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聖女様が忙しそうなので、雑用係の私が国を回しておきました【連載版】  作者: 星渡リン
第3章 雑用係、地方へ行く

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第18話 誰の指示に従えばいい

「まず確認したいのですが……あなた方は、どの命令でここへ?」


 西方都市の門前で迎えに出た神官がそう言った時、私は一瞬だけ、自分たちが歓迎されていないのではなく、受け取りを拒まれかけているのだと思った。


 王都から派遣が来た。

 しかも聖女本人がいる。


 本来なら、それだけで少し空気がゆるんでもよさそうなものだ。

 けれど目の前の神官は、礼より先に確認を選んだ。


 その順番だけで、ここで何が起きているのかが分かる。


 アルフレッドが馬から降り、濡れた外套の裾を払うこともなく正式文書を差し出す。王宮印、神殿印、同行者名簿。迎えの神官はそれをひとつひとつ確かめ、ようやく「失礼しました」と頭を下げた。


 けれど、その声にもまだ固さが残っている。


「神殿側の実務室へご案内します」

「領主府ではないのですね」

 王宮側の実務担当が言う。

「いまは神殿側へ集約しております」

 神官は答えた。

「集約」

「領主府と大聖堂で、受けるべき文書の線引きが崩れています。下手に別れて入ると、また“どちらの指示か”から始まりますので」


 その説明が、妙に疲れていた。


 言葉を選ぶ余裕がない。

 必要最低限だけを置いていく人の話し方だった。


 私たちはそのまま門をくぐった。


 西方都市は、王都より空が低い気がした。

 城壁はあるけれど、圧を感じるのは石より人の表情の方だ。泥に濡れた荷車、軒先へ寄せられた木箱、雨避けの布の下で順番待ちをしているらしい村人たち。声はあるのに、町全体が何かを控えているような湿った静けさがあった。


 通されたのは大聖堂の一角にある実務室だった。


 実務室というより、紙と疲労の置き場みたいな部屋だ。


 長机が三つ。

 壁際の棚。

 棚に収まりきらず積まれた束。

 机の上に開かれた文書。

 床際の箱に差し込まれた差し戻し札。

 乾ききらない外套を掛けるための縄。

 それに混じって、冷めた茶の匂いと、お湯で薄めた薬草の匂いが残っている。


 私は部屋へ入った瞬間に思った。


 多い、のではない。


 置き場がない。


 それが最初の印象だった。


     ◇


「西方大聖堂神官長、セレスです」


 声と同時に、部屋の奥から女が出てきた。


 三十代後半くらいだろうか。背は高くない。けれど立ち方に揺れがなく、濡れた石畳の上でも真っ直ぐ立てる人の姿勢をしていた。神官衣の白は清潔に保たれているのに、袖口だけは少し擦り切れている。目の下には疲れが濃くあるのに、目そのものは鋭かった。


 彼女はまずフィリアへ深く礼を取った。


「このような状況でお越しいただき、ありがとうございます、聖女様」

「いいえ」

 フィリアも静かに頭を下げる。

「遅くなりました」

「本来なら、王都へお手を煩わせる前に収めるべきでした」

 セレスはそう言ってから、わずかに視線をずらした。

「ですが現状、こちらで抱えきれません」


 同じ言葉でも、誰へ向けているかで温度が違うのが分かる。


 フィリアには礼。

 王都側の実務には警戒。


 それは隠しようがない種類のものだった。


「領主府代表、エドガー・ハルバートです」


 続いて名乗った若い男は、想像していたよりずっと若かった。二十代前半か、半ばに届くかどうか。衣服は領主らしく整っているのに、襟元と袖口にだけ雑な疲れがある。たぶん着替える時間は取っている。でも座り直して息をつく時間がないのだ。


「ご足労いただき感謝します、聖女様」

 エドガーも礼をした。

「ただ、感謝だけで済む段階ではないことも、あわせてお伝えしておきます」

「承知しています」

 フィリアが答える。

「まず状況を見せてください」

「喜んで、と言えればよかったのですが」

 エドガーは苦く言った。

「正直、見れば見るほど腹の立つ状態です」


 その言い方で、この人がただ中央へ反発しているわけではないと分かった。


 怒っている。

 でもその怒りは、格式や面子より先に、止まっているものへ向いている。


 セレスが机の一角を示す。


「こちらが、現在動いている命令書と照会文です」

「動いている」

 王宮側の実務担当が反射的に繰り返した。

「正確には、“動いていると主張されているもの”です」

 セレスの声は乾いていた。

「正式な聖女名義命令。神殿本部からの通達。領主府からの緊急要請。商人組合からの条件提示。現地村落からの救援願い。さらに、それらの確認要求と差し戻し文」

「全部ここへ?」

「ええ。全部、ここへ」


 私は近づいて、机の上の紙へ目を落とした。


 見ただけで、頭の中が少し嫌な感じになる。


 札ならまだ分かった。

 板ならまだ切れた。

 でもここにあるのは、“全部が同じ机に乗っている”こと自体がすでに問題になっている紙の山だった。


 聖女名義の優先搬送命令。

 神殿の通達。

 領主府からの配布要請。

 商人組合の保証条件。

 神官補佐の現場報告。

 村の使いの願い書。

 差し戻し。確認中。再照会。


 量が多い、というより、重さが揃っていない。


 重いものと軽いものが、同じ顔で積まれている。


「北地区発熱患者を優先」

 エドガーが一枚を持ち上げる。

「その半日後に、南井戸汚染対応を先に、です」

 セレスが別の紙を示す。

「さらに翌朝には、浄化具は大聖堂保管のうえ再配分待ち」

「ですが、その日の昼には」

 王宮側役人が別の紙を開く。

「村落先出しの要請が通っていますね」

「通っています、ではなく」

 セレスが冷たく言った。

「“通ったと主張されている”です」


 その一言で、部屋の空気がまた少し冷えた。


     ◇


「西方の混乱を、王都側はどう見ているのですか」


 セレスが問うたのは、文書をざっと見終えたあとのことだった。


 問いかける相手はフィリアではない。

 王宮側の実務担当と、神殿から同行してきた書記補佐だ。


「地方に起きがちな伝達の行き違い、と見ておられますか」

「そういうわけでは」

 書記補佐が言いかける。

「では、王都でも同じことが?」

「王都は」

「王都は、人が多い」

 エドガーが低く言った。

「人が多く、足も速い。遅れても取り返しがきく。こちらは違う」

「分かっています」

「いいえ」

 エドガーは首を振った。

「分かっていない顔です」


 若いのに、その言い方には遠慮がなかった。

 遠慮を削り切らないと、もうここまで来られなかったのだろう。


「領主府は何度も報告を上げました」

 彼は続ける。

「返ってきたのは確認と再確認です。現地で切れば越権と言われる。王都へ待てば遅い。神殿側は“聖女名義の重さ”を理由に現場判断を渋る。商人組合は保証がなければ荷を動かさない」

「当然でしょう」

 商人組合から来ていたらしい男が、その場で言った。

「保証のない命令に従って潰れるのはうちです」

「分かっている」

 エドガーは苛立ちを隠さなかった。

「だが待てば村が持たない」

「それなら領主府が責任を」

「領主府単独で聖女名義を上書きできますか?」

 セレスが割って入る。

「できません」

「神殿も同じです」

 彼女は机の端を指で叩いた。

「この状態で、どの紙を切るのか。誰が最終的に責任を持つのか。そこが曖昧なままだから、誰も決め切れないのです」


 私は、そのやり取りを聞きながら思った。


 命令が多いのではない。

 命令の置き場所がない。


 正式命令。

 確認中。

 現場裁量。

 本当なら、それぞれ置く場所も、触る人も、返す先も違っているべきなのに、ここでは全部が同じ机に積まれている。


 だから、どの紙も同じように“あとで責任が降ってきそうなもの”になる。


「聖女様」


 セレスがフィリアへ向き直った。


 その声音だけは、ほんの少し柔らかい。


「お越しいただいたことには感謝しています」

「はい」

「ですが、聖女様がおいでになっただけでは、この混乱は解けません」

「分かっています」

 フィリアはまっすぐ答えた。

「だから、状況を見に来ました」

「見たあと、どうなさいますか」

「まず何が止まっているかを」

「それは、こちらでも見ています」

 セレスの返しは即座だった。

「見ているのに、切れないのです」


 フィリアは言葉を失わなかった。

 でも、言葉だけでは動かない場所だということは、もう分かっている顔だった。


「私の名が入った命令が、この場を混乱させていることは理解しています」

 彼女は静かに言う。

「だからこそ、まず」

「聖女様」

 エドガーが申し訳なさそうに、でも切実に言葉を挟んだ。

「私たちは“お気持ち”ではなく、今日動かせるものが知りたいのです」


 その一言が、部屋の芯を打った。


 誰もフィリアを責めてはいない。

 でも、聖女本人が来れば場が収まる、という段階はもう越えている。


 ここでは、“誰が何を決めるか”が先だった。


     ◇


 しばらく黙っていた私は、机の上の文書を見ながら口を開いた。


「分けませんか」


 全員の視線が集まる。


「何をだ」

 エドガーが聞く。

「文書です」

 私は机を指した。

「このままだと、何が正式で、何が確認中で、何が現場判断で動かせるのかが同じ山になってる」

「それは見れば分かります」

 神殿書記補佐が言う。

「分かってないから止まってるんです」

 私は言い切った。

「少なくとも、この机の上では」


 セレスが目を細めた。


「どう分けるつもりですか」

「三つです」

 私は近くにあった空札を引き寄せる。

「正式命令。確認中。現場判断可」

「現場判断可?」

 商人組合の男が眉をひそめる。

「誰が可と決める」

「そこを今から決めるために分けるんです」

 私は答えた。

「正式命令は、いま効いていると確認済みのもの。確認中は、真偽か優先順位の照合が必要なもの。現場判断可は、この場で責任者判断をつけて動かしていいもの」

「紙を分けたくらいで、地方が助かるなら苦労しません」


 切ったのはセレスだった。


 声は低い。怒鳴ったわけではない。

 でも、中央へ向け続けてきた不信が、その一言に濃く滲んでいた。


「こちらには人も時間も足りません。村は待っています。薬も浄化具も遅れています。紙をきれいに並べる余裕があるなら、誰もこんな顔はしていない」


 部屋が静まる。


 たしかに、その通りだった。


 ここで「整理すれば解決します」みたいな顔をしたら、私は王都の人間と同じだ。遠くから来て、机の上だけ見て、地方の疲れに対して整頓の話をする人間になる。


 だから、私は一呼吸だけ置いた。


「分けないままだと、何に苦しんでるのかも見えません」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 セレスの目が、少しだけ動く。


「いまは全部が同じ山にあるから、薬が足りないのか、命令がぶつかってるのか、保証がないから商人が止まってるのか、現場判断が足りないのか、机を見ただけでは分からない」

 私は続けた。

「地方が苦しいのは知ってます。紙を分けたら村がすぐ助かる、なんて思ってません」

「……」

「でも、分けないままだと、次にどこへ手を入れるべきかも見えない」


 エドガーが腕を組んだまま、少しだけこちらを見る目を変えた。

 反発ではなく、計る目だ。


「つまり」

 彼が言う。

「並べ替えて遊びたいわけではない、と」

「遊んでる暇はありません」

「そうだな」

 エドガーは小さく息を吐く。

「その通りだ」


 商人組合の男が不満そうに言う。


「分けたところで、代金の保証が出なきゃ動けませんよ」

「それも見えるようになります」

 私は言った。

「正式命令なのに保証が付いてないのか。確認中のくせに荷だけ動かそうとしてるのか。現場判断で出していい範囲なのか。それが同じ山にあるから、全部が怖いんです」

「……」


 今度は、完全には切り返されなかった。


 セレスが机の上の紙へ視線を落とす。


 彼女は納得したわけではない。

 でも、“中央の小娘がきれいごとを言っているだけ”とも言い切れなくなった顔をしていた。


     ◇


「試しにやってみましょう」


 そう言ったのはフィリアだった。


 私は少し驚いて彼女を見る。


 フィリアは、机の上の文書をひとつ手に取った。


「まず、この命令は確認中です」

 彼女は北優先の文書と南優先の文書を並べる。

「同日に食い違う優先順位が出ている以上、単独では正式命令として扱えません」

「聖女様」

 セレスが言いかける。

「分かっています」

 フィリアは頷いた。

「これは私の名が入っているからこそ、重く扱うべきです。ですが、重いことと、いま動かしていいことは同じではありません」

「……」

「こちらは?」

 彼女は別の紙を見た。

「村落の井戸汚染に対する浄化具補給要請です」

「領主府からです」

 エドガーが答える。

「現場確認済みで、物資さえ出れば明日には着きます」

「では、現場判断可」

 フィリアが言った。

「最終承認は後で追っても、この場で止める方が悪い」

 セレスが短く息を呑む。

「聖女様、それを言っていただけるなら」

「ただし」

 フィリアは続けた。

「この扱いを、この場の責任者名付きで残してください。曖昧なまま“聖女様が言ったから”では駄目です」


 その言い方が、少しだけ変わっていた。


 王都では、フィリアは“全部自分で受ける側”だった。

 でも今は違う。

 受けるのではなく、置き場を作ろうとしている。


 それは小さな変化だけれど、この部屋では十分に大きかった。


 アルフレッドはそのやり取りを、いつものように壁際で見ていた。

 でも視線は、人物の安全だけでなく、机の動きも追っている。


 誰が何を持ったか。

 どこで声が強くなるか。

 どの文書に人が集まるか。


 この人ももう、護衛の形を少し変え始めている。


 私は机の空いた端へ空札を三枚置いた。


 正式命令。

 確認中。

 現場判断可。


 炭でその三つを書きつける。


 王都の板ほどきれいではない。

 雑だし、場所も足りない。

 でも、置かないよりずっとましだ。


「そこへ置くのですか」

 セレスが聞く。

「仮です」

 私は答える。

「ちゃんとした形は後で考えるとして、いまはまず机の上の重さを分けます」

「仮のままで走るのは危ない」

「全部を同じまま積んでおく方がもっと危ないです」

「……」


 エドガーが、初めて少しだけ笑った。

 疲れた人間の、乾いた笑いだったけれど。


「神官長」

 彼がセレスを見る。

「少なくとも、いまより悪くはならない気がします」

「それは困ります」

 セレスは即答した。

「いまより悪くなる余地がまだあるように聞こえます」

「あるでしょう」

「ありますね」


 二人はそう言って、ほとんど同時に眉を寄せた。


 仲が悪いというより、同じ現実に別の角度から噛みついている感じだった。


     ◇


 その日の終わり近く、私はもう一度、机の上の文書の山を見た。


 さっきより少しだけ分かれている。

 正式命令の束。

 確認中の束。

 現場判断可の束。


 まだ仮だ。

 まだ全然足りない。

 置き場は狭いし、人の気持ちは揃っていないし、商人組合の保証条件も、神殿と領主府の線引きも、何ひとつ片づいていない。


 それでも、さっきまでより少しだけ見える。


 何が止まっているのか。

 どこでぶつかっているのか。

 何が“誰も触れないまま重い顔をしていた紙”なのか。


 それが見えるだけで、部屋の息苦しさがほんの少しだけ変わる。


 でも同時に、私はもっと大きなこともはっきり分かった。


 ここでは、命令書そのものより前に壊れているものがある。


 聖女名義。

 神殿通達。

 領主府要請。

 商人組合条件。

 村の願い。

 確認文。

 差し戻し。


 全部が同じ机に積まれていた理由。


 それは、誰も怠けていたからじゃない。

 誰か一人が悪いからでもない。


 ここでは、“誰が何を決めるか”そのものが壊れている。


 その確信は、雨の染みみたいに静かに広がった。


 私は机の端へ指を置いたまま、濡れた石の匂いが残る実務室を見回した。


 西方の混乱の中核は、たぶん偽命令そのものじゃない。

 偽命令が来ただけで全部が止まる、この壊れ方だ。


 そしてそれは、王都で見てきた詰まりより、ずっと深い場所に根を張っている。


 そう思った時、ようやく私は、西方へ来た意味を本当の意味で理解した気がした。

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