5(完結)
その言葉に、心臓が一瞬、凍りついた。振り返ることもできず、足元がわずかに震える。
視界の端に見えたのは、影のように黒い衣をまとった男──あのときのと同じだ。
その姿、その声が、封じ込めていた記憶の蓋を無理やりこじ開けてくる。
(……路地裏……)
頭の奥で、何かを踏み潰すような音が蘇る。
降り注ぐ血の雨の音。鼻をつく鉄臭い生臭さ。
ひび割れた地面に、赤黒い液体がゆっくりと広がっていく。
目の前で倒れていた子。壁にもたれたまま動かない子。
手を伸ばし、助けを求めていた──あの子。
踏み潰された虫のように、無惨に折れ伏した孤児たちの姿。
どこまでも冷たく、どこまでも惨い現実。
自分の胸元から噴き出した、自分のものとは思えない鮮血の熱。
(……みんな、死んだ……)
思い出した。あの場にいた全員。
自分を含めて。あのとき、自分は確かに──死んだ。
喉の奥から突き上げるものを、もう抑えきれなかった。
「……っ、ぐ……!」
胃の奥がきしみ、喉が焼けるような嘔吐感に襲われる。
次の瞬間、エディは神殿の敷石に手をつき、その場に吐き出した。
ウィルゼが男を睨んだが、その男は何一つ表情を動かさない。
「……っ……なんで……」
崩れた声が、自分でも意味をなさないまま漏れ出た。
身体が震え、歯が噛み合わず、意識が霞んでいく。
その中で、黒衣の男はただ一言だけ、告げた。
「“あの方”は、あなたがいらしたことを喜んでおられます」
それは喜びというより、“収穫”の報せのようだった。
エディが嘔吐し、肩を震わせてうずくまる中で、あの黒衣の男は一歩も動かず、ただ無表情に見下ろしていた。
神官がエディの背を支えながらも戸惑いを隠せず、ウィルゼが前に出ようとした、そのとき。
「──やめてやってよ。かわいそうじゃんか」
軽やかな声が、石畳の上に風のように流れた。
どこからともなく現れたのは、銀白の髪を揺らし、金の目をした青年──ユランだった。
空気が、一瞬で塗り替えられた。明るいのに底が見えない、不気味なほど柔らかい笑顔が、その場を支配した。
「ほら見なよ、顔真っ青でゲロゲロしちゃってさ。トラウマ刺激するなんて趣味悪いよぉ。ねぇ?」
ユランは深々とため息をつくと、しゃがみ込んでエディの背にそっと触れた。
その瞬間、嘔吐の残滓が消え、体が落ち着きを取り戻していく。
ユランは黒衣の男へ言葉を続ける。
「ほんっと、迷惑だったんだよねぇ。エディを最初に“戻した”お前のご主人様──“喰らって”力を取り戻したくせに、なんていうか、ほんと雑でさ。
精神面もそうだけど──臓器の再構成も中途半端で、魂の糸なんて、もう切れかけてたし。生き返らせるだけならそれでもいいけどさぁ、動けなきゃ意味ないでしょ?見つけたときは、もう間に合わないかと思ったよ。だから仕方なく、僕の髪を分けて補ったの。まあ、強い再生力あるし」
「……髪?」
「うん、僕の一部。すごく便利だけど──そうすると当然、混ざっちゃうよね。だから、君は少しだけ変わっちゃってる」
エディはかすかに顔を上げる。
ユランの金色の瞳が、まるでおかしみでも含んだように、優しく細められた。
「ほんのちょっと、“僕たち寄り”に変わってる」
「“僕たち寄り”……?」
「そう、人間が言うところの“神”ってやつ」
「なんで……」
「んー、まぁ……僕が気に入ったから?でも、それ以上に──ほら、放っておけなかったの。ボロボロだったもん、あのときの君」
ユランは、ふと真顔になって囁く。
「“壊れたもの”を直すのって、僕の本分だからさ」
その笑顔は、暖かくて、どこか狂っていた。
そこまでただそのやりとりを見守っていたウィルゼは眉を上げ、会話に割って入った。
「話が違うだろ。“不可侵”って、約束だったはずだ」
ウィルゼが一歩前に出ると、空気がひやりと凍った。
彼の髪は銀に淡い紫が溶け込んだような色をしており、光の角度によって月光のようにも見える。
一本一本が細く、風もないのに揺らめいているような、奇妙な静けさを纏っていた。
肌は病的なまでに白く、光沢も血色もなく、まるで生気を持たない蝋細工のようだ。
そして、彼の瞳──濃い灰色の中に、淡く青白い光の粒が浮かぶ瞳は、まるで深淵の底に、死んだ星の残骸が浮かんでいるようだった。
その目がギラギラと、あからさまな敵意を込めてユランを睨みつける。
「……“不可侵”のはずだ、ユラン」
ウィルゼの声は深く、冷えきった水底から響くように低く落ち着いていた。
「手出しはしない、干渉もしない──そういう取り決めだったな?」
ユランは肩をすくめて、困ったように微笑む。
「うん、そうだったよ。僕だって守ってたつもりなんだけどなぁ?」
「ならどうしてこうなっている。気配がおかしいと思ったんだ」
「……“既に壊れかけてる”ものを手直ししただけだよ?それって“干渉”っていうの?
どっちにしてもあの場で対応してなければ、エディはこの場にいないよぉ」
ウィルゼの瞳が一瞬、淡く閃いた。
その瞬間、周囲の空気から音が消える。まるで世界が呼吸を止めたかのような沈黙。
「……そんなに怒んないでよ、じゃあ君だったらどうしたのさ?
エディが傷つくなら、僕は黙っていられない。……それは、君も同じだろ。」
ヴェルゼは短く息を吐き、わずかに眉を上げた。
「……そうだな」
ウィルゼの瞳が、虚無の青白い輝きを帯びてユランを穿つ。
「今後の行動がすぎるようなら、彼をこちらの領域へ引きずり込む」
一瞬、空間そのものが凍てついたような静けさが場を包む。
それでもユランは笑みを崩さず、しゃがみ込んだままエディの背を撫でながら、まるで呟くように返した。
「──そのときは、僕も“本気”出すよ」
ユランとウィルゼのやりとりが一旦収まるころには、エディの嘔吐感も、霞んでいた意識も、少しずつ戻りはじめていた。
荒く息を吐いて顔を上げる。背中にはまだユランの手の温もりがあり、あたたかいというより、妙に落ち着く感触だった。
そのとき、不意にユランが呟いた。
「……っていうか、まだいたの?キミ」
声の矛先は、あの黒衣の男へと向けられていた。
「お迎え?ご苦労さま。エディはいかないよ。さっさと、お前のご主人様のところへ帰りな」
静かに、しかし明確な拒絶の意志を込めた声音だった。
男は何も言わず、ただじっとユランを見据えたまま、しかしその視線が徐々に退いた。
やがて黒衣の男は、フードの奥でほんのわずかに眉を動かし、すうっと空気に溶けるようにその場から姿を消した。
静寂が戻る。だが、エディの頭の中は逆にざわついていた。
「……ちょっと待って。僕、話が全然見えないんだけど」
絞り出すように言葉を吐く。
気分はまだ万全ではないが、それでも、このまま黙っていられるほど鈍感ではなかった。
「さっきの男は何?“あの方”って誰?……ていうか、君たちは何なの?」
ユランとウィルゼが同時にエディを見た。
「……あぁ、そっかぁ。説明、まだだったっけ」
ユランが苦笑いを浮かべながら立ち上がると、埃を払うように手を払った。
「僕たちは、うーん……そうだね。人間が言うところの“神”ってやつ。
まあ、役職とか立場とかは色々あるけど、今はそれでいいやぁ」
「……神?さっきも言ってたね」
「そう。ウィルゼも、僕もねぇ。で、さっきの黒いやつは──」
「“厄災の神”──そう呼ばれている存在だ」
ウィルゼの声は低く、怒気を抑えたようだった。
「正確には、その従僕。主神は、スェンレリカ王国が魔王としていたやつだ。
……弱りきって潜伏してたんだろ。お前、あの従僕が現れた時何かなかったか?」
「あぁ……見慣れないファミリーが居て、黒いスライムみたいなのを追い立ててたね。仲間が怪我をさせられたって」
「多分それが主神だ。エディ、お前に引き寄せられる形で、そこに居たんだろ」
「……引き寄せられたって、なんで僕が……」
「それは君が、“本来この世界の存在じゃない”からだよ」
ユランがさらりと答えたことで、エディは目を丸くした。
「知ってたの?」
自分には前世があり、別の世界の記憶があると誰にも話したことはなかった。
「君は──そうだな。巫女、花嫁、贄……呼び方はいろいろあるけど、もともと“神に捧げる供物”として、どこかの異世界から呼ばれた存在」
「………………は?」
脳が一瞬、理解を拒絶した。
「何千年も前の話さ。あの頃はね、神に力を願うために、他の世界から“美しい魂”を引っ張ってくるのがちょっとした流行だったの」
ユランは冗談のように笑って言う。
「でもね、君はなぜか──こっちの輪廻に入り込んじゃった。
つまり、召喚されたあとも、ずっとこの世界で生まれ変わり続けてる」
「……ありえないだろ、そんなの……」
「ありえないから、今や神々の間でも眉唾物の存在なんだ、君は」
エディは言葉を失った。
今まで感じていた微かな違和感──なぜか場の空気に馴染まない自分、見たこともない風景を“知っている”記憶の断片。
それが、まさかそんな理由だとは。
「……じゃあ、僕を“喰らおうとした”っていうのは……」
「おそらく、エディの魂に“供物としての痕跡”がまだ残ってたんだろうね。
だから、従僕が主人様に捧げようとして、あのまま殺しかけた」
ユランは肩をすくめた。
「ほんと、迷惑な話だねぇ。あと一歩で取り返しがつかないところだった。
でも多分主神も喰らうつもりはかったんじゃないかなぁ。……そのつもりだったら僕も間に合ってないよ。
まぁ、それにしては血肉が足りてなかったから、思わず喰らったって感じかもねぇ」
ウィルゼも口を開く。
「そもそも、そういった召喚が起きないよう、世界は一度書き換えられている。
供物召喚という概念すら、もはや成立しない構造になっているはず」
「あの頃供物の取り合いで、神々がギス付いてたもんねぇ。危うく世界がなくなるところだったしぃ」
「だからこそ、なくしたんだ。なのにエディだけが、その構造の外に残っている」
「そんな事言われても……」
エディはただ、声を震わせるしかなかった。あまりにも現実離れした話だ。
けれど、この二人の態度と、あの黒衣の男の異様さを見てしまったあとでは、否定することすらできなかった。
ユランは指先でくるくると髪を弄びながら、無邪気に言葉を継いだ。
「多分この先一生、エディは神様ホイホイだし、入れ食い状態だと思うよぉ。ほら、見た目も可愛いし、魂の匂いも甘いし」
「……お前な」
ウィルゼが低く制止するが、ユランは肩を竦めてへらりと笑うばかりだ。
「冗談だよぉ、半分はね。でもさぁ、本気でそう思う神、きっと他にもいるよ?気をつけてね、エディ」
その言葉が冗談でないと、エディにもわかってしまった。
彼らの語る世界──いや、“神々の世界”は、エディが知るものとはまるで異なっていた。
供物。概念の改変。世界の再構築。現実味のない言葉たちが胸に刺さって抜けない。
けれど、逃げ出すこともできなかった。
静かに風が吹いた。どこかの鐘が、遠くで鳴っていた。
「……せめて、普通に生きられる道があるといいんだけどな」
そう呟いた声は、神々には聞こえなかったふりをされた。
──そして、エディはまだ知らない。
この先、自分が「神様対応窓口」みたいな役割を任され、やれ神殿同士の言い争いだの、やれ信者同士のケンカだの、
果ては「どっちの神殿に泊まったほうが夢見がいいか」なんて、正直どうでもいい問題にまで巻き込まれることを。
結局、路地裏の“相談役”とやってることが変わってないよ、そんなツッコミを、彼がするのはもう少し先の話。
夜が静かに降りてくる。神々と過ごす、平穏とは程遠い日々が、今まさに始まろうとしていた。
本編では触れていませんが、ユランは「混沌と狂気の神」、神名はユラ=ナグル。
ウィルゼは「沈黙と終焉の神」、神名はヴァル=ゼグトといいます。
「主人公!全力で逃げて!」「そこだ、主人公を捕まえろ!二度と離すな!」
……そんな矛盾が発生するような物語が、大好物です。
短編のつもりが、気づけばずいぶん長くなってしまって、結果として五話に分けることになりました。
文字を書くって、本当に難しいですね。
書きたかった雰囲気が、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




