5 秋の足音
月日は、飛ぶように過ぎていく。
カナタにとってこの夏は、今までの人生で一番と言って良いほど忙しい夏となった。通常の薬草採取や調合といった仕事に加えて、ジークからの依頼に応えなければならなくなったからだ。依頼内容はもちろん、ジェリーチの収穫である。
目論見通り、領主様はジークが発見したジェリーチの新しい活用にそれなりの価値を見出したらしい。領地の資源を使って、この新たな試みの全面的な支援をすることを即座に決断したのだった。王都への売り出しも、領を上げて取り組んでいくつもりらしい。
もちろん、それ自体は喜ばしいことだ。しかし、おかげでカナタ自身も忙しさに明け暮れることとなったのだった。
ジェリーチの旬は、初夏から夏の終わりにかけて。その機会を逃せば、もう今年の収穫はできなくなってしまう。来年以降は人工的な栽培も視野に入れているものの、今年手に入る素材はこの期間に収穫したものだけで打ち止め。
となれば、できるかぎり多くのジェリーチを手に入れておきたいのは当然の結論だろう。このジェリーチが辺境領の将来を左右するかもしれないともなれば、責任は重大だ。
そんなわけで、カナタは一般人が立ち入らない北の森を任され、その収穫に追われることになっていたのだ――。
「といっても、そろそろさすがに限界かなー」
すっかり黄色く色づいたジェリーチの葉を眺めて、カナタは嘆息した。
葉がまばらになった果樹に、先日まであった果実の姿はない。ざわめく音と共に吹き抜ける風は、もう秋のもの。夏は終わったのだ。
忙しかったジェリーチの収穫も、これでおしまい。追加の仕事もこれでお役御免となる。
「まぁ良いタイミングだったかも。そろそろ、例の仕事の時期だし……ね」
あっさりとこれ以上の採集を諦めて、カナタは採集かごを足元に放り投げる。そして、すぅっと息を吸って五感を研ぎ澄ませた。
風が、わずかな大地の震えが、そして命の気配があらゆる情報となってカナタのもとへ押し寄せてくる。その中に、人の気配はなし……うん、大丈夫。
わずかに身体を震わせると、ぱさりと衣服が地面に落ちる音がした。そっと瞼を開けばいつもより目線の低い、でも馴染み深い視界が広がる。
(うぅーん、完全な狼の姿になるのは久しぶりだから、気持ち良い!)
一瞬のうちに狼へと変身したカナタ。その解放感を味わうように、前脚を前方に伸ばして大きく伸びをする。秋の冷たい風の匂いが胸いっぱいに広がった。
うぅ……と喉の奥で満足げな唸り声をあげ、自身の身体を振り返る。白銀の毛皮が、陽の光を受けてさらさらと輝いた。自慢の尻尾まで、ぴかぴかな毛並み。完全に狼に変化したことで、心が浮き立つほどに身体が軽い。
腹の底から滾るものがぐんぐん湧いて来て、堪えきれずカナタは勢いよく駆け出した。風と一体となり、木々の隙間をすり抜けて北の森をどこまでも走る。
しばらくそうして早駆けを楽しんでから、勢いよく小高い丘の上まで駆け上がった。眼下に広がる景色を見下ろして大きく息を吸うと、カナタは感情の迸るままに高らかに遠吠えをする。
「わぉおおおーん」「ゎぉおー……ん」「ゎぉー……」
大気を震わせるその遠吠えは、北の森に、そして辺境領一帯に何度もこだまして響き渡っていく。その音を聞きながら、カナタはすっと意識を集中させた。
(うん……やっぱり、湧いてる)
くん、と鼻をひくつかせ迷うことなく向かう先は、北の森のさらに深部だ。
やがて、大きな倒木の陰にできた水たまりほどの大きさの灰色の沼に行き当たって、カナタはそこで足を止めた。沼の周辺だけ、鳥の声すら呑み込まれてしまったような不気味な静寂に包まれている。
見下ろしても底の見えない灰色の水面は、カナタの狼の姿を映すこともない。濁ったさざ波からわずかに立ち昇るのは、腐臭のような不吉な臭い。
その沼の中に、カナタは迷うことなく前脚を突っ込む。
ジュッ、という音と共に足元の沼が霧散した。それと同時に、何処となく陰鬱だった周囲の空気が軽くなる。それはまるで、止まっていた時が動き出したようだ。
(はい、まずは一か所目、と)
冷静にその様子を観察してから、カナタは次の向かう先を探して再びあたりの気配を探る。
(今年は十一か所かぁ……結構多いなぁ)
脳内で溜め息をつくが、狼の姿で走り回る解放感に比べればその程度取るに足らない問題だ。後ろ脚に力を入れ、カナタは元気よく駆け出していく。
銀色の身体はあっという間に木立の中へと溶けていった。
――動物と異なり、繁殖せず老いることもない魔獣。しかし、彼らは放っておくとどんどん狂暴化し、その脅威を増していく。
魔獣の成長は何が原因で進むのか、そしてどうやって個を増やしているのか――その謎は今でも解き明かされていない。
しかし、辺境領の魔獣においては、この沼が重要な要素となっていることをカナタは知っていた。これを放っておくと、魔物たちはどんどん増え、また強い魔物が生じやすくなっていくのだ。
その沼を浄化すること。
それこそが、カナタが密かに母から引き継いだ仕事であった。
(もうすぐ魔物の大討伐が始まる。それまでに一帯を掃除しておかないと……)
辺境領は、国境領とは違う。ここは世界の果て。その先にヒトの住める場所はない。
国境領の脅威は隣国の侵略だが、辺境領の敵はこの果てから現れる魔獣の侵攻だ。それは終わりのない防衛戦で、そして消耗戦にしかならない戦いだった。負けるわけにはいかないくせに、勝っても得られるものは何もない。
だから、こっそりと、密やかに。カナタはそんな辺境領に住む彼らのために、魔獣の間引きに努めているのである。
魔獣の脅威を抑えることで、ここに住む者たちの生活の一端を自分が守っている――それは、カナタのささやかな自尊心を満たす秘密であった。
「干渉しすぎない程度に、彼らを守るのよ」……記憶の中の母が折に触れて口にしていた言葉を思い出しつつ、てきぱきと北の森の浄化に努める。
そうしてつつがなく最後の沼の浄化が終わったところで、ぴく、とカナタは耳を動かした。
(中型……いや、大型の魔獣が一頭いる。まだ冬前なのに、こんな低いところまで下りてくるなんて)
ほんの少しだけ、迷った。今のタイミングであれば大討伐も近いし、兵士に任せても問題ないだろう。
間引きをしすぎてしまうと、今度は人間側が魔獣の脅威を軽視して備えを怠るようになってしまう可能性がある。自分たちが手を出して良いのは沼の浄化と人間の手に負えない災害級の大物が出た時だけ、というのは母からも口を酸っぱくして言われていたことだ。
(でも……)
リスやウサギ程度の大きさの魔獣であればカナタも安心して兵士にゆだねられるのだが、これはかなり大きい。下手をすると討伐部隊は皆、大怪我を負うリスクがある。
――そう思うと、もう居ても立ってもいられなかった。魔獣の気配のする方へ、カナタは走り出す。
(お母さんなら手を出すなって言うんだろうけど、……でも)
あっという間に魔獣の居るところまでやって来ると、サル型の魔獣が視界に入った。
人間の大人ほどの背丈と長い六本の手足を持つこのサル型魔獣はすばしこく、それでいながら怪力を誇る手強い相手だ。鬱蒼と木々が茂る森の中で接敵した場合、討伐隊の苦戦は避けられないだろう。
しかし、そんな難敵もカナタを目にした途端、怯えたようにその場から逃げ出そうとする。
(逃がすワケ……ないじゃん!)
後ろ足に力を籠め跳躍したカナタは、遠ざかる獲物に一気に距離を詰め、前脚を振るう。背中を大きく裂かれた魔獣はどう、と地面に力なく臥した。
(人間には手強い魔獣も、私だったら簡単に倒せる。それじゃ、ダメなのかな……)
一方的な戦いの果てに倒れ伏した魔獣の骸を見下ろして、ふと、神狼の伝説のことを想いだした。――魔獣の脅威から辺境領を守護する神獣、神狼。
カナタの秘密の使命は、内容だけ見ればその神狼の伝承に限りなく近い。でも、カナタはそれがなんとなく嫌だった。
だって特別なことをしているわけじゃない。ただ、自分のできることをしているだけだ。皆のことが、好きだから。ただ、守りたいと思ったから。
それを、「神狼」なんて言葉で片づけて、特別な存在として一線引かれてしまうのが嫌だった。
(ああ、私が正体をバレることを恐れているのは、そっちの理由の方が強いかもしれない)
つらつらと取り留めのない思考にふけっていたカナタは、唐突に自分の本音に気がついた。
ヒトに利用されることよりも、殺されることよりも。そんなことより、「お前は仲間ではない」と弾き出されてしまうことの方が怖い。
(そういう意味では、ジークにもこの姿を見られるわけにはいかないな……)
おそらく彼は秘密を守ってくれることだろう。でも、カナタを見る目はきっと神狼を見る目に変化してしまう。それは、とても哀しい。
(まっ番の絆って言っても、私の能力が一部ジークに影響を与えるってだけだし。そう考えたら、わざわざ伝える必要はないよね!)
落ち込みそうになった思考を振り払い、努めて楽観的にそんな結論を出す。
……しかし、そんな見立てが甘かったことは、すぐに判明するのであった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
(あれ、何かすごく良い匂いがする……)
出発地点へと戻ってきたカナタは、あたりに漂う不思議な香りに首を傾げた。
ショコラードよりも甘く豊潤で、それでいて落ち着きを覚える今まで嗅いだことのない不思議な香り。いつまでも浸っていたいと思わせるこれは、一体どこから漂ってきているのだろう……。
そわそわと周囲を見回したカナタの視線は、地面に転がるある一点へと吸い寄せられる。
(採集かご……? っていうかコレ、ジークの匂いだ!)
気がついた途端、カァッと身体が熱を持った。ジークの顔を思い浮かべただけで、その熱はどんどん高まっていく。
体温調節ができない毛皮を纏っているカナタは、急いで身体を震わせて籠もる熱を振り払った。
(ウソでしょ……? 番ってこんなに良い匂いがするの……?)
勝手に心臓が早くなっていく。ジークのことを考えるとドキドキが止まらない。それはまるで恋のトキメキのようで……。
(違う違う! そんなんじゃないから! 私とジークはただの友達!)
王族を友達扱いするのもどうなんだろうと考えながらも、脳内で言い訳はあわただしく紡がれていく。
(そう! これは番って絆に勝手に反応しちゃってるだけで、本当は別にジークのことなんてなんとも思ってないんだから! いや、もちろん良いヤツなんだけど……)
これ以上暴走する思考を放っておいたら、ダメになる。そう判断して、カナタは慌てて獣化を解いた。
ジークの匂いが薄まり、平静を取り戻したカナタはほっと息をつく。
それでも心臓の鼓動はまだドキドキとうるさくて、カナタは静かに深呼吸をして息をととのえた。
(ジークが来てから獣化してなかったから知らなかった……番ってこんな鮮烈な存在だったんだ……)
あらためてその絆の強さに、驚きを覚える。でも、もう先ほどのような抗いがたい陶酔感は引いていた。
立ち上がって、獣化を解いた身体をざっと確かめる。……大丈夫、ちゃんと人間の姿に戻れている。
顔を上げると、ほどけた銀髪が目にかかった。普段は目立たぬよう茶色に染めているカナタの髪。しかしどれだけ丁寧に染めようと、狼に戻った途端に髪は煌めくような銀色を取り戻してしまう。
髪を元の色に染め直すまで含めて、毎年の恒例の仕事だ。本来の銀色が気に入っていないわけではないのだけれど、いかんせん、この色は目立ちすぎる。
(そういえば、ジークはあの茶髪が染めたモノだって気づいていたな……)
そんなことを思い出すと、再び心臓がドキドキしはじめた。いくら打ち消そうとしても、むしろそうすればするほどに彼を意識してしまってカナタは途方に暮れる。
(……違う、そんなつもりはないんだって! ジークは私の、大事な友達。ただ、それだけ。彼の特別になりたいなんて……思ってない)
小さく首を振って、何度も自分に言い聞かせる。
――ヒトの姿に戻ったのに、どうしてだろう。まだ少し、胸が苦しかった。




