女は頷き、ツタに覆われた窓の割れた古い二階建ての建物を指差した。埃っぽく古い木の匂いがしたが、二階には無傷のベッドが残る部屋があった。

俺は埃の積もったマットレスに崩れ落ちた。ここ数日の疲れがコンクリートの塊のようにのしかかってくる。ムキョは古い木製の机へと歩み寄り、ためらいながら数枚のしわくちゃの紙幣を置いた。

俺は顔を上げ、怪訝そうにその金を見つめた。

「それをどこで? お前の世界に店なんてないだろう」

ムキョは一瞬視線を逸らし、少し決まり悪そうに見えた。

「私たちが最初に出会った日……あなたがホタルの財布を持っていたとき、密かに数枚抜き取ったの。アイスクリームを買おうと思って。でも、結局やめた。そのまま持っていただけよ」

俺の顔に、抗いようもなく微かな、消え入りそうな笑みが浮かんだ。彼女のような存在にとって、あまりにも滑稽で子供じみた行動。そのせいで、胸の緊張がほんの一瞬だけ解けた。あの玉座の間以来、俺は一度も笑っていなかったのだ。

ムキョが不意に側へ来た。冷たい指が俺の頬に触れる。彼女は俺の顔を左右に引っ張り、おかしな形に伸ばし始めた。

「やっとね」彼女は囁いた。「やっと笑ったわ」

彼女はベッドの俺の隣に横たわり、腕を回して体全体で寄り添ってきた。永遠の虚無を、俺の体温で温めようとするかのように。俺は疲れ果てたまま彼女を抱き返し、目を閉じた。この廃墟で、死の抱擁の中で、俺は初めて安らぎを感じた。

「へえ、可愛いじゃない」

ベッドの足元から、唐突でやけに陽気な声が響いた。

ムキョの反応は刹那だった。彼女のオーラが黒い炎となって吹き荒れ、虚無の見えない糸が瞬時に話し手の喉を締め上げた。鈍い音が響き、侵入者の体は力を失い、黒い塵となって崩れ落ち、空中に消えた。

だが俺が飛び起きるより早く、同じ声が背後から聞こえた。

「おっと、落ち着けよ! 攻撃しないって言っただろ」

ドアの隙間に、赤いフレームの眼鏡を直し、穏やかに微笑む緋月聡一が立っていた。紅い翼は背後に整然と畳まれ、黒いマフラーは変わらず肩にかかっていた。

ムキョは跳ね起き、その手には再び危険な闇の光が宿った。不遜な者を現実から消し去る準備を整えて。

「誰よ、こいつは。消してやるわ」

俺は素早く彼女の手首を掴み、制止した。

「待て、ムキョ。いいんだ。こいつは……知り合いだ」

ムキョは動きを止め、俺の手から、まるで観光にでも来たかのように埃っぽい壁を眺めている聡一へと視線を移した。

「知り合い、ね」彼女は疑わしげに目を細めて問い返した。「妙な友人を持っているのね、クロナ。すべてを失った男にしては」

聡一はただ笑みを深めた。その眼鏡の奥に、俺のオーラの炎が反射していた。

聡一は部屋の奥へと進み、窓枠の埃を無造作に払うと、紅い翼を畳んだままそこに腰を下ろした。眼鏡に隠されたその視線は、不自然なほど鋭かった。

「無駄に牙を剥くなよ、虚無の淑女」彼はムキョの魔力を無視して淡々と言った。「君の首を獲りに来たわけじゃない。クロナが喉から手が出るほど欲しているものを提案しに来たんだ。『道』をね」

俺はムキョの手を離さぬまま、眉をひそめた。

「何の話だ?」

「あの『禁忌の忘却』についてだ」聡一はマフラーを直した。「リュウザキはミスをした。君をすべての生者の記憶から消すために、彼は彼女たちの魂の一部を引き裂き、『嘆きのエリュシオン』に隠さざるを得なかった。彼の魔力で作られた亜空間だ。今、リュウザキは弱まり、その場所との繋がりも細くなっている。そして、彼は僕に君の監視を任せている……。僕なら、君たちに割れ目を開いてやれる。彼の私的な宝物庫への入場チケットだと思えよ」

俺は思わず身を乗り出し、鼓動が速まった。

「俺をそこへ入れてくれるのか?」礼を言おうと口を開きかけたが、ムキョが突然一歩前に出て俺を遮った。彼女の手のひらが俺の胸に置かれ、制止する。

「黙って、クロナ」彼女は言い放った。氷のように鋭い視線が聡一を射抜く。「この世界にタダで手に入るものなんてない。何が目的よ、紅翼。魔王に仕えながら、裏切りを持ちかける理由は?」

聡一は低く笑った。その笑いは乾いた葉が擦れ合う音に似ていた。

「目的? そうだな……クロナはいい奴だし、彼があの成り上がりのリュウザキの計画をぶち壊すところを拝んでみたいんだよ。ただの個人的な好奇心さ」

部屋の緊張は肌に刺さるほどになった。ムキョの全てを飲み込むような漆黒のオーラが膨れ上がり、廃墟の壁を崩さんばかりに震わせる。だが突如、異変が起きた。彼女の周囲の黒い霧が淀みを失い、静かに安定し、従順なものへと変わったのだ。ムキョは息を呑んだ。自身の破壊的なエネルギーが、誰かの圧倒的な意志によって調和させられるのを感じたからだ。

それは俺だった。いや、「俺たち」だ。噂は真実だった。黒龍だけが、虚無そのものを抑え込み、鎮めることができるのだ。

そして、数日ぶりに俺の頭の中に、毒と傲慢に満ちた聞き慣れた声が響いた。クラヤミが目覚めたのだ。

(寂しかったか、小僧?)龍は嘲笑うような唸り声を上げ、俺はその見えない冷笑を感じた。(どうやらお前ら、ここにいるのが史上最強の龍だってことを少しばかり忘れてるようだな。埃の中でままごと遊びか……)

ムキョは硬直した。彼女は俺を見た――いや、俺という器を通してクラヤミの瞳を直視した。彼女の声が変質し、俺と龍の双方に響く異界の共鳴を帯びた。

「トカゲさん……」ムキョは囁いた。その声には古の嘲弄が混じっていた。「今回はまともな状況で会えたわね。戦争も血もない場所で。今の器がクロナだったことを幸運に思いなさい。他の奴だったら、あなたのプライドごととっくに消し去っていたわ」

俺は、ムキョが俺の意識に直接声を送り込み、あの古の怪物を黙らせたことに驚愕し、立ち尽くした。

(ハッ!)クラヤミも負けてはいなかった。その声は暗い満足感に震えていた。(今回の器は確かに強い。前にいた腑抜け共とは比べものにならん。お前も気づいているんだろう、虚無? こいつは俺に耐えているんじゃない。お前の本質さえも従えているんだ)

緋月聡一は、この最高位の力同士の無言の対話を、首を傾けて興味深そうに眺めていた。

「素晴らしい。龍と虚無が同じベッドの上で世界の運命を語り合うとは。それで、クロナ? 自分の記憶を取り戻しに行く準備はいいかい? それとも、リュウザキが力を回復して自ら君を消しに来るのを待つか?」

俺は自分の手を見つめた。そこには黒と紅の魔力の火花が交差していた。もう引き返す道はない。

「行くぞ」俺は言った。その声にはクロナの冷徹さだけでなく、クラヤミの鋼の力が宿っていた。「道を繋げ、聡一」

聡一はゆっくりと窓枠から立ち上がった。その顔からは人間らしい柔らかさが一切消え失せ、古の悪魔としての冷酷な仮面へと変わった。次の瞬間、廃墟の部屋は凄まじい圧力に震えた。

彼の紅い翼が全開になり、周囲の空間を轟音と共に切り裂いた。鮮血のように濃く、粘り気のある紅い悪魔のオーラが部屋中に充満し、壁に亀裂を走らせる。聡一が両手を掲げると、目の前の現実が溶け始め、墨のような闇の裂け目が姿を現した。

「嘆きのエリュシオンよ、開け!」彼の声は雷鳴のように轟いた。

リュウザキの次元への門が開き、焦げた匂いと根源的な恐怖が俺たちを襲った。その深淵を見つめながら、俺は内側で激しい怒りが沸騰するのを感じた。血が液体状の炎に変わる。今この瞬間、俺が望むのは、そこへ踏み込み、この世界を根底から焼き尽くすことだけだ。ホタルたちに触れた不届きな存在すべてを消し去るために。

(落ち着け、小僧……)クラヤミが唸った。その声にも同じ怒りと破壊衝動があったが、彼は耐えていた。盲目的な怒りが二人を滅ぼすことを理解していたからだ。(この闇にお前の理性を喰わせるな。まだその時じゃない)

俺は荒く息をつき、瞳孔は垂直に裂け、拳は過剰な力のせいで震えていた。その危うい瞬間に、肩に軽やかな、羽のような感触があった。

ムキョが隣に立っていた。その手は冷たかったが、その冷気こそが俺の胸の火を鎮めてくれた。彼女は何も言わなかったが、その眼差しは「私がここにいる。あなたを消えさせはしない」と告げていた。

俺は深く息を吸い、震えを抑え込んだ。俺のオーラは安定し、虚無の力と一つに溶け合っていった。

「行くぞ」振り返らずに俺は言った。

紅蓮の炎に包まれた聡一が、最初に虚無へと足を踏み入れた。続いて、手を取り合った俺とムキョが裂け目へと入っていく。廃墟の光は消え、門の闇に飲み込まれた。

俺たちは敵の領土へと踏み込んだ。もはや神も悪魔も、俺たちを止めることはできない。

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