番外編2:正気を失うには、まだ早い
その日、エディはユランの神殿にいた。
ユランはエリオン聖王国に来た当初、「神殿の用心棒を任されている」と語っていたが、実際のところは少し違っていた。
彼がふと、自らを信仰するこの神殿を訪れた際、内部に異様なほどの魔素が蓄積していることに気づいたのが始まりだ。
そもそも、国内の神殿には魔素避けの結界が張られているはずだ。
では、なぜそこまで魔素が溜まっていたのか。
きっかけは、信徒のひとりが魔素の性質を研究し、「何かに利用できないか」と考えたことにあった。
彼はその危険性を理解していながらも、抑えきれない好奇心に突き動かされ、研究を続けてしまったらしい。
その結果、神殿には“ありえない量”の魔素が蓄積していた。
普通なら、そこまで至った時点で手を引くものだ。
だが──さすがはユランの信徒。いや、混沌と狂気の神・ユラ=ナグルの信徒と言うべきか。
彼らにとって「ここまで来たら引き返せない」は、もはや合言葉のようなものだったのだろう。
その信徒はそのまま研究を続行したという。
ユランは気まぐれに魔素を祓い、結果的に神殿を救った──というのが真相らしい。
そんな経緯で用心棒として迎えられていたユランが、実は自分たちの信仰対象だったとわかったときには、文字通りの阿鼻叫喚だったという。
ウィルゼの神殿は、沈黙と終焉を司る神にふさわしく、信徒たちも粛々と、淡々としている。
時に真顔でとんでもないことを口にするので肝が冷えることもあるが、神殿そのものは落ち着いた印象だ。
一方、ユランの神殿はというと……。
感情豊かで活気にあふれている、と言えなくもないが、実際は──激情型で奇行が目立つ。
「それ、本当にやったら人生終わるよ?」というようなことを、平然と、しかも本気でやろうとする。
危うさという点では、ウィルゼの神殿と大差ない。
方向性が違うだけで、どちらもジャンルはホラーである。
夜遅く、どこからか奇声が響き渡り、エディが飛び起きることも珍しくなかった。
昼下がり。神殿の中庭で、エディは久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた──はずだった。
「エディ様!実験に付き合ってください!」
突如、信徒の一人がすごい勢いで駆け寄ってきた。
その手には、ぐにゃぐにゃと形を変える黒い液体の入った瓶。
「……一応聞くけど、それ、何?」
「大丈夫です!使用するのは私ですから!」
使用者は聞いていない。中身を聞いている。
エディは目頭を揉みながら、もう一度問い直した。
「その、“中身”を聞いてるんだけど?」
「ああ!こちらですね!」
どうやらその液体、「触れると正気を失う試薬」らしい。
大丈夫だよ。君はもうすでに正気を失ってる。というか、狂気チェックを人体実験でしないでほしい。
以前にもとんでもない実験をしようとしていたところに偶然通りかかって、慌てて止めたことがある。
そのとき「今後なにかするなら先に教えて」と約束させたのだが……
まだ実行前に声をかけてくれただけ、進歩と見るべきか。……いや、どうだろうか。
「とりあえず、わかった。それ、何に使うつもりなの?」
わかりたくないが、とりあえず聞いておく。
……そんなもの、一体何に使うつもりなのか。
「沈黙と終焉を信仰する神殿に投げ入れます!」
「やめて!!!」
エディは反射的に叫んでいた。
自分はどちらかといえば冷静な方だと思っていたのだが、ウィルゼの信徒といい、ユランの信徒といい……。
彼らと関わっていると、なんだか自分の人格が削られていくというか、アイデンティティが揺らぐというか……そんな感覚になる。
周囲を見れば、数人の信徒が「わかる……私も今、それをなせと声が聞こえる」と真顔で頷いている。
ユランの信徒は、理性と感情に続いて、“第三の声”が聞こえることがあるらしい。
エディには聞こえない。聞きたくもない。
そして、これは確信していい──正気ではない。
「なんで……そんなことしようと思ったの……?」
話を聞くと、発端はどうやら、最近のエディが疲れているように見えたことらしい。
「エディ様のお疲れを取るには、どうすればよいか」──まずは、そんな話から始まったという。
安心してほしい。
ユランやウィルゼの信徒たちが、とんでもないことさえしなければ、心労はだいぶ減る。
だが、そんなことを口にできるはずもなく、エディは黙って続きを促した。
話の流れはこうだ。
エディは日々、ユランとウィルゼの神殿を行き来している。
そのため、環境や寝床の違いで、疲れが取れないのではないか──。
ならば、こちら、ユランの神殿を拠点にしていただいたほうがよいのでは?
それに、エディ様がこの神殿に長くいてくださるのは、我々としても非常に喜ばしいことだ。
そういう話し合いの末に、たどり着いた結論がこれだった。
「……では、沈黙と終焉の信徒を排除しよう」
突飛すぎる。極論すぎる。いや、最終手段に至るまでの流れが最初から狂っている。
「落ち着いて……一度、落ち着いて考えを整理しよう。
ウィルゼの信徒を“排除”って……どう考えてもダメなやつだよ?」
エディは、自分自身も落ち着くために、ゆっくりと口を開いた。
とんでもない方向に進みかけている話を修正するには、まず根っこから立て直さなければならない。
だが、信徒たちはきょとんとした顔で首を傾げるばかりだった。
「……ですが、エディ様の心労を取り除くことが第一かと……」
「そうです!あちらの信徒たちが原因なら、その根を断つのが正解では?」
「エディ様の笑顔のために……!」
「違うよ!……まずは“人道”とか“倫理”って言葉を覚えようか?」
エディが必死に止めに入るが、信徒たちはむしろ熱を帯びていくばかりだった。
「でも、エディ様、夜中に飛び起きるほどお疲れなのでは?」
「そうです。よく飛び起きると聞きましたが、あれはきっと“静寂と終焉の神殿”に原因が……!」
──違う。君たちの奇声で何事かと飛び起きてるんだよ。
エディは口には出さなかったが、内心で静かに否定した。
「…………」
沈黙が落ちる。
だが、次の瞬間──信徒のひとりがぽんと手を打った。
「……なるほど。では、いっそ両神殿を統一して、ユラ=ナグル様の下にまとめ──」
「………」
エディは額を押さえた。目眩がする。
ユラン信徒の“混沌”は、放っておくと人を巻き込んで広がっていく。
例の“正気を失う試薬”を持っていた信徒も、まだ目を輝かせたまま立っていた。
「それでエディ様、実験には──」
──だめだ。
誰ひとり、僕の言いたいことを理解してくれない。
というか、そもそも話を聞いているかどうかも怪しい。
「面白そうな話してるじゃん」
そこに、ユランが現れた。
その言葉に、自分たちの提案が肯定されたと勘違いした信徒たちが、一斉にまくし立て始めた。
「この薬を完成させて、沈黙と終焉の神殿に──!」
「エディ様の拠点を、こちらに──!」
「あちらの信徒を根絶やしに──!」
「両神殿の統一を──!」
普段は話しかけるのにも遠慮がちなのに、いざ火が点くとこの有様である。
テンションが上がりすぎて、誰も彼も止まらない。
ユランはというと、「うんうん」と軽く相槌を打っているが、聞いているのかどうか判然としない。
──と、思った次の瞬間。
「全部やろっかぁ」
信徒たちの発言が一段落した頃、ユランがそんなことを言い出した。
あまりにさらりとした口調だったため、エディは一瞬、聞き間違いか、あるいは適当に流しただけかと思った。
「まずは、神殿内を“混沌”で満たして……統一の提案を受け入れない者は、排除しようかぁ」
……全部、聞いたうえで言っている。
ユランの口元には穏やかな笑みが浮かんでいるが、その金色の瞳は狂気にきらめいていた。
まったく冗談に聞こえない。心底、実行する気で言っている。
まずい。
ウィルゼとユランは、エディの前では大人しくしているものの、根本的な価値観が真逆で、互いに折り合いがつかないことが多い。
普段はエディの存在が抑止力になっているが、それぞれの信徒が絡むと話は別だ。
最悪、宗教間どころか神同士の争いに発展しかねない。
信徒たちがさらに盛り上がる前に、エディはできるだけ穏やかに、しかし現実的な脅しも交えて声をかけた。
「両神殿を統一するなんて言い出したら、絶対にウィルゼが黙ってないよ。
……もしそんなことを始めたら、僕はこの国を出ていくからね」
落ち着いた口調で、あくまで理性的に。けれど、その言葉には本気の静かな圧が込められていた。
なんとか話をそらし、なだめすかし、信徒たちの暴走を抑えることに成功したエディに、
ユランは「そっかー、ならまあ……今回は見逃してあげるかぁ」と気まぐれな笑みを浮かべて引き下がった。
──だが、エディにはわかった。
あれは、“自分が止めなければ本当にやっていた”目だった。口元は笑っていても、瞳は確かに狂気を湛えていた。背筋が冷える。
そして何より厄介なのは、信徒たちが“納得して引き下がった”のではなく、
“エディがそう望むなら”という理由だけで大人しくなった、ということだ。
本質的な問題は、何ひとつ解決していない。
その日の夜も──エディは、どこからともなく響いてきた信徒の奇声で目を覚ました。
叫び声の内容は判然としない。たぶん、また誰かが新しい混沌を生み出したのだろう。
目をこすりながら天井を見上げ、エディはぼんやりと考える。
……いっそ、別の仕事でも探そうか。
遠く離れた街で、小さな家を買って。
朝に目覚めて、誰の悲鳴にも邪魔されず、平和な一日を過ごす──ただそれだけの、ささやかな夢。
エディはため息をひとつ吐き、枕に顔をうずめた。
夢を見られるのは、せめて眠れている間だけだ。
そしてまた、遠くから「成功したー!!!」という絶叫が響いた。
何が完成したのかなんて、考えたくもない。
「……もうやだ……」
そのぼやきは、布団の中で静かに消えた。
この神殿の危うさは、相変わらずそこにある。




