8 遅刻してパンをくわえながらダッシュする女にラリアット
話によると松田先生は退職してから、オタク系のグッズショップの店員として、その手腕を最大限に振っているそうだ。しかし不規則な生活とストレスから、体重はさらに増え、教師という聖職の軛から解かれたせいで、キモさは三割増しになって、電車バス、タクシーと、公共の乗り物という乗り物は全て乗車拒否を食らうという、人ならざる扱いを受けているらしい。
そんな憂き目にある先生が身を粉にして、俺たちを気にかけてくれているのかと思うと、目頭が熱くなる。
「ちなみに九割が桐生先輩だ、俺は八分五厘で、松田っちがあとの残りってとこだ」
「サンちゃんが……八万五千円も? 俺たちのために?」復活した小山田が驚愕の声を上げる。
「いやさ、いままで小説書いてた時間をもてあましちまってよ。暇でバイトしたら、って訳だ、気にすんな。桐生先輩に比べりゃ十分の一以下だぜ、大したことないって!」
「さ、サンちゃんんん!」
「おいおい、なんで泣いてるんだよ小山田。俺はここを辞めたけど、魂はお前たちと同じ物書きのつもりだ。いつかまたどこかで会えるといいな、小説家として――――って泣くなよ小山田! 何泣いてんだよ!」
目の前で繰り広げられる男同士の熱い抱擁を横目に、くっ……松田先生、大人ならせめて高校生よりも多く出しましょうよ、と非常に強く感じたが、この場の空気を壊したくない一心で俺は口を噤んだ。
「こんな大金を、本当に……?」木ノ下が札束を握りしめる。
「ああ、諸君らに使ってもらいたい。諸君らの創作活動の糧となるなら、それは私の本望だ。そしてあの吉原女史を唸らせてくれ。私からは以上だ」
気の早いセミが遠慮がちに鳴き声を上げている。
電灯を点けていない部室に視覚が暗順応してしまっていた俺は、外の風景の眩しさに目を細める。そうだ、いつかこんな日に俺は……足元に這いつくばる男二人のすすり泣きは、閉ざしてしまった少年時代の扉を開かせた。
「桐生先輩。我々若輩者に対する絶大なる御高配、大変痛み入ります。しかし、お気持ちだけ受け取らせていただき、こちらはお返しします」
俺は木ノ下から札束を奪い、先輩へと差し出した。だが先輩は腕組みを解こうとはせず、受け取るそぶりはない。
「どうした、国重。私の望みを叶えてくれないというのか? これは金ではない。我々の祈りだ――我々という社会的落伍者が持つことにより唯一、社会と肩を並べることのできる価値観だ」
桐生先輩は札束を一顧だにすることもなく、長机に肘を立て、組み合わせた両掌の上に顎をおくと、俺を睨みつけた。その突き刺すような双眸はあの時から一つも衰えることなく、モテ映え系女子メイクに彩られていたとて、俺を委縮させるには十分な眼光を放っていた。
「いえ――そうではありません。確かに俺たちはバイトもせず、親のすねをかじり、この薄暗い部室で光明の見えない駄文を書き連ねては、眩ゆいグラウンドで青春に明け暮れる者達が流す汗を、水分の無駄だ、干ばつ地帯でジョギングをして撒けばよかろうと卑屈に嘲笑してきました」
「ああ、そうだな」
「遅刻してパンをくわえながらダッシュする女にラリアットを食らわせ、幼馴染の女子マネージャーと、ふざけ合いながら下校する奴の背中をバレットM72で執拗に狙撃し、女子が徒党を組んで無防備な一人の男子に詰め寄る姿を垣間見て思わずご褒美じゃねえかと憤慨していました。そして好きな女が口をつけたペットボトルをこっそり持ち帰ったと自慢する男の隙を見て、ボトルに下剤を投入し、大して面白くもない男の話に手を叩いて、喜びと親愛の情を精一杯体現する女の横で、男の言にぐうの音も出ないほどに鋭い突っ込みを入れ歓談の場を氷河期に叩き落としてきました。一生を左右する進路の決め手を片思いの情に任せる愚行を、親にこっそりチクって家庭不和に導き、受験生を家出をさせて非行に走らせ、仲睦まじいカップルの親同士を不倫させ、家庭崩壊もさせました」
桐生先輩は尚、姿勢を崩すことなく俺を睨みつけている。俺は崩れ落ちそうな膝をどうにか保ち、震えて砕けそうな身体を両腕できつく抱きしめた。
「彼女が片思いをする相手はホモだと吹聴して回り、靴箱のラブレターを別の箱に移し替え、バレンタインデーを撲滅するために生徒会長にまで成り上がり、文化祭のフォークダンスはランバダに変更した。自転車二人乗りで下校するカップルをトラックで轢き殺し、トラックの運ちゃんを異世界転生させ、河原で黄昏れ愛を誓い合う男女に向けて弾道ミサイルを落とした。そして、完熟売り切りもう売れなきゃ廃棄寸前の高慢な女教師に迫った俺は……俺は、誰も彼もが相手の瞳を見つめるふりをしながら、下半身を凝視している予定調和に彩られた青春というものと仲良くスクラムを組むことが出来なかった。ずっとだ。――――俺達の執筆活動は尊い使命を帯びているのだと。奴らはキリギリスで、俺達は穴蔵でひたすら機を待つモンテ・クリスト伯であるのだと。そう信じてきた――――」
遂に俺は耐えきれなくなり、両足を折り跪いた。
「ふッ、相変わらずだな国重、さすがだ」
「よしてください……俺達はずっとおよそ人並みに溺れることのない森の賢人たれと鼓舞してきた。あたかも俗世を絶ち行にふける僧のように、地上に残された最後の狼のように、禁欲のはての大魔法使いたれと言い聞かせてきた。世俗に耽溺する彼らに対するインモラルとアイロニーこそが、俺達に定められた創作の糧だった。だがその内実は、青春という得体の知れない季節風の恩恵にあずかることが出来ない賤民であり、ただ華やかなる彼らのことを羨んでいた、その彼らのすべての実りのために一身を捧げる贖罪の羊だったのではないかと――そう、俺たちはただ勝者への当てこすりを続けていただけなのではないかと――俺たちは彼らの行いをユーモアに絡めとり貶めることで自身らの卑屈さを、包み隠していただけではないかと……」
「厳しいな国重……貴様は……」
「だから先輩たちの百万円を目にした時、先輩の姿を見た時、それは確かに希望に見えました。富と名声を得た高二病末期患者のあなたを見たとき、俺達も変われるんじゃないのかと。そしてリアルに充実することもやぶさかではないんじゃないのかと。俺たちにもその権利はあるんじゃないのかと。そう――錯覚しました。しかし、そう、それは錯覚でした。先輩は……社会性という皮を被っているに過ぎないのですよ」
「ほう……?」
俺は残る気力を振り絞り、立ち上がって、さらに続けた。
「俺は今気づいたんです。俺たちが今まで文芸に携わり流した涙と体液はきっと彼らと同等、いやそれ以上なのではないかと――ならば! 汗をかくのも、マスをかくのも――いやちがった! 小説を書くのも同等だとは言えますまいか! いや、あえて言おう! 同等であると!」
桐生先輩が肘をつく机の天板を、両掌で叩きつけた。
ジリジリとした痛みが手のひら全体に広がるのを感じながら、肺に残った空気を全て吐き出した。
それでも桐生先輩は微動だにしなかった。ややうつむき、組み合わせたままの両手の親指で眉間を押さえ、「――つまり、貴様らはここでオナニストとして潔く散るとでも?」と問う。
逆に俺は顎を引き上げ、わずかに胸をそらし応えた。
「いえ、違います! 俺たちは――先輩も、どこかで本来の自分を包み隠してうまく生きながらえようなんて考えているんです。普通たれと、恭順せりと、――俺達は、――俺達の価値は、俺達が決めるんです! なあっ、そうだろ?」
俺は手刀を水平にして振り向きざまに、木ノ下と小山田のことを薙ぐ。
そして、にやりと俺は口元に白い歯を光らせる、それが合図だとでも言わんばかりに。
すると、起き掛けの身体を奮い起こすように木ノ下が立ち上がる。
「そ、そうだ……僕たちの戦いはまだ始まってもいない! なんか意味わからんけど!」
「あ、ああ、そうだ! 俺たちの戦いは、これからだ!」木ノ下に呼応して小山田も、握り拳を作り天にも届かんばかりに突き上げ吠えた。
「おっ、お、おれたた、いや、小山田! 俺の前でその言葉は吐くんじゃねぇっつっただろがよ!」続いて三条までもが叫び、小山田の襟を掴み上げていたが、その顔はほころびを隠しきれないでいた。
「フッ……よくぞ言った、国重。保守と退嬰からは何も生まれん。忍従を一時しのぎと偽るその欺瞞。成功という名の他者評価の権化に寄り縋る怠慢。常識という共同幻想が生み出した悪意無き暴力と虐殺、そして淘汰――」
桐生先輩はおもむろに立ち上がり、声を張りあげる。
「同志諸君――我らが闘争の火蓋は今切って落とされた。冒涜され、葬りさられた数多の作品への鎮魂の灯明を今こそ灯す時がきた。天に神あれば地に人あり、原宿に凡俗あるならば原稿に我らあり! 我々は世界を意明示する者だ。――意を明らかにし、そして示せよ! さあペンを取れ! ネタを練れ! キーボードを机上へ掲げよ! デスクトップ画面が表示されるよりも素早く文書ソフトを立ち上げろ! 明滅する真っ白な穢れなき文書作成画面に、神速がごとき己が十指を奮い命の迸りを記せ! 疲労限界を超えた僧帽筋を励起し、雄叫びをあげよ。我々の進撃を食い止めることが出来る者など、もはやこの地上にはおらぬ! さあ同志諸君、魂の赴くまま執筆するがいい!」
そして、桐生先輩の檄に俺達は呼応して、雄叫びを上げながらキーボードに文字を入力し始めた。
なんだ、この沸き起こる力は。今まで俺たちは何に縛られていたんだ!
指がまるで脳直したかのように完璧にリンクしている。
思いが、意思が、感覚が、一寸の曇りもなく文書へと注ぎこまれてゆく。
これが作家の最大最強極意『意明示』かっ!
一週間後、学園内ではしばらくの間、部活動にいそしむ生徒たちが目撃したという、三機の四角形の平たい謎の飛行物体の噂でもちきりとなっていた。
「ありゃあ、『シーウィード』ってな米国で開発中の強襲輸送機で――」
俺達は三条が得意げに弄する、いい加減な話を耳にしながら、口角を歪めずにはおられなかった。
ふっ、愚民どもめ。そんなもの謎でも何でもない。俺達は……俺達だけは知っている。
あの時、桐生先輩の言葉に触発され、最大ブーストをかけて書き上げた俺たちの作品は、吉原・Of・The・アルティメットデヴィル・美奈子の手によって、校舎の四階の窓からノートパソコンもろとも投げ出されたのだ。
『続・ファンタジー死す』これに手完結です。
次回『続々・ファンタジー死す』乞うご期待ください!