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数日が過ぎた。
エリオン聖王国では、難民として入国した者にも公平な処遇が与えられていた。
一定の身元確認と簡易的な審査を経たうえで、法に触れる行為や重大な違反がなければ、原則として「仮住民」として認定される。
さらに、数日から数週間のうちに就労や地域への協力が確認されれば、正式な市民権を得ることも可能だった。
その柔軟さと寛容さが、多くの移民や信仰者をこの国へと惹きつけているのだという。
そんな制度のもと、ユランは早々に仕事を得ていた。
「なんかぁ、あの神殿、魔素が濃くて気持ち悪かったから、ちょっと浄化してあげたら、すっごく喜ばれてさー」
本人は肩の力を抜いた調子でそう言っていたが、事情を知る者からすれば、それは完全に“神の所業”である。
以来、ユランは神殿の住み込み用心棒──という名目で、日中は境内の巡回、夜間は魔素の乱れの監視を任されていた。
実態としては、ただそこに「いてくれる」こと自体が結界代わりになるようで、神官たちは深く頭を下げていた。
一方、エディはというと、王都の外縁にある難民区域で暮らしていた。
衛兵による登録の際に、「最長で一ヶ月は無料で滞在可能」と説明されていた区域で、仮設とはいえ寝起きできる宿舎と、質素な食事が用意されている。
ここで衣食住に困ることはなかったが、いずれは出ていかねばならない。
エディは日々、求人掲示板を見に通いながら、仕事を探していた。
ぎっしりと貼られた求人票を、エディは黙って一枚ずつ目で追っていた。
洗濯、荷運び、皿洗い……どれも悪くはないが、どれも何かが違う気がした。そう思いながら、紙の端を指先で撫でていると──
「……お仕事をお探しでしょうか?」
不意に、落ち着いた声が背後からかけられた。
驚いて振り向くと、そこには白衣をまとった神官が立っていた。
まだ若く、三十代前後に見えるが、そのまなざしは穏やかで、どこか芯のある気配をまとっている。
「ええ……少しでも稼がないと、滞在が厳しくて」
エディが素直に答えると、神官は小さく頷いた。
「なるほど。しかし……やはり、ですね」
神官はふと表情を改め、エディをまっすぐに見つめた。
「先ほどから感じていたのですが……あなたの内側に、ごく微細な聖力の揺らぎがあります。まだ目覚めきってはいませんが、確かな兆しです」
「……僕に、聖力が?」
エディが戸惑い気味に問い返すと、神官は静かに頷いた。
「はい。もちろん、日常に支障をきたすようなものではありませんが、希少な素質です。こうした感覚は、訓練された者にしか分からないもので……信じがたいかもしれませんが」
神官はそっと懐から証印のついた札を取り出し、エディに見せる。
その紋章は、この街にある神殿の正式な証であり、見れば誰もが正規の神官だと分かるものだった。
「正式な測定装置は神殿にあります。簡単な計測と、面談のようなものですが……もし、あなたに相応の素質があるなら、神官見習いとしてお迎えすることもできるでしょう。住まいと日々の糧は、神殿が責任を持って用意します」
「……試すだけでも、構いませんか?」
「もちろんです。ご案内します。足元にお気をつけてくださいね」
神官は柔らかな微笑みとともに踵を返し、石畳の小道を歩き始めた。
エディはその背を追いながら、そっと息を吸い込んだ。
神官のあとに続き、石畳の道を歩いていく。
王都の中心部へ向かうにつれ、通りには整然とした建物が並び、人の往来も増えていった。
けれど、どこか張り詰めたような雰囲気はなく、柔らかな陽光とともに、静かな祈りの気配が街に満ちていた。
「この先が、我々の神殿です」
神官が指さしたのは、街の一角にある白い石造りの建物だった。
大きな鐘楼を備えたその神殿は、装飾こそ控えめだが、長い年月を重ねた風格を感じさせる。
扉の前には数人の修道者が出入りしており、その姿は清潔で整っていた。
エディが神殿の前に立ったとき、ふと目の端に見慣れた顔が映った。
「……ウィルゼ?」
思わず呟くと、日陰に立っていた青年が緩やかに顔を上げた。
「ウィルゼ……無事だったんだね」
「うん、エディも」
たったそれだけのやり取りだったが、それがすべてを物語っていた。
「……国が、あんなことになるなんて……」
「……あぁ。まさか、あそこまでとはね」
ウィルゼの声は静かだが、その奥には確かな痛みが感じられた。
彼は以前、路地裏で共に過ごしたころと変わらぬ穏やかさを保っていた。
──スェンレリカ王国の路地裏にいたころのウィルゼは、“年長組”の一人として“律守”と呼ばれていた。
彼自身は、ただの年上の“兄貴分”のように振る舞っていたが──孤児たちは、そんな彼を慕っていた。
ルールや約束を破らず、曖昧なことをて見過ごさないその姿勢は、まるで目に見えない秩序を守る者のようで……
だからこそ、困ったとき、誰かに頼りたいとき、孤児たちは自然と彼のもとへ足を運んだ。
一見すると、“相談役”と同じような立ち位置にも思える。だが、ウィルゼの“解決”は少し違っていた。
彼はまず、当事者同士に「どうすればいいか」を考えさせ、その上でお互いにルールを決めさせた。
そして、それを必ず守らせた。
ただ──その“律”を破ったとき、ウィルゼは穏やかさを崩さぬまま、冷ややかに沈黙した。
声を荒げることもなく、怒りを露わにすることもない。ただ静かに、そして容赦なく、突き放すのだ。
秩序を守るために自ら作った約束を破った者は、やがて周囲からの信頼を失う。
ファミリーの誰からも顔を背けられ、居場所を失った者は、最終的にその場を離れるしかなくなる。
だからこそ、孤児たちは彼を恐れ、そして何より、深く敬っていた。
「最期の秩序の門番」──それが、“律守”と呼ばれていた理由だった。
「この国にいたんだね。何してるの?」
「んー、まぁ……ここで働いてるよ」
ウィルゼは相変わらずの調子で肩をすくめる。
あえて詳しく語らないその様子に、エディは何かを察しかけたが、すぐにそれ以上は追及しなかった。
その横で控えていた神官は一歩下がり、ウィルゼに穏やかに頭を下げた。
「なるほど……お知り合いでしたか」
「昔ちょっとね」
ウィルゼは簡潔にそう返しつつも、どこか嬉しそうに目を細めていた。
それを見た神官は、さらに一つ頷いてから、軽く事情を説明した。
「彼は、掲示板の前で求人を探しているところでした。偶然出会い、私のほうから声をかけさせていただいたのです」
「へぇ」
ウィルゼはその言葉に興味深げに眉を上げた。神官は続ける。
「彼の中に、ごく微細ながら聖力の兆しが感じられました。完全に目覚めているとは言えませんが、希少な素質です。正式な測定は神殿で行うことになっておりまして……こうしてご案内させていただいた次第です」
「なるほどね。……ここからの案内は俺が引き継ぐよ」
「そうですか?ではお任せいたします」
ウィルゼが神官にそう告げると、再びエディに向き直る。
「では私はこちらで失礼しますね」
そう言って神官は先に神殿に入っていった。
ウィルゼは口元に笑みを浮かべたまま、エディの方にちらりと目を向けた。
「……聖力、あったんだな」
「自分じゃ、全然わからないけどね」
「ははっ。そうか」
ウィルゼは、かつて路地裏で仲間にかけていたのと同じ声で言った。
変わらぬ穏やかさと、確かな温かさを携えて。
「じゃあ、装置のある場所にいこうか」
エディは小さく返事をし、ウィルゼのあとに続いて神殿の中へと足を踏み入れようとした。
──そのとき。
「お迎えに上がりました」
背後から、耳の奥にしみ込むような低い声が落ちてきた。