月下の攻防④ 彼女が執着する理由と、私の破られた約束
クラウスさんが深く息を吐いた。
ジェイコブさんが彼を見る目は、なんだか可哀想なものを見ているかのようだ。
どこが可哀想なんだろう。
仕事も順調、そして素敵な婚約者までいるじゃない。
「私は人の恋路を邪魔する悪役にはされたくないです。」
障害があるほど燃え上がるとか?
アレクシス様の時は、完全に巻き込まれたものね。
でも少なくとも私は婚約者がいる相手を奪うような真似はしない。
冷めた視線で彼らを見返せば、そうじゃないんだと言わんばかりにクラウスさんが首を振った。
「ジェイコブさん、俺、ずっと付き合っている彼女はいないって言ってましたよね。」
「そうだね。職業柄、他の従業員からクラウスさんの彼女がいるという噂は聞いてる。けれど、彼の口から直接そうだと聞いた事はないんだ。しかも彼本人も誰に聞かれても婚約者どころか彼女すらいないって答えてる。」
「えっ、そうなんですか?」
「クラウスさんとの付き合いは十年近くになるが、五年以上同じ状況だな。」
でも彼女は…?
婚約の事はどうなっているの?
ジェイコブさんは一転して苦々しい表情を浮かべた。
「噂っていうのは怖いね。気付けばすっかり外堀を埋められていたっていうことさ。」
「噂って…クラウスさん、どういう事ですか?」
「買い付けのために長期間不在にしていたんだ。そして戻ってきたら同僚から言われた。『婚約おめでとう、お幸せに』って。彼女とは付き合いもまだ浅くて、ほとんど国外にいたのに、どうやって婚約するんだよ。」
にも関わらず、商会のほとんどの人に彼女が婚約者だという共通認識が出来上がっていた。
否定すれば『照れているからだ』と解釈され、機会があれば二人きりになるよう従業員の間で暗黙の了解までできていたという。
「俺は違うって言っているのに、誰も俺の話を信じない。気がついた時には、俺が否定するのは彼女への愛情のためだと都合よく解釈されていたんだ。」
背筋がゾッとした。
そんな事が、現実にあり得るのだろうか?
ぼんやりと、遠くを見るような表情で椅子に寄りかかりクラウスさんは当時の状況を語る。
「ジェイコブさんがいなかったら、俺は気が狂っていただろうな。」
地獄だったと、彼は言った。
聞けば聞くほど恐怖を覚えるような状況だ。
それを誰がやったのかなんて…改めて聞くまでもないだろう。
「最近は早く結婚してやれと、そうじゃないと彼女がかわいそうだからって商会の上層部からも言われているよ。」
「それは、また…なんというか…。」
「違うって伝えても、反応は他の従業員と一緒だった。職場恋愛は禁じられていないけれど、仕事に影響が出ないように合意の上で隠そうとしてるんだって。『わざわざ否定しなくてもわかってるから、大丈夫だ』と、全てを理解しているような顔で肩まで叩かれた。」
表情を曇らせてクラウスさんは深々とため息をついた。
売り上げ成績の良い彼女は商会の上層部に気に入られている。
つまり彼女とクラウスさんが婚約しているという噂は事実と認識されて上層部も知っているわけか。
ふと思い浮かんだのは困惑したような人事担当者の呟いた言葉だった。
『この時期の異動なんて異例よ。その理由が『彼女が売れるというから』なんて曖昧な理由で許可したってどういうこと?この店の扱う商品は骨董や中古品ばかりなのによ?しかも華やかな旗艦店ばかりを望んで歩いてきた人に裏方をさせるなんてもったいないと思わないのかしら?従業員の適性を考えずに許可を出した上層部も正直どうかと思うわ。』
彼女は、ただクラウスさんの側にいるためだけに異動してきたのだ。
人望があり、そつのないクラウスさんだから上手く躱している。
でも普通の人なら諦めたほうがいいって思ってしまうほどに逃げ道のない状況だった。
周囲に味方がいないなんて、大変だっただろうな。
この時、初めてクラウスさんに同情を覚えた。
「当然、ここにも噂が広まっていてね。ただジェイコブさんの反応だけが他の皆と違っていた。」
「どういうことですか?」
「顔を見るなりこういわれたんだ。全然幸せそうじゃないなって、何があったのかってね。」
聞きようによっては彼女の存在を否定するような台詞だ。
どうしてそんな言い方を選んだのだろう。
ジェイコブさんは苦笑いを浮かべる。
「だってさ、あんな憔悴しきった顔をするクラウスさんに、おめでとうなんて言えないよ。」
まあ確かに、死んだ魚のような目をした相手を祝福できないだろう。
それほどに当時のクラウスさんは常に陰鬱な雰囲気を漂わせていたらしい。
明るく柔和な表情を崩さない今とは大違いだ。
「ジェイコブさんだけが俺を信じてくれた。だから包み隠さず状況を説明したんだ。」
そうしたら明らかに周囲の状況がおかしいと同意してくれたという。
追い詰められたクラウスさんにとって、ジェイコブさんだけが唯一の救いに思えたのかも知れない。
以降、職場という枠を越えて友人として付き合っているとのことだ。
「時々、こうやってジェイコブさんに話を聞いてもらうんだ。そして彼女が婚約者でないことを再確認する。そうやって俺は自分を保ってきたんだ。」
だから今回、人事異動で離れた時は安堵したという。
一からまた人間関係を築けると思っていた。
だけどそれも彼女が来るまでのことだったけれど。
「ここでも侵食するように、いつの間にか彼女が婚約者になっているのだから怖いよ。」
「彼女を避けようとか、仕事を辞めようとは思わなかったのですか?」
「避ければ俺が悪者になる、それでは彼女がますます有利になるからね。それに仕事を辞めたって彼女がついてこないという保証はないだろう?サジタリウス商会の上層部と繋がりが強いし、再就職を邪魔されたらそちらの方が面倒なことになりそうじゃないか。」
だから当たり障りなく付き合って、深く踏み込まないように気をつけていたのだと。
ジェイコブさんが頷く。
こんな荒唐無稽な話が現実に起こるのだろうか?
それでも彼がクラウスさんの言い分を信用したのはなぜだろう?
「すぐバレるような嘘をつく理由などないからな。」
ジェイコブさんは真面目な顔で答えた。
だけど、口ならどうとでも言える。
婚約者がいながら、美しい女性に会いに行っていた人を私は現実に知っているもの。
二股をかける男なら誰だって彼女はいないと答えるだろう。
そう言い掛けたところでクラウスさんを見れば、どういうわけか苦しそうな表情を浮かべていた。
なんでそんな傷ついた顔をするのだろう。
泣きたいのは、いつも私の方だ。
本意でないというのなら彼女に関わらなければいい。
私が嫌いになったというのなら、アレクシス様の方から婚約を破棄すればよかった。
今も昔も傷つけているのは、自分の方じゃないか。
「なあ、イライザさん。クラウスさんが会うたび、俺に言うことがあるんだ。」
「なんですか?」
「『彼女は俺を見ているようで見ていないんだ』、『いつも誰かに重ねている』って。彼女がここまで彼に執着するのは、実はそこに理由があるんじゃないかな?」
ドキリとした。
かつてアレクシス様に言われた言葉と同じだった。
まさか彼女にも前世の記憶が…なんて考え過ぎよね、私みたいな存在が他にもいるわけないし。
「たぶん彼女が本当に好きなのはクラウスさんじゃないんじゃないかな?」
「どうして、そこまで言えるのですか?」
「一度、彼女に聞いたんだ。『クラウスさんは否定しているけど本当に婚約しているのか』って。」
「それは…勇気がありますね。それで彼女はなんて…?」
「クラウスさんが否定するのは私を守るためだと言ってね、綺麗な顔で笑った。」
「…。」
「それを見て、逆に俺は怖かったけどね…彼女が。」
「え、どうして?」
「自分と付き合っている相手が交際を否定したと聞けば、普通なら表情を崩すものだろう?どんなに隠そうとしたって怒りや、悲しみとか表情が変わる。それが普通の人間がとる反応というものだ。だけど一切表情を変えずに笑っているんだぞ?会話のどこに笑う要素があるっていうんだ?」
その会話以降、彼女と直接話した事はないという。
避けられているのかもな、ジェイコブさんが言った後に首を傾げた。
「そういえば彼女の後ろ姿をどこかで見たことがあると思っていたけど、あいつと話していた女性に似てるな。」
「えっ、いつですか?」
「結構前なんだが…一度見たきりだし、自信はない。でも思い出せば醸し出す雰囲気が似ている。」
「雰囲気ですか?」
「綺麗な作り物みたいで気持ち悪いと思ったんだ。」
ジェイコブさんはそう呟いた。
それから真剣な表情で私に視線を向ける。
「なあ、イライザさん。余計なお世話だとは思うんだがな、貴女から見てクラウスさんはどんな人だ?」
「頼りになる上司です。」
それに面倒見がいい。
そうでなければ、ここまで来て私を助けてはくれないだろう。
「それでも男としては、信頼に値しない二股屑男か?」
「信頼に値しないなんて事は、ないと思います…。」
「それともクラウスさんに直接意地悪や嫌がらせをされたという記憶があるのかな?」
「いいえ、そんな事はありませんよ!!」
「ははっ、そんな必死になって否定しなくてもわかってるって。だったら、そんな自分の直感を信じてはどうかな?」
「自分の直感ですか?」
「直感で、違うと思うなら違うんだと信じる事だ。少なくとも俺の知るクラウスさんは信用に値する男だ。頼りになる一生懸命な男だよ。」
「…ありがとうございます、ジェイコブさん。」
ジェイコブさんの言葉に、クラウスさんは一瞬声を詰まらせた。
その目にうっすらと涙のようなものが浮かんでいるのを見て、心が揺さぶられる。
信じて欲しいのに、信じてくれない。
その状況がどれだけ辛いものか、私だって知っていたのに。
私は胸に手を当てる。
規則正しい鼓動は、昔も今も記憶に残るものと変わらない。
貴女達が負った痛みを今でも覚えている、でも…。
少しだけ、信じてあげたいと思ってしまった。
ーーーーーーーー
ジェイコブさんと別れて家路についたときには、すでに深夜だった。
お店に電話したらルーテさんと連絡がついて、レイさんかアリアさんが迎えにきてくれるという話だったが、エレナさんのことを優先してもらいたかったのでお断りした。
さすがにクラウスさんの前で壁を抜けて帰るわけにはいかないしね、うん。
その代わり、エレナさんを助けてもらったお礼とお詫びを兼ねて、後日ご飯に行く約束をした。
帰りはクラウスさんが車で送ってくれるそうなので甘えさせてもらう。
別に、絆されたわけじゃないから。
「今日は、ありがとうございました。お礼はまた後日に。」
「お礼なんかいいよ、気をつけて帰ってね。あ、でも…」
逡巡したのちに、クラウスさんは口を開く。
「さっきの俺の言葉、覚えているよね?」
口説いているとか、言っていたような。
思い出した途端に頬が赤らむ。
「はい、何となく…覚えています。」
「お礼の代わりに、俺の願いを叶えてくれないかな?」
「どんな願いです?」
「ラムールデイツの工事が完成したら、君と一緒に夜景を見に行きたい。」
クラウスさんの瞳は真剣そのものだ。
「…どうしてですか?」
自分のものと思えないほど低い声。
クラウスさんは訝しげな表情を浮かべ、眉を顰めた。
「そこで、どうしてって聞かれるとは思わなかったけど…。嫌なの、かな?」
「嫌ではないです。ただ、驚いてしまって…。」
私はクラウスさんから視線を逸らした。
かつて交わした約束は叶えてもらえなかったのに。
クラウスさんは、アレクシス様とは違う。
頭ではわかってはいても、記憶に残る彼の姿と重なる。
『丘から見える景色がこんなに素敵だと思いませんでした。また二人でここに来たいです。』
『ならば、今度は夜の景色を見にこよう。街の明かりが煌めいて綺麗だと思うよ。』
『まあ、嬉しい!!約束ですよ!!』
見つめ合い、指を絡ませて。
約束の印とばかりに口づけを交わす。
ちゃんと約束したのに、あんな簡単に破られるものだなんて思いもしなかった。
忘れるくらいなら、約束なんてしないで。
それなのに…どうして。
どうして、今更。
私の事情を知らないクラウスさんは困ったような表情を浮かべる。
「いきなり言われたらびっくりするよね、ごめん。ちょっと焦りすぎたかな?」
「こちらこそすみません、ちょっと混乱してて…そう言う理由が知りたいと思いまして。」
「理由なんてないよ。ただ、出会ってからずっと、一緒にいたいと願ってきただけだから。」
私の俯いた顔が、彼の台詞に跳ね上がる。
出会った時からって。
ずっとって、いつから?
「最初、自分でもよくわからなかった。今まで誰にも心が動かなかったのに、君に出会った途端、君から目が離せなくなったんだ。」
私の揺れる髪の一筋が彼の指先に留まる。
まるで糸みたいに二人の間が繋がったのを見て、彼は微笑んだ。
「君の声、君の仕草、君の性格。それを知るほどに納得してしまったんだ…誰にも心が動かないのは君を待っていたからだって。こんな理屈に合わない感情はおかしいと自分でも思う。けれど否定しようとしてもダメだった。」
前世の記憶に引きずられて、頭が混乱する。
「君が異動を望んでいると聞いて反対したのは、ここで手を離したら二度と君の手を掴む事は出来ないと知っているような気がしたんだよ。ごめん、君の思いを汲む余裕がなくて大人気なかったと、後になって気がついた。」
クラウスさんが困った顔で微笑む。
そこまでして、どうして私を望むの?
答えが知りたい気もするけれど、知りたくない気もする。
頭がクラクラして、頬が紅潮するのがわかった。
「熟れた林檎みたいに真っ赤だけど、大丈夫?」
私の頬へと指先が伸び優しく撫でた。
気遣いながらも、どこか嬉しそうな彼の声。
混乱する私に、なんで触れてくるのかなんて考える余裕もない。
一体、どういうことだ。
だって、だってそれじゃまるで…。
「君が好きだ。」
彼が私に恋をしているようじゃないか。
魔法にかかったみたいに、触れられた箇所が熱を持つ。
「今は無理でも、いつか俺を好きになってくれたら嬉しい。」
少しだけ強引に彼の腕が私を抱き寄せる。
この仕草がどういう意味を持つものなのか、全く想像がつかなかった。
「この願いは君にしか叶えられない、それでもダメかな?」
緊張でわずかに震える声と胸元に寄せた頬から伝わる激しい鼓動。
見上げれば、ほんのり赤らんだ頬と、潤んだ瞳に視線がぶつかる。
視線が絡むと、慈しむような表情で微笑んだ。
平民の娘が。
王女が。
伯爵令嬢が。
過去の私達が願いの叶う予兆に歓喜する。
…彼への愛は憎悪で塗り潰したはずなのに。
貴女達は愚かよ。
もう一度、彼に愛されたいだなんて。
今度こそ愛されると信じるなんて…。
高鳴る鼓動が忌々しい。
「…ずるい言い方ですね。お礼の代わりじゃ、断ることなんてできない。」
私は熱を逃がすように深く息を吐いた。
だったら、この思いの行方を見届けてやる。
めくるめくような世界の果てに残されたモノが何か、見定めてやるんだ。
私はゆっくりと口元を作り替えた。
満月の娘達のような、誇り高く美しい微笑みであるように意識して。
そして微笑みには普段とは明らかに異なる強気な台詞を添えた。
「約束を破ったら許しませんよ。」
今度こそ、今回だけは。
貴方を信じてみよう。
願いが叶わずとも、死に逃げることはしない。
もし手酷く振ろうとしたら、私の方から振ってやる。
クラウスさんは想定した反応と違ったのか、一瞬きょとんとした表情になる。
だが次の瞬間、嬉しそうに笑った。
「残念だけど、俺には強気な台詞でも君の可憐な声では可愛らしく聞こえる。」
情熱的な言葉に、思わず呆然となる。
彼の方こそ、箍が外れたみたいだ。
普段の落ち着いた態度からは想像できないような甘い台詞が流れるように紡がれる。
赤く色付いた頬を隠すために、急いで視線を逸らした。
「初めて会った時から思っていたんだ。品のある言葉遣いに、柔らかい物腰。凛とした立ち姿に優美な仕草。君はまるで御伽話に出てくる王女様みたいだ。」
「いくらなんでも盛り過ぎではないでしょうか…。」
多少は王女時代の癖が残っていたとしても、過去の話だ。
誉めて油断させようとしたって、そうはいかない。
わずかばかり残されていた冷静な自分が状況を分析する。
そうよ、こんな風にドキドキするのは吊り橋効果と呼ばれるものだわ。
非常事態で興奮しているだけなのに、彼のせいだと思い込んでいるだけ。
いとも簡単に翻弄されて、バカみたい。
「おっと、また警戒させたかな?」
「心にもないことばかり言うからですよ。」
「困ったね、本気なんだけどな。」
思わず笑ってしまった。
なんでだろう、振り回されているのに嬉しそうな彼の姿がダレルに重なる。
っといけない…想定外の事態に狼狽えて幻覚が見えたわ。
平常心、平常心。
「じゃあ、また明日。」
「はい、よろしくお願いします。」
触れていた彼の指先が、ゆっくりと離れていく。
それを名残惜しく思ったのは、疲れていたからに違いない。
そして、この日を境に、私の日常は急激に変化していく。
お楽しみいただけたでしょうか。
次回の更新は間隔が開きます。




