第13話 返事
二百人を数えるには、名簿が要る。
建国祭の翌週、ヴィオレッタは城の使用人名簿を取り寄せた。名簿を預かる老女は、理由を訊かなかった。妃教育の帳簿演習の続きだとでも思ったのだろう。
二冊、届いた。
◇
「三冊ございますでしょう」
「……はい」
「もう一冊は」
「あちらは、通いの職人でございます」
老女は、当たり前のように答えた。
「名前が、一つもございませんの。紙屑のようなものでございますゆえ、お持ちいたしませんでした」
◇
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「お持ちなさい」
「はい」
「それから」
彼女は、二冊目の背を指でなぞった。
「本日限りで、お下がりなさいまし」
◇
老女の内側が、揺れた。
――なぜ。
◇
「わたくしが何を要るかを、あなたがお決めになりましたわね」
ヴィオレッタは言った。
「一度でございますわ。二度目はございませんの。……二度目がないというのは、わたくしがそう決めたからですのよ」
◇
女は、三十年勤めていた。
三十年ぶんの分別で、要らぬものを一つ省いた。それだけである。
◇
「お嬢様」
女が下がったあと、マリアンヌが言った。
「あの方は、三十年でございます」
「ええ」
「……お戻しになりませんの」
「なぜ」
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「三十年お勤めになった方が、三十年ぶんの手つきで省かれましたのよ。……戻しましても、また省かれますわ」
◇
マリアンヌは、答えなかった。
◇
三冊目は、その日の午後に届いた。
◇
一冊目は、女官と侍従である。名前が書いてある。役と、出身の家と、俸給が並んでいる。
二冊目は、雇い人だった。厨、馬丁、庭、洗い場。名前は、あったりなかったりした。
三冊目は、通いの職人である。名前は一つもない。仕事の名だけが書いてあった。
紙屑のようなもの、とあの女は言った。
通いは、住んでいない。あの男の言う二百には、入らない。入らないが、それは彼女が決めることである。
◇
ヴィオレッタは、三冊を卓に並べた。
一冊目に、百十四人。
二冊目に、六十二人。
三冊目に、人数の記載がない。
「マリアンヌ」
「はい」
「厨に、何人おりますの」
侍女は、二冊目を覗き込んだ。
「……厨方、十八名、と」
「名前は」
「頭の方と、その下の三名まででございます。あとは、十八名としか」
◇
ヴィオレッタは、指で欄をなぞった。
洗い場付き、十一名。
馬丁、九名。
庭、名前なし。人数なし。
◇
「二百人には、なりませんわね」
「はい」
「では、あと何人おりますの」
マリアンヌは、答えなかった。
答えられなかったのである。
◇
ヴィオレッタは、名簿を閉じた。
この城には二百人が住んでいる、とあの男は言った。あの男が二百と言うのなら、二百なのだろう。多く言う理由も、少なく言う理由も、あの男にはない。
名簿には、百七十六人ぶんの欄がある。
残りの二十四人は、どこにも書いていない。書く欄がないのではなく、書く必要が誰にもなかったのだ。
――厄介ですこと。
彼女は、扇を開いた。
人を探すというのは、まず全員に番号を振るところから始まる。番号を振るには名前が要る。名前のない者は、探す前から数の外にいる。
◇
その週、彼女は歩いた。
朝は東棟、昼は厨の裏、夕方は馬場。用のない場所に立ち、人が通るのを待った。
女官が通る。近い。
侍従が通る。近い。
小姓が二人、笑いながら通る。近い。二つとも近い。
◇
三日で、彼女は疲れた。
人の内側というのは、離れて聞いているぶんには耐えられる。近づいて一人ずつ拾うとなると、話が違った。
――腹が減った。
――昨日の女が、また来た。
――足が痛い。
――金が、要る。
どれも近い。含みがない。拾っても、手の中には何も残らない。
二百人ぶん、これを毎日やる。
――なるほど。
あの娘は、値のつけ方を知っていた。
◇
十日で、七十三人を潰した。
名簿に印をつけながら、彼女は自分の手つきが変わっていることに気づいた。
名前のある者から、順に潰している。
名前のない者は、後回しになっていた。番号が振れないからである。
――洗い場付き、十一名。
彼女は、その行を見た。
十一人まとめて、一行である。この十一人の中に一人いたとして、自分はそれをどうやって書き留めるつもりなのか。
答えは、出なかった。
出ないので、彼女は次の行に進んだ。
◇
銀鍵亭から報せが来たのは、その翌日である。
◇
王都の南街区に、宿が一軒ある。金を払えば誰の手紙でも預かり、取りに来た者に渡す。誰が来たかは覚えていない。そういう商いだった。
ヴィオレッタは、ひと月前にそこへ手紙を一通置いた。塔の女に頼まれて、封を切らずに置いた。
返事が、届いていた。
◇
マリアンヌが持ち帰ったものは、二つある。
一つは、封をした紙。
もう一つは、宿の主人の話だった。
「差出人の名は、ございません」
侍女は、卓の上に紙を置いた。
「宛名も、ございません。……主人は、置いていった者の顔を覚えておりませんでした」
「いつ置かれましたの」
「六日前。夕刻でございます」
「どなたが」
「フードをかぶった者、としか」
◇
「金は」
「はい?」
「預かり賃は、いくらでして」
マリアンヌが、顔を上げた。
「……二十四ペンス、と申しておりました」
「前払いですの」
「はい」
「では、その二十四ペンスはどこにございますの」
◇
侍女は、しばらく黙っていた。
「……主人の手元に」
「ですから、伺っておりますの」
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「顔を覚えていない者から、二十四ペンス受け取りましたのよ。……お金には、出どころがございますわ」
◇
塔へ発ったのは、翌朝である。
雪が残っていた。街道は轍が凍っていて、馬車は二時間半かかった。
石の階段は、二百と七段ある。
◇
独房は、前と同じだった。卓と、寝台と、燭台。窓の格子。
栗色の髪の女が、同じ椅子に座っている。
「あ」
セシリアが顔を上げた。
「四十一日ぶり」
「……数えておいでですの」
「他にすることないもん」
◇
ヴィオレッタは、椅子に腰を下ろした。
腰を下ろしながら、その内側を覗いた。
薄かった。
ひと月前より、薄い。
「来ましたわ」
彼女は、紙を卓に置いた。
「封は、切っておりません」
◇
セシリアの手が、止まった。
止まって、それから、ゆっくり伸びた。
封を切る音がした。
◇
ヴィオレッタは、紙を見た。
◇
読めなかった。
◇
文字ではあった。行が引いてあり、上から下へ、四行に分かれて何かが書いてある。字と字のあいだが空いていないので、どこで切れるのかも分からない。
丸いものと、棒のようなものと、細かく引っ掻いたようなものが混ざっている。同じ形が二度出てくる箇所があった。それが同じ意味なのかどうかは、分からなかった。
この娘の生まれた場所の文字である。
◇
ヴィオレッタは、十七年、文字に困ったことがない。
国の言葉を読み、隣国の言葉を読み、教会の古い言い回しも読む。帳簿も読めるし、人の内側も読める。読めないものは、いままで一つしかなかった。
その一つは、いま領地にいる。
◇
「読み上げてくださいまし」
「いいの?」
「わたくしが読めませんもの」
セシリアは、少し笑った。
「そうだよね」
◇
彼女は、紙を持ち上げた。
「一人じゃない」
◇
「教会に近づくな」
◇
「銀鍵亭はもう使うな。次は場所を変える」
◇
セシリアは、紙を下ろした。
「以上」
◇
ヴィオレッタは、その内側を見ていた。
三行目までは、平らだった。読んでいる人間の色である。
四行目に入ったところで、変わった。
◇
――ひゃく。きゅうじゅうきゅう。きゅうじゅうはち。
◇
数だった。
九ヶ月かけて習った手である。伏せたいものがあるとき、この娘は数を数える。数えているあいだ、そこには数しかない。この城で、彼女の目の届かない場所に立てる人間は、いまのところこの娘ひとりである。
――きゅうじゅうなな。きゅうじゅうご。
一つ、飛んだ。
――きゅうじゅうよん。きゅうじゅうよん。きゅうじゅうさん。
同じ数を、二度言った。
◇
ヴィオレッタは、卓の上の紙を見た。
手は、まだ動いている。動いてはいるが、綻んでいた。
◇
「四行ございますわね」
彼女は言った。
「……」
「一行目、二行目、三行目。……そのあとに、もう一行ございますわ」
◇
セシリアは、紙を裏返した。
裏返したところで、意味がないことに気づいたらしい。彼女は紙を卓に戻した。
「うん」
「読んでくださいまし」
「やだ」
◇
あっさりしていた。
言い訳も、ごまかしもない。読みたくないから読まない、というだけである。
ヴィオレッタは、しばらくその顔を見ていた。
この娘は、嘘をつける。
自分にはできないことである。三行読んで「以上」と言えば、たいていの人間は四行目があることに気づかない。気づいたのは、彼女がこの娘の内側を見ていたからにすぎない。
見えたのは、隠したという事実だけだった。中身は、見えない。
◇
「値を伺いますわ」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
「四行目のぶんですわ。……何をお望みですの」
◇
セシリアは、燭台の火を見た。
しばらく、そうしていた。
◇
「……なんだろ」
「は」
「なんか、思いつかない」
◇
彼女は、自分の指を見た。
「前は、すぐ出たんだけどな。……こう、あなたに何させたら面白いかな、みたいなの」
「ええ」
「いま、それが出てこない」
◇
ヴィオレッタは、扇の縁を指でなぞった。
ひと月前、この娘は書状一通と引き換えに、面倒な約束を一つ取り立てた。二百人ぶん、毎日人の声を聞き分けろ、と言った。そのとき彼女は、この娘は値のつけ方を知っていると思った。
値をつけるには、相手が何を惜しがるかを知っていなければならない。
知るには、覚えていなければならない。
◇
「セシリア様」
「ん」
「わたくしが、何を持っておりますかは」
「……分かんない」
セシリアは、頭を掻いた。
「あなたが公爵令嬢なのは、覚えてる。あと、心が読めるのも。……でも、それでどこまでできる人なのか、っていうのが、なんか、ぼやけてる」
◇
薄かった。
焦りではない。手のひらから何かがこぼれているのを、ぼんやり見ている人間の色である。
ヴィオレッタは、そこで一つ、勘定を立て直した。
◇
この娘は、商品である。
この世界を外から見た目を持っている、この城でただ一つの品である。買い付ける先は他にない。
その品が、目減りしている。
払えるものがなくなるより先に、売れるものがなくなる。値がつけられなくなった相手とは、取引が成立しない。取引が成立しなければ、こちらは何も取り出せない。
――急がねばなりませんわね。
彼女は、そう思った。
思って、その思い方を自分で点検した。
哀れんでいるのではない。仕入れ先が枯れかけているだけである。
◇
「では、こちらから申し上げますわ」
ヴィオレッタは言った。
「四行目は、結構ですの」
「え」
「その代わり、一つ教えてくださいまし。……この手紙をお書きになった方は、あなたのことを何とお呼びですの」
◇
セシリアが、まばたきをした。
「……名前?」
「ええ」
「書いてない」
彼女は、紙をもう一度見た。
「宛名も、署名もないもん」
「では、なぜご自分宛てだとお分かりに」
◇
セシリアは、口を開いた。
開いて、止まった。
「……なんでだろ」
◇
ヴィオレッタは、椅子から立った。
◇
「名を書かぬというのは、便利でございますわね」
彼女は言った。
「誰にも辿られませんわ。……そのかわり、あとから誰にも見つけていただけませんの」
◇
帰りの馬車で、彼女は膝の上で指を折った。
一つ。差出人は、この国の言葉を書かない。書けないのか、書きたくないのかは分からない。
二つ。差出人は、教会を警戒している。
三つ。差出人は、銀鍵亭がもう安全でないと知っている。
四つ。差出人は、二シリング払っている。
◇
三つ目が、いちばん重かった。
この手紙は六日前に置かれた。銀鍵亭が危ないと書いた者は、そのときすでに、誰かが銀鍵亭を調べたことを知っている。
調べさせたのは、彼女である。ひと月前、マリアンヌを一度やった。
◇
――見られておりましたのね。
◇
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
雪の残った街道が、後ろへ流れていく。
彼女は、この二年、人に見られることを勘定に入れたことがない。人前で潰す、というのは見せる側の技である。見られる側に回ったことがなかった。
「マリアンヌ」
「はい」
「銀鍵亭へ、もう一度お行きなさい」
侍女は、顔を上げた。
「主人にお訊きするのは、一つだけですわ」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「――その二十四ペンスは、どこの鋳造でございますの」
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