番外編3:その神々、カフェで痴情のもつれ
少し長めになりました。
エリオン聖王国は、多神教の信仰が生活に深く根ざした、宗教国家である。
国内には大小さまざまな神殿や教会が点在し、街全体がどこか神秘的な空気をまとい、観光地としても人気が高い。
この国では、信仰の自由が広く保障されている。どの神を信じるか、あるいは信じないか──それすらも個人の選択だ。
改宗に対する偏見も少なく、宗教間の関係も概ね良好である。
ただし、ごくまれに「司る領域」の相性が悪い宗派同士では、少々ぎくしゃくした空気が漂うこともあるが、大きな争いには発展していない。
神々自身も、そうした争いに積極的に関与することはほとんどない。
そもそも、すべての神殿に神が実際に姿を見せているわけではない。
ユランやウィルゼのように、信仰を受ける神殿に住みついている神もいれば、一切姿を見せない神もいる。
神々にとっては、信徒が勝手に神殿を建てているに過ぎない──そんな程度の認識なのかもしれない。
中には、気まぐれに“観光”気分で自身を祀る教会を訪れる神もいるらしい。
信徒が気づかないうちに、すでに神と対面していた──という話も、さほど珍しいものではない。
また、エリオンは移民や難民にも寛容で、柔軟な受け入れ体制を整えている。それにも関わらず、治安は不思議と安定している。
無論、度が過ぎれば、寛容な信徒たちもいずれは怒る。そして、行いが目に余れば──神の目に留まり、“文字通り”消されることもあるという。
逆に、神や信徒に気に入られた者には、思いがけない幸運が舞い込む。
仕事が順調に進んだり、災厄を間一髪で回避したりと、「運がいい」と言われるようになる。中には神に見初められ、神殿に迎え入れられたり、夢で啓示を受けた者もいるらしい。
ただし、そうした奇跡を期待して媚びたところで、神はその浅ましさを見抜いてしまうという。
結局のところ、望む者が、望む神に気に入られるのが一番平和なのかもしれない。
──さて、こんな話をしたのには理由がある。
エディは今、非常に困っていた。
その日は“自由行動”の日だった。
エディは、日々の両神殿からの心身の疲労を癒やすため、カフェでのんびりお茶を飲んでいた。
そこに、ユランとウィルゼ──二柱が揃って現れたのだ。
「……あれ、今日もいるんだ?」
ユランは穏やかに微笑んでいたが、その金の瞳はまったく笑っていなかった。
「……随分と、馴染んでいるな。ゼル=ナバト」
ウィルゼもまた静かに告げたが、その声にはどこか低く、冷たい響きがあった。セドナはというと、そんな威圧をまるで意に介さず、エディの隣で紅茶を飲んでいる。
「うん。ここ、居心地いいんだよ。……特に、エディの隣は」
にこりと笑うセドナ。
──その瞬間、ユランとウィルゼの背後で、空気がわずかに軋んだ。
エディは慌てて椅子を引いて、セドナとの間に少し距離を空けた。
「ちょっと待って。単に一緒にお茶を飲んでいるだけなんだ」
「エディ、念のため確認するが……何か“された”りはしてないな?」
「君を再構成したのは僕だから、干渉があればすぐわかるけど……」
ふたりが真顔で心配してくるあたり、本気で警戒しているのがわかる。
一方のセドナは、紅茶のカップをくるくる回しながら口をとがらせた。
「うーん。私、歓迎されてない?」
「当然だろう」
「君、エディを喰らいかけたよね」
「そうだね。でも、エディは許してくれたよ?」
ため息をつきつつ、エディは頭を押さえた。
セドナは、過去の過ちを言い訳することもなく、否定もしない。
ユランやウィルゼからも価値観のズレを感じることはあるが、セドナはそれとも少し違う。
どこか子供じみていて、善悪よりも“感情”で動いている。
だが、それでも確かに、彼の中には「後悔」と「親愛」が混在しているのがわかる。
「君たち、エディを巡って張り合うの、そろそろやめない?私、そういうの……ちょっと疲れちゃうんだよね」
「張り合ってない」
「張り合ってないしぃ」
即座にかぶせるように言った二柱に、セドナは面白そうに笑った。
そもそも彼──“疫病と厄災の神ゼル=ナバト”こそ、エディが「人間ではない存在」へと変質した、その元凶であった。
あの日。あの裏路地で。
セドナは黒いスライムのような、濁った影の塊と化し、衰弱のあまり、形すら保てなくなっていた。
本能のままに力を求め、供物の気配を帯びたエディのもとへ、ようやく辿り着いたのだ。
エディが彼を拾い上げたとき、そこに害意はなかった。だからこそ、彼は大人しくエディの手の中に収まっていた。
だが、その光景を目にした彼の従僕が、致命的な誤解をする。
「これは主が望んでいた供物だ」と。
しかも、数は多い方がいいとでも思ったのか。周囲にいた孤児たちごと、エディを“捧げ物”として差し出してしまった。
セドナに喰らうつもりはなかった。
しかし衰弱していた彼は、本能的に反応してしまい──無意識のうちに、それを喰らっていた。
結果として力の一部を取り戻し、エディの命を再生した。
……とはいえ、その再生は、あまりに粗雑だった。
人間との接点が少なかった彼には、そうした繊細さがなかったらしい。
後にユランが現れ、自らの一部を使ってエディの身体を修復したことで──
エディは完全に「人ならざる存在」へと変わってしまった。
「ただ……見とれてただけなんだよ。小さくて、優しくて、暖かくて……君の手の中が心地よかったんだ。
そんな存在を、傷つけられるわけないだろう?」
後にセドナはそう語った。
だが、どれだけ善意があったとしても、従僕の行動によって起きた変化は取り返しがつかない。
──だからこそ、彼は和解を求めてやってきた。
エディが市民権を得て、ようやくこの国での暮らしに慣れ始めた頃のことだ。
「私は……謝りたくて来たんだよ。怒ってる?……許してくれる?」
神とは思えないほど幼い言葉に、エディは一瞬唖然とした。
だが、それが本心であることは、なぜかすぐに伝わってきた。
「……まあ、今のところ普通に暮らせてるし。もういいよ」
エディはそう答えた。
過ぎたことを責めたところでどうにもならないし、神に「ごめん」と言わせてそれ以上を求めるのも妙な話だ。
──問題は、それを機にセドナがすっかり気を許してしまったことだった。
以降、「また来ちゃった」と言わんばかりの頻度で現れるようになったのだ。
セドナはその姿を現すだけで周囲の空気を変える。
神秘的な容姿を持ちながらも、どこか病んだ雰囲気が漂い、動物は逃げ出し、人々は恐れ慄く。
神殿の信徒たちですら、彼の突然の訪問に腰を抜かすことがある。
だが当の本人は、そんな反応などどこ吹く風で、ただエディにだけ懐いている。
しかもいつの間にか、ユラ=ナグルを「ユラン」、ヴァル=ゼグトを「ウィルゼ」と呼んでいることも知っていた。
そして、ある日ふいにこう言ったのだ。
「ねえ、エディ。私のことも“セドナ”って呼んでほしいな。そう呼ばれると、なんだか嬉しくなるんだ」
なぜそれを知っている──と、エディは一瞬言葉を失ったが、今さら断る理由もない。
懐かれてしまった今、余計な波風を立てるのも億劫だった。
「……まあ、別にいいけど」
そんなふうに、半ば流される形で了承した結果──「ゼル=ナバト」は、エディの前では“セドナ”になった。
今日もまた、羽根を伸ばすためにカフェに向かっている時、その神は笑顔で現れた。
黒紫の衣をひらひらとなびかせながら、病的なまでに白い肌を晒し、音もなく距離を詰めてくる。
「やあ、また会ったね、エディ。偶然だね?奇跡って、こういうのを言うのかな?」
──絶対、偶然じゃない。ここ一週間だけでも、セドナとの「偶然の出会い」は十回を超えていた。
これはもはや“神によるストーキング”と呼ぶしかない。
旅の途中で感じていた、形にならない違和感──視線のような気配。その正体も、セドナだったようだ。
実はその頃からずっと、見守られていたのだ。
そう思うと背筋がゾッとしなくもない。
エリオンにあるセドナの神殿に彼が居を構えたのも、エディがこの国に来たからだという。
人間との関わりが少なかったセドナは、人との距離感が掴めていない……あるいは、そもそも掴む気がないのかもしれない。
エディにとってセドナとの関係は、きわめて奇妙で不安定なバランスの上に成り立っているように思えた。
なぜセドナがつきまとうのか──その理由は今もはっきりしない。
謝罪と贖罪のつもりなのか、それとも単にエディが気に入ったのか。
本人はいつも笑ってはぐらかす。もっとも、害があるわけではない。
むしろエディが危険に晒されれば、迷いなく庇ってくるあたり、やや過保護ですらある。
最初は困惑していたエディも、最近ではすっかりその存在に慣れてしまっていた。
神に懐かれるなど本来はありえない──だが、日常とはそうやって形づくられていくものらしい。
……もっとも、その“日常”が、新たな火種を呼び込むこともある。
「とりあえず、座って何か頼んだらどう?」
エディは、まずユランとウィルゼを落ち着かせるべく、席に着くよう促した。
本来なら今日は、久々の“完全な一人時間”を満喫するはずだった。
にもかかわらず、なぜか彼らは毎回、エディがどこにいるのかを知っているかのように、ピタリとその場に現れる。
……正直、やめてほしい。
エディとセドナは二人掛けのテーブルに座っていたため、信徒の多い三柱の神を見た店員は、慌てて奥の四人掛けテーブルを引き寄せ、二つのテーブルをくっつけて椅子を並べ、人数分の席を用意してくれた。
ウィルゼは不服そうに席に着くと、静かにコーヒーを注文し、ユランは「ベリーミントの夜明けソーダ」という謎のドリンクを頼んでいた。
「というか、お前またエディに付き纏ってるのか?」
「付き纏ってるんじゃないよ。ただ、会いたかっただけ」
「付き纏ってるじゃん。エディも困ってるよねぇ?」
「それは……エディが、そう言うなら、私は……」
そもそも、付き纏いについて言うなら、二人だってセドナのことを非難できない。
セドナはセドナで、泣きそうな声を出すのがずるい。
小首をかしげたその表情は無邪気なのに、どこか感情が読めない雰囲気を漂わせていた。
「……エディは、君たち二人にとって、どういう存在なんだろう?」
「……は?」
「私は、エディに興味がある。可愛くて、儚くて、綺麗だ。エディ、この間も少し話したけれど、私の神殿に居を移してみない?きっと、信徒たちも喜んでくれるよ」
「おい」
「別にエディは君たちの所有物じゃないでしょう?」
その一言、場の空気がわずかに張り詰めた。ユランの金色の瞳が、小さくキラリと光る。
「へえ、エディに興味がある、ね」
ウィルゼは絹のような淡い紫銀の髪を静かに翻し、まばたきひとつせずにセドナを見据えた。
「──“可愛い”だけで理由になるのか?俺はエディの本質を知っている」
セドナは首をかしげ、あどけない笑みを浮かべたまま応じた。
「なにが問題なのかな?私の神殿も、エディを歓迎すると思うよ。もちろん、無理にとは言わないけれど──でも、エディが今こうなったのは、私が君を喰らったせいだから。最後まで責任を取らせてもらうよ?」
ユランはふっと笑い、シュワシュワと弾けるベリーミントソーダを転がしながら口を開く。
「だったら、僕だって負けないよ。だって、エディの“中”には僕のが混ざってるからね」
ウィルゼが静かに唇を引き結んでから言った。
「エディに注いだ濃度なら、誰にも負けないが」
供物として喰らったこと、再生にユランの一部を使ったこと、そして落とした祝福の濃さの話をしているのだろう。
重要な単語が抜けているせいで、この三人のやり取りはまるで「エディを巡る痴情のもつれ」のように聞こえてしまう。店員の顔色が青くなったり赤くなったりと忙しく変わり、こちらを困惑したように見つめている。
エディは頭を抱えるようにして、三柱を順に見た。
「……あのさ、そろそろやめにしない?」
セドナが目を細め、ユランが口を開こうとしたところを、一瞬で遮る。
「みんなが僕のために考えてくれているのはわかるよ。ただ、これ以上続けると本当に“戦争”になるだろう?
そもそも、僕はただここでお茶を楽しみたかったんだ。
ここで争ったらカフェのお客さんも店員さんも迷惑だし……そろそろ、僕だって本気で怒るよ」
疲れたようにエディがそう言うと、ユランが小さく息を吐き、両手を広げてみせた。
「……まあ、そうだね。僕も少しは空気を読むよ」
セドナはコーヒーカップを一度テーブルに置き、にこりと笑った。
「……うん。わかった。私も大人しくするよ」
ウィルゼはほんの少し頷き、口調を和らげた。
「そうだな。エディの求める静けさのために、協力するべきだろう」
三柱はそれぞれ小さく会釈し、ようやく場の緊張が解けた。
厄災の神、狂気の神、終焉の神。なぜかそろいもそろって自分の前にいる。
(このカフェ、気に入ってたのに……もう二度とゆっくり来られそうにないな……)
こうして、エディをめぐる奇妙な“三つ巴”は、今日も互いに牽制しつつも、どこかでバランスを保っている。
せっかくの休みだったというのに、全く休めなかったが──とりあえず、神々の間で本気の戦争になっていないだけでも、ありがたい話だと思うしかない。