第20話 ぬかるみの先の村
「今夜を越せない人が出ます」
その一言は、部屋の空気をいきなり薄くした。
さっきまで机の上に広がっていたのは、聞き取りの紙と、条件を書き込んだ見取り図だった。
けれど今は違う。
遅れたぶんだけ、人が減るかもしれない。
それだけが、はっきりとそこにあった。
泥だらけの使いの男は、肩で息をしていた。髪の先から落ちる雨が石床へ小さな点をいくつも作る。
「どのくらい尽きるのです」
セレスが前へ出る。
「薬草束は」
「煎じた分が、あと半鍋ぶんです」
「半鍋」
「昼から熱の上がった人が増えました。子どもが三人、大人が二人、もう水だけでは……」
男は言葉を切り、苦しそうに息を吸う。
「西の避難小屋の神官補佐が、今夜までに届かなければ厳しいと」
私は反射的に自分の紙を引き寄せた。
西の避難小屋。
収容三十七。
寝かせ十四。
子ども九。
煎じ役二。
薬草一日一束半。
井戸汚れ気味。
護送二。
夜間危険。
そこへ、いま増えた情報を書き足す。
熱上昇五。
残量半鍋。
今夜が限界。
書きながら、胸の奥がじわじわ熱くなる。
焦りだ。
焦ると、手は雑になる。
だから私は、わざとひとつずつ、小さく、はっきり書いた。
「薬だけなら、どれだけあれば夜を越えられますか」
私が問うと、使いの男は少し驚いた顔でこちらを見た。
「え」
「全部じゃなくていいです。今夜の分だけ」
「……半束、いや、煎じ役が節約して使うなら三分の一束でも」
「浄化具は」
今度はセレスが問う。
「井戸の濁りは、今夜すぐ命に関わるほどか」
「すぐ、というより……明日までには」
男は迷ってから答えた。
「水甕の残りが少なくて」
「では薬が先」
エドガーが低く言う。
「少なくとも今夜は」
その言葉に、部屋の全員が同じ方向を見る。
薬を届ける。
一行で書けば、それだけだ。
けれど西方では、その一行の下に、泥と責任と夜の危険が何重にもぶら下がっている。
◇
「私は行きます」
最初にそう言ったのは、やはりフィリアだった。
声は大きくない。
でも迷いはない。
「この場で議論しているあいだにも時間は過ぎます」
彼女はまっすぐセレスとエドガーを見る。
「薬だけでも先に届けるなら、私が同行した方が早い。現地で必要な判断もできます」
「駄目です」
止めたのはアルフレッドだった。
間髪がなかった。
彼は一歩前へ出て、フィリアの視線を正面から受ける。
「道が悪い。夜が近い。命令系統は濁っている。聖女本人がいまこの状態で動けば、途中で何が起きてもおかしくない」
「ですが」
「行けば救えるとは限りません」
アルフレッドの声は低く硬い。
「道中で止まれば、救えるはずのものまで止まる」
「それでも、ここで待つよりは」
「待つだけではありません」
彼は言い切った。
「通す方法を作るべきです」
フィリアは、すぐには引かなかった。
休むことを少しずつ覚え始めたとはいえ、目の前で“今夜を越せない”と言われて、黙って座っていられる人ではない。
「私の名で混乱が起きているのです」
彼女は静かに言う。
「そのせいで遅れているのなら、私が」
「だからこそです」
アルフレッドは言葉を重ねた。
「聖女様ご自身が街道へ出れば、その名はさらに重くなる。いま必要なのは重さを増やすことではなく、細くても通る道を作ることです」
セレスが目を伏せたまま口を開く。
「護衛としては正しい判断です」
「神官長」
フィリアがそちらを見る。
「私も本音では、聖女様に今夜の街道をお勧めしたくありません」
セレスはためらわずに言った。
「西への道は、昼でも歩きやすいとは言えない。しかも偽命令の件で、こちらの動きがどこまで漏れているかも分かっていません」
「……」
「聖女様が動けば、それ自体が別の混乱になります」
フィリアの手が、机の端で小さく握られた。
行きたい。
でも止められている。
しかも止める側の理屈が分かるから、なおさらつらい。
私はその沈黙を見ながら思った。
いまこの部屋でぶつかっているのは、善意と現実だ。
誰もさぼっていない。
誰も冷たくなりたくて冷たくなっているわけでもない。
それでも、先に決められない。
だから私は、いつもより少し強めに机を指先で叩いた。
「誰が悪いか、は後でいいです」
声に出した瞬間、皆の視線が集まる。
「いま必要なのは、何が足りないから動けないのかです」
エドガーが眉を上げた。
「何が足りない」
「はい」
私は頷く。
「神殿が悪い、領主府が遅い、商人が渋い、で終わるなら簡単です。でもそうじゃない」
紙を広げる。
「条件を出します。行けるか行けないかじゃなくて、行くために何が要るか」
アルフレッドが私を見る。
フィリアも、まだ揺れを抱えたままこちらを見る。
セレスとエドガーは、半歩だけ言い争いから離れた顔をした。
続けていい。
そういう空気だった。
◇
「まず、中継地点はありますか」
私は紙の真ん中へ西方都市を丸で描いた。そこから西へ、一本の道を伸ばす。街道というより、ただの線だ。けれど線がないと話が散る。
「あります」
答えたのはエドガーだった。
「旧料金所の小屋がひとつ。いまは使っていないが、屋根は残っている」
「街からどのくらい」
「晴れなら荷車で半刻強。今日はもっとかかる」
「そこまで荷車は入れる?」
「なんとか」
「そこから先は」
「ぬかるみが深い」
今度はセレスが引き取る。
「西の避難小屋へ向かう分かれ道が崩れかけています。車輪は危ない」
「担ぎなら」
「行けます」
使いの男が言った。
「でも足を取られます。夜だともっと」
私は線の途中へ、小さく四角を描いた。
旧料金所。
そこから先を細い線に変える。
「荷の積み替えは」
「可能です」
商人組合の男が答える。
「ただし、全部は無理だ。積み替えに人手が要る」
「最低限なら?」
「薬草と小型の浄化具くらいなら」
「荷担ぎは何人」
「二人、いや、道が悪いなら三人」
「護衛は」
「最低二」
エドガーが即答する。
「一人は前、一人は後ろ。じゃないと危ない」
「もっと増やせますか」
「増やしたい」
彼は苦く言う。
「だが出せない」
私は書く。
旧料金所まで荷車。
そこから先、担ぎ三。護衛二。
夜間危険。道悪。
「今夜、村が待てる時間は」
私は使いの男を見る。
「どのくらいです」
「……日が完全に落ちる前、とは言えません」
彼は息を整えながら答えた。
「でも夜半まで遅れると厳しい」
「厳しい、は」
セレスが問う。
「高熱の子どもが先に落ちるかと」
その答えに、部屋がまた重く沈む。
私は紙へ、夜半、とだけ書いた。
締切があると、道の形が急に細くなる。
◇
「代金保証の条件は何ですか」
私が聞くと、商人組合の男は露骨に嫌そうな顔をした。
「いま、それを聞きますか」
「聞きます」
「命がかかってるんだぞ」
「だからです」
私は言った。
「あなたがそこを曖昧にしたまま出せないなら、条件を知っておかないと動けない」
男は一度だけ鼻で息を鳴らしたが、結局は答えた。
「組合印と、領主府の後日精算約定」
「両方」
「片方だけだと、あとで“聞いてない”が出る」
「神殿印では足りませんか」
「いまは足りない」
男ははっきり言う。
「神殿側から出せと言われ、領主府から止められた荷がすでにある。逆もある。だから両方だ」
「口約束は」
「論外」
私はそこも書く。
保証条件。
組合印+領主府後日精算約定。
神殿印のみ不可。
「浄化具は何が要ります」
今度はフィリアが前へ出て問う。
「全部ではなく、今夜を越えるための最低限だけなら」
セレスが少し考える。
「小型の浄化石が一枚。できれば二枚」
「大型ではなく」
「大型を運ぶ余裕はありません」
「浄化石一枚で足りますか」
「井戸そのものを立て直すには足りません。ですが、甕でためる分の水を持たせるなら」
「今夜のしのぎには」
「なります」
私は紙へ、薬草三分の一束以上、小型浄化石一、と書いた。
全部を一度に運ぶのは無理。
でも、今夜の分だけなら重さはまだ絞れる。
その時、アルフレッドが口を開いた。
「出発時刻も要る」
「はい」
私は頷く。
「いつまでなら行けますか」
「旧料金所まで荷車で行き、積み替えて徒歩に変えるなら、今から出てぎりぎりだ」
「夜半前に届く」
「順調なら」
「順調じゃなかったら」
「届かない」
順調なら。
この言葉ほど信用しづらいものはない。
でも、いまはそれでも計算に入れなければいけない。
「聖女様は」
アルフレッドはフィリアを見る。
「同行不可です」
言い切ったあとで、少しだけ言葉を足した。
「この案ならなおさらです。細く速く通すなら、人数を減らす必要がある」
「……分かっています」
フィリアは小さく答えた。
「頭では」
「はい」
「でも心が少し遅いだけです」
その返事に、胸の奥がちくりとした。
分かることと、納得することは同じじゃない。
それでも前へ進まなければいけない時がある。
◇
私は紙の上へ、もう少し細く道を書き足した。
西方都市。
旧料金所。
崩れた分かれ道。
西の避難小屋。
それぞれの横へ、条件を書く。
荷車可。
積み替え可。
担ぎ三。
護衛二。
夜半限度。
薬優先。
浄化石一。
紙の上では簡単だ。
だからこそ、本当の細さがよく見える。
「案は三つくらいです」
私がそう言うと、全員の視線がもう一度こちらへ寄った。
「三つ」
エドガーが繰り返す。
「はい。たぶん」
「言ってみて」
「ひとつ目」
私は指を立てる。
「荷車で旧料金所まで出して、そこから担ぎで薬草と小型浄化石だけ先行させる」
「いちばん現実的だな」
アルフレッドがすぐ言う。
「問題は護衛の数だ」
「二人必要」
「最低で」
「領兵二をここから抜くと」
エドガーが顔をしかめる。
「門と市街の巡回が薄くなる」
「でも、今夜を越せない人が出る」
「分かっている」
「ふたつ目」
私は続ける。
「薬だけ先に通して、浄化具は夜明け後に追送する」
「軽くはなる」
セレスが言う。
「ただし井戸の状態次第では、明朝に別の患者が増えます」
「つまり、今夜を越えるにはいいけど、明日の被害は増えるかもしれない」
「はい」
「三つ目」
私は少し迷ってから言った。
「聖女様の名を使って、旧料金所以降の現地判断をこの場で明文化する」
フィリアがこちらを見る。
「明文化」
「はい。現場で“聖女様が言ったから”ではなく、どこまでなら現地で切ってよくて、何を優先していいかを紙にする」
「それで商人は」
「保証がなければ動きません」
商人組合の男が即答した。
「ですが、荷そのものを組合が出すんじゃなく、神殿備蓄から出して担ぎに変えるなら」
セレスが言葉を継ぐ。
「組合の保証条件は後ろに下げられる」
「神殿備蓄を切れるのか」
エドガーが問う。
「小型浄化石一枚と薬草三分の一束なら」
セレスは机に指を置く。
「私の責任で仮出しできます」
「仮、か」
「はい。だから後で帳尻は合わせます」
「……」
エドガーが黙る。
初めて彼は、真正面から私の紙を見ていた。
いままでは中央の小娘が机に何か書いている、と見ていたのかもしれない。
でも、条件を抜いて、案を分けて、何が足りないかを見せると、視線の質が変わる。
理想論ではない。
動くか、動かないかの話だと見えたのだろう。
「全部を一度に運べないなら」
私は紙の上の細い線を指でなぞった。
西方都市から旧料金所まで。
そこから分かれ道。
ぬかるみ。
夜。
避難小屋。
細い。
でも、ゼロではない。
「命に関わる分だけ先に通す道を作ります」
言った瞬間、部屋の中の誰かが息を飲んだのが分かった。
たぶん、きれいごとではなかったからだ。
全部救う、ではない。
全部間に合わせる、でもない。
細い道しかないなら、その細さに合わせて、先に通すものを決めるしかない。
フィリアはその言葉を聞いて、ゆっくり息を吐いた。
諦めではない。
飛び込みたい気持ちを、別の形へ置き直す呼吸だった。
アルフレッドは腕を組んだまま、小さく頷く。
「それなら護衛の計算ができる」
「止めるだけじゃなくなりましたね」
私が言うと、彼は少し嫌そうな顔をした。
「最初から止めたいわけではない」
「知ってます」
「……ならいい」
エドガーは、紙の上の線を見たまま口を開いた。
「お前」
「はい」
「そうやって考えるのか」
「どういう意味ですか」
「村へ全部届けるか、届けないか、じゃない」
「はい」
「通せる分だけ先に通す」
「そうしないと、全部が同じ場所で止まるので」
「……なるほどな」
その“なるほど”は軽くなかった。
彼が初めて、私のやり方を真正面から見た音だった。
◇
でも、道が見えたことと、運ぶものが決まることは同じじゃない。
そこが、西方のいやらしいところだ。
薬草三分の一束。
小型浄化石一枚。
担ぎ三。
護衛二。
旧料金所まで荷車。
夜半まで。
条件は見えた。
方法も、ゼロではない。
でも今度は、次の問題が立つ。
何を先に運ぶか。
薬だけで足りるのか。
浄化石も載せるのか。
もし重さが増えて遅れるなら、命に関わるのはどちらか。
今夜を越せない五人へ絞るのか、明日の増加を減らすために水を取るのか。
私は自分の紙を見ながら、ようやくそこへ思い至った。
細い道はある。
でも、その細い道へ何を通すかは別の決断だ。
セレスが、その沈黙を拾うように口を開いた。
「では次は」
彼女の声は重かった。
冷たいのではない。
責任の重さを知っている人の声だ。
「何を先に届けるかを決めてください」
部屋が、また静かになる。
今度の静けさは、道が見えない静けさではない。
見えた道が細いと知ってしまったあとの静けさだ。
私は紙の上の線を見た。
そこを通せるのは、全部ではない。
だから選ばなければならない。
西方の夜は近い。
そして夜は、選ばなかった方を待ってはくれない。




