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第4話 伯父様と私

 言うまでもなく、晩餐会はエスメラルダの独壇場だった。ここしばらくは火が消えたように静まり返っていた食堂が、エスメラルダの帰還によって、途端に明るさを取り戻している。


 この一週間は常に不機嫌顔でにこりともしなかった母のレイチェルは、輝かんばかりの笑顔で話をしている娘の顔を満足そうに見つめ、公爵邸での話をもっと聞かせてくれとせがんでいた。父のモーリスと伯父のハロルドは、エスメラルダの話を微笑ましそうに聞きながら、時折低く言葉を交わしている。エステルはといえば、食堂の雰囲気に神経を尖らせながら、取り分けられる料理をただ黙って口に運び続けていた。


「それでね、公爵閣下がわたしにこう仰ったのよ。君ほど美しく、利発で、親しみやすい令嬢を他に知らない。イライアス様は女性に対して消極的なところがあるお方だから、わたしくらい活発な方が似合いだろうって」


 確かにエスメラルダは活発だ。大人しい女の子たちが草原で花冠を作っているすぐ隣で、男の子たちに混ざって缶蹴りをしているような子供だった。どうしようもない悪戯っ子で、逃げ足が早く、口も達者だったので、大人たちは常にお手上げの状態だった。


 だがしかし、十歳を過ぎた頃、エスメラルダは突如として男の子たちと野を駆け回ることを止めた。お洒落に気を使うようになり、女性らしい作法を学びたがるようになった。元々美しかったエスメラルダの美貌には更に磨きがかかり、男性は誰もが一度はエスメラルダに恋をした。


「閣下はわたしのことをとても気に入ってくださったご様子だったわ。ね、伯父様?」

「ああ、そうだね」手にしていたワイングラスをテーブルに戻し、角の立ったナプキンで口元を拭ってから、ハロルドは続けた。「ご子息が士官学校に戻られる秋までの間に、可能なかぎり多くの身分あるご令嬢とお会いになるという話だったが、その中でもエスメラルダは特に好感触を得られたようだ。この子の言う通り、ご子息は己の剣技を磨くことに夢中で、未だ特定の女性がいらっしゃらない。閣下はそれに危機感を持たれているようでね、出来ればこの夏中にご子息に相応しいお相手をと願われている」


「閣下はわたしに、イライアス様が士官学校に戻られる前に、もう一度遊びに来るように仰ったのよ」

「招待状が届くのは、丁度私が王都での仕事を終えた頃だろうから、私が責任を持ってエスメラルダ嬢を公爵邸まで送り届けさせてもらうよ」

「お忙しいのに申し訳ありません、兄さん」

「なに、目に入れても痛くない姪御のためじゃないか、この子の足になるくらいなんてことはない。何より、公爵家との交流はエスメラルダにとっても良い経験になるだろうからね」


 モーリスは、エスメラルダは儀礼的に招かれただけだ、婚約者に選ばれることはないと言っていた。だが、今のハロルドの口振りでは、エスメラルダは本当に、公爵閣下に気に入られているようだった。レイチェルは、自慢の娘が既に未来の公爵夫人になると思い込んでいるかのような勝ち誇った面持ちで、少しだけ息を荒くしているのが見て取れた。


 伯父のハロルドにしてみれば、自分の姪が公爵家に嫁ぐとなれば、それは願ってもないことなのだろう。かつては蛮族と呼ばれた異人らとの間に立ち、大小多くの魔獣が闊歩する辺境の地を管轄する辺境伯にとって、公爵家は潤沢な資金源となってくれるはずだ。


「そうだわ、エステル」ぱちん、と胸の前で両手を合わせ、エスメラルダはたった今思い出したというふうに言った。「公爵邸には目が回るほど広々とした図書室があるのよ」

「……図書室?」

「何千冊もの貴重な本が、棚いっぱいにびっしり並べられていたわ。本がお好きな公爵夫人のために、閣下ご自身が国内外から買い集めたものなんですって。お優しい夫人は使用人にも図書室を開放されているそうよ。自由に閲覧して構わないし、部屋に持ち帰って読んでも構わないんですって。あーあ、エステル、あなたも一緒に来られたらよかったのに」

「……そう」

「いずれこの家を出て行かなければならないのだし、公爵閣下に使用人として雇っていただいたらどうかしら。そうすれば大好きな本を毎日好きに読むことができるでしょう?」

「もし本当に雇っていただけたとしても、使用人としての仕事があるもの、毎日好きに本を読むことなんて──」

「そこはわたしが便宜を図っていただけるようにお願いしてあげるわよ」


 公爵邸ともなれば、数十人、下手をすると百人以上の使用人を雇い入れているはずだ。そんなところに放り込まれたらと思うと、想像しただけでも心臓の鼓動が速くなって、全身に冷や汗が吹き出し、上手く呼吸することすらできなくなってしまう。


 エステルは、自分の体が指先から少しずつ冷たくなっていくのを感じながら、手にしていたナイフとフォークを強く握りしめた。


「……す、素敵な提案だとは思うけれど、わ、私、人がたくさんいるところには行きたくないから……」

「わたしはあなたのことを心配しているのよ、エステル」エスメラルダは形の良い眉をきゅっと寄せて、本当に心配しているのだというふうな顔をした。「あなたみたいな子をお嫁にもらってくれる奇特な男性は滅多にいないでしょうし、働きに出るにしたって、人と関わり合いになれないのでは話にならないわ」

「わ、私だって、自分の将来のことならいろいろと考えているから、し、心配しないで──」

「エステル」貼り付けたような作り笑顔を浮かべながら、レイチェルがエステルを睨みつける。「ハロルド様がいらしているのですよ、きちんとお話しなさい」

「……は、はい、お母様。すみません、伯父様」


 ハロルドは体を固くさせているエステルのことを穏やかな眼差しで見つめている。気にすることはないと言ってくれているような目を見て、エステルは少しだけ体の緊張が解れるのを感じ取っていた。


「前々から言っているように、成人したからってこの家を出ていく必要はないんだよ」

「あなた、無責任なことを言わないで」

「僕にだって妻と娘二人を養うくらいの甲斐性はあるさ」

「今だってハロルド様からのご支援をいただいているではありませんか」

「そ、それはまあ、その通りではあるのだけれども……」


 妻からの鋭い指摘を受けて、モーリスは途端にしゅんと肩を落としてしまった。


 父の作家としての稼ぎは、平民として暮らしていく上では申し分のないものだが、傍系とはいえエインズワース家の品位を保つためには、それ以上の収入が必要になる。母や姉が買い漁る衣装や宝飾品、化粧品代、父の交際費や取材旅行費、そして何より高価な本を次から次へと際限なく購入するので、どう考えても毎月の出費は赤字だ。もちろん、エステル自身もその恩恵にあずかっている。


「そう冷たいことを言わないでくれ、レイチェル」赤ワインで喉を潤してから、ハロルドは朗らかに続けた。「私たちは家族だ。家族は支え合って生きていくものだろう?」

「え、ええ、その通りですわね」

「私は家族には何不自由なく幸せに暮らしてほしいと願っている。弟夫婦と、その美しい娘たちの暮らしを支えることは、私の数少ない喜びの一つだ。どうか私の心の安らぎを奪わないでほしい」

「まさか、奪うだなんて。もちろん、そんなことはいたしませんわ」

「娘たちの将来についても、そう急く必要はないだろう。来年成人とはいえ、まだ十八だ。自分の生き方については、時間を掛けて考えていけば良い。そのための支援と助力は惜しまないと約束しよう」

「ありがとうございます、伯父様」


 にっこりと笑うエスメラルダの隣で、エステルは黙礼を返すことしかできない。


 人知れず深呼吸をし、動悸のする心臓をなだめようとするが、なかなか上手くいかない。とうに食欲など失っていたエステルは、手にしていたナイフとフォークを皿の上に揃えて置くと、椅子に座ったまま可能な限り体を小さくして残りの時間を過ごした。


「本当に、本当に本当に、素晴らしい一週間だったわ」だが、うんざりする時間は更に続く。「イライアス様はまるでおとぎ話に出てくる王子様のような方なのよ。それに比べて、弟のアーネスト様はわたしたちと同い年でいらっしゃるのだけど、かなりとっつきにくい感じだったわね。意地が悪いのよ。性格だってあまりよろしくないの。こんなことお母様たちの前では間違っても言えないわね。とにかく、お高くとまっているのよ。あの人、本当にイライアス様の弟なのかしら。ああ、イライアス様は本当にお優しかったのよ。何か不自由はありませんか、窮屈ではありませんかって、わたしのことをずっと気遣ってくださっていたわ。よろしければ街をご案内させてくださいって、一日中エスコートしてくださったのよ。わたしたち、街中の注目の的だったんだから! 後で侍女から聞いた話だけど、イライアス様が自らエスコートしてくださったご令嬢は、わたしだけなんですって!」


 エスメラルダが話し疲れて眠ってしまうまで、エステルは自慢話に一時間以上も付き合わされた。ようやく寝かし付けを終えた母親のように、ほう、と小さく息を吐き、起こさないように気を付けながら布団をかけてやる。

 火を入れたランプを片手に廊下へ出たエステルは、丁度通り掛かった使用人に、エスメラルダが自分の部屋で眠ってしまったことを伝えてから、その足で約束の場所に向かった。


「やあ」早足で温室までやって来ると、そこには既に伯父の姿があった。「良い夜だね、エステル」


 ハロルドは椅子に腰を下ろし、猫のハンターを膝に乗せて、エステルのことを待っていた。

 背中の中程まで伸ばした金糸のような髪を肩口でゆったりと結び、深い緑色の目をやわらかく細めてこちらを見上げる面差しは、ほっとするほど穏やかだ。


 エスメラルダは父や母ではなく、伯父のハロルドによく似ている。一緒に歩いていれば伯父と姪ではなく、実の親子に間違われることだろう。以前、エスメラルダが頬を赤らめながら、そのように自慢していたことを覚えている。

 何を隠そうエスメラルダの初恋はこのハロルドなのだ。最近は言わなくなったが、幼い頃は伯父様と結婚するのだと言って聞かなかった。


「ごきげんよう、伯父様」膝を曲げて挨拶するエステルに、ハロルドは軽く目を伏せて応じる。「長旅でお疲れではありませんか?」


「久しぶりに仕事から離れることができて、むしろ心穏やかな時間を過ごしているくらいだよ」ハロルドはそう言いながら立ち上がると、抱いていたハンターをエステルに預けた。「お湯を沸かしておいたんだ」

「では、いつものお茶をお出しします」


 エステルの腕に抱かれたまま大きく欠伸をするハンターの頭を撫で、ハロルドは踵を返して魔法の火を入れた暖炉に向かった。


 エステルはハンターをそっと足元に下ろしてやると、様々なガラス瓶が収められている棚の中から、目当ての瓶だけを取り出した。その中には、去年収穫して乾燥させたマトリカリアの花が詰められている。蓋を開けてその香りを確認し、次はエルダーの花とバラの実、メンタの葉を別の瓶から取り出していった。

 ハロルドが温めてくれたポットにそれらを入れると、熱湯がこぽこぽと注がれ、気泡と共に香草がくるくると踊った。エステルは蓋を閉め、砂時計をくるりと引っくり返す。


「シャーロットと一緒に作った山羊のチーズです」小さく切り分けた山羊のチーズに、蜜蜂に分けてもらった蜂蜜を垂らし、荒く削った胡椒を振り掛ける。「就寝前なので少しだけ」

「ありがとう」


 砂時計の砂がすっかり落ちるのを待って、エステルは温めたカップにハーブティーを注いだ。カップの端に引っ掛けた茶漉しから、バラの実がころりと一粒転がり落ちる。ハロルドはバラの実が沈む方のカップを手に取り、どこか微笑ましそうにそれを見下ろしてから、淹れたてのハーブティーを口に含んだ。


「私からの贈り物は受け取ってくれたかな」

「はい」エステルが椅子に腰を下ろすと、それを待ち構えていたハンターが、膝の上に飛び乗ってくる。「貴重な本をありがとうございます、伯父様。特に帝国公用語の辞書は父でも手に入れられなかったものなので、大変助かりました」

「トカリア語に加え、帝国公用語にまで興味を示すとは、将来は我が国の外交官にでもなるつもりかい?」


 隣国のブルッカ帝国とは長らく不穏な外交関係にあったが、辺境伯の尽力によって良好な間柄に回復してからは、徐々に国交を深めている。エインズワース家が私財を投じて両国の間にある渓谷に橋を渡し、道路を整備してからは、互いの国を行き交う商人もその数を増やしていた。


 最近では、ブルッカ帝国産の見事な絹織物で仕立てたドレスが、この国の貴族の中で流行しているという話だ。エスメラルダが着て帰ってきた新しいドレスの生地も、帝国から買い付けてきた絹織物で作られたものだという。


 エスメラルダがハロルドにねだるのはいつだって、自分の身を飾る新しいドレスや宝石の類だ。だがしかし、エステルがそうしたものをねだったことはない。ハロルドはいつも「君がエスメラルダと同じものを欲しがってくれればずっと楽なのだが」と言って、冗談っぽく笑っている。


「ご冗談でもそのようなことを仰らないでください」

「すまない」ハロルドは悪びれもせずに少しだけ笑ってから、自らの懐に手を入れた。「これで機嫌を直してくれると良いのだが」


 ハロルドがそう言って差し出してきたのは、表面に美しい彫刻が施された、黒い漆塗りの細長い木の箱だった。受け取ってみると酷く軽いのが分かる。伺うように見やれば、ハロルドはどうぞとでも言うように小さく頷いた。

 エステルはぴたりと閉じた木箱の蓋をそっと持ち上げる。


「これは──」


 それは一見するとただの地味な黒色の羽ペンだ。だが、手に取って明かりに透かしてみると、表面が七色の光沢を放ち、星屑が散りばめられているかのような質感が見て取れる。


「──グリフォンの羽ですね」

「我が領地の守護神の翼から頂戴したものだよ」

「貴重なものではありませんか」

「手入れをしてやると毎回何枚かは抜け落ちるんだ。さほど珍しいものでもない。エステルなら喜ぶだろうと思って羽ペンに仕立てたのだが、お気に召さなかったかな」

「いえ、とても嬉しいです」


 グリフォンは、この国のグリフォンバレー領にのみ生息している、鷲の上半身と翼、そして獅子の下半身を持つ希少な魔法生物だ。グリフォンバレー辺境伯は代々この魔法生物を使役し、長年に渡って国境を防衛してきた。


 帝国が王国に攻め入って来られなかったのには、二つの理由がある。一つは大風が吹き荒れる渓谷があったこと。そして、もう一つがこのグリフォンの存在だ。グリフォンバレー領には厳しく訓練された騎馬隊の他に、精鋭のみで編成される飛空隊がいる。辺境伯同様、グリフォンを使役する戦士たちは、帝国にとって大きな脅威だったはずだ。


 エステルは、グリフォンバレー領に足を踏み入れたことも、本物のグリフォンを見たこともない。だが、いつか会いに行きたいというのが、子供の頃からの夢でもあった。


「ありがとうございます。大切にします」


 ビロードの上に横たえるようにして置かれているグリフォンの羽を指先で撫でてから、エステルは木箱の蓋を閉じる。興味津々でグリフォンの羽の臭いを嗅いでいたハンターは、非難するようなじっとりとした目でエステルを見上げていた。


「ところで、エステル。君に聞いておきたいことがあるのだが」

「はい、なんでしょうか」

「君は食事のときに、自分の将来のことについて話をしていたが──」


 ハンターはエステルの膝を降り、ぐぐぐ、と伸びをする。喉をごろごろと鳴らし、足に頬を擦り寄せる様子を一瞥してから、ハロルドは真っ直ぐにこちらを見つめた。


「厳密にはどのようなことを考えているのか、私に教えてもらえないだろうか」


 まさか、ハロルドにまで将来のことを訊ねられるとは思ってもみなかったエステルは、自分の手から滑り落ちそうになったカップを、慌ててテーブルに戻した。幸い、中身が溢れることはなく、足元にいるハンターも無事だ。


「あ、あの、いえ、か、考えているとは言っても、まだお聞かせできるような、計画性のあるお話ではないんです」

「それでも構わないよ」

「こ、子供のままごとのようなことを考えているだけですが……」心拍数が上がってくると、どうにか取り繕っていた体裁が、音を立てるようにして崩れていく。「……ど、どこか人里離れた場所に土地を買って、く、薬を煎じながら、細々と暮らしたい、とか」


 それが突拍子もない話だということは、エステル自身が誰よりも良く分かっている。まったく現実的ではないということも。だが、いつまでもここに留まっているわけにはいかないと、そう強く思う瞬間があることも確かだ。


「王都にある魔法薬学研究所の所長からお誘いを受けていると言っていただろう?」

「は、はい、見習いとして働いてみないかというお誘いはいただきました」


 試作品の分析をしてもらうために何度かやり取りをしているうちに、所長とはいつの間にか定期的に手紙を交わす間柄になっていた。手紙の文末には、その都度「いつでも研究所を訪ねてきなさい。君を迎える準備はできている」と追記されているので、社交辞令や冗談の類ではないのだろうということは、エステルも薄々察してはいる。


「……ですが、私の知識と技術は所詮独学に過ぎません。魔法薬学研究所で働かれている研究員の方々は当然、学校で基礎から学んでいるのでしょうし、その、いくら所長のお口添えがあったとしても、私のような学歴のない者を受け入れていただけるとは、到底思えません」

「本当に学歴が重要視される研究所なら、最初から君に声など掛けなかったはずだが」

「そ、それは──」

「エステル、顔を上げなさい」ばつが悪そうに顔を伏せるエステルに向かって、ハロルドは諭すように言った。「君には学歴はなくても実績がある。その年齢で複数の新薬を開発し、特許を取得している君を、魔法薬学研究所の所長は高く評価しているんだよ」

「所長さんのご厚意は、とても嬉しく思っています。ですが、私には多くの見知らぬ人と行動を共にすることが難しいのです。知らない人に見つめられると、体が硬直してしまいます。話し掛けられても、上手くお話しすることができません。わ、私は、欠陥品なのです。グズで、不器量で、一族のお荷物で──」

「エステル、やめなさい」


 先程の優しく諭すような口振りとは対照的な、厳しく諭すような棘のある声が、エステルの言葉を遮った。エステルはますます椅子の上で体を縮こまらせた。その様子を目の当たりにしたハロルドは、息を一つ吐き出すと、真摯な口振りで言い聞かせるように話し出した。


「私はその年頃で君以上に聡明な令嬢を他に知らないよ。それに、君はグズでも不器量でもない。私の姪、エステル・エインズワースは、星のような煌めきを放つ銀の髪と、紅玉の輝きにも勝る目を持つ、とても思慮深くて美しい女性だ」

「伯父様……」

「私の大切な姪御を傷つける言葉を、君自身の口から聞くのはとてもつらい」


 本当に傷ついたような顔をして、ハロルドは言う。

 だったらなぜ、母や姉が自分を蔑むような態度を見せたときに、心を斬りつけるような言葉を口にしたときに、それを咎めてくれないのだと、エステルは思った。ただ穏やかになだめるのではなく、今のように厳しく諭すような口振りで、叱責してくれないのだと。


 エステルは伯父のことを尊敬してるし、信頼もしている。だがしかし、この人が本当に、自分のことを愛してくれているのかどうかは分からない。その唇から紡がれる優しい言葉を信じて良いのかも。


「そうして自分を卑下するのは君の悪い癖だね」

「……すみません、伯父様」


 物心がついた頃にはもう、母のレイチェルはエステルとエスメラルダを明確に区別していた。エスメラルダの美しさを褒めそやすと同時に、エステルの容姿を謗った。エスメラルダの黄金の髪色を称えれば、エステルの灰色の髪色を貶した。


 エスメラルダは、ただそこに在るだけで、母親を喜ばせることができる。


 姉のような美貌を持たないエステルは、勉強に勤しんだ。魔法薬の新薬を開発し、特許を取得した。これで自分も母親に喜んでもらえる、自慢にしてもらえる、褒めてもらえるだろうと、そう思ったのに。


 レイチェルは女に過剰な教養は不必要だと言った。幸せな結婚のためには愛嬌があれば良いのだと言った。エステル宛に届いた研究所からの手紙を暖炉に焚べて燃やそうとした。父のモーリスが止めに入らなければ、手紙はそのまま灰になっていたことだろう。


 その瞬間、エステルは、何をしても自分が母親に認められることはないのだと悟った。決して愛されることもないのだと。だが、それでも愛されたいと願ってしまうのは、おかしいことなのだろうか。母親の愛情を一身に受けるエスメラルダを羨ましく思うことは、間違っているのだろうか。


 エステルが黙り込んだままでいると、ハロルドは小さく息を吐く。数少ない理解者である伯父にまで呆れられたのではないかと思い、エステルは反射的に身を竦ませるが、次ぐハロルドの声は穏やかだった。


「君が本当に人里離れた場所に土地を買い、薬を煎じながら細々と暮らしていきたいというのなら、私はそれを支援しよう」

「……本当ですか?」

「君が好む土地を買い、そこに家を建てて、これよりも大きな温室を用意してあげてもいい。君は今までと同じように、そこで魔法薬の研究や開発を続けながら、細々と暮らしていけばいい」


 そう言うハロルドの眼差しは真剣そのものだった。だがしかし、エステルは腑に落ちない。

 ハロルドは確かに身内に甘いが、身内の全てを肯定するような人物ではないのだ。それと同時に、身内に対して嘘を言うような人物でもない。ハロルドがエステルを支援すると言うのであれば、本当に支援をする心積りはあるのだろう。


 エステルの面差しに疑念が滲んでいたのかもしれない。ハロルドはエステルの顔を見つめたまま、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「……伯父様が何をお考えになっているのか、私には皆目見当がつきません」

「私が君に嘘を吐いたことがあったかな」

「いいえ、ありません」

「私は、今ここで、君の望みを叶えることを約束するよ、エステル」その代わりに──と、ハロルドは続けた。「君にも私の望みを叶えて欲しいんだ」

「伯父様の望み、ですか?」

「叶えてくれるかい?」

「は、はい、私にできることなら……」


 エステルの答えを聞いたハロルドは、言質は取れたとでも言いたげな、とても良い笑顔を見せた。その顔を見たエステルは一瞬目を丸くするが、すぐに背筋の風通りが良くなるような、嫌な予感を覚える。


「あ、あの、伯父様──」

「実績よりも学歴が大事だと言うのなら、学校に行って本格的に魔法薬学を学べばいい」

「……はい?」

「君はとても賢い。火の魔法の才能もある。王都にある王立学院に入学すれば、更に知見を深めることができるだろう」

「ま、まま待ってください──!」


 エステルは弾かれたように椅子から立ち上がり、向かいの席で優美にハーブティーを飲んでいるハロルドを見た。突然の提案に感情が乱れ、舌がもつれる。上手く言葉を発することができない。


「お、王立学院は、き、ききき貴族の学校です。わ、私はご存知の通り平民で、そんな、高貴な方々が通われる学校に、かよ、通う、通うことなんて、む、むむむ──」

「落ち着きなさい、エステル」


 カップがテーブルの上にある受け皿に戻される。どどどどど、という地鳴りのような心臓の音の向こう側で、ガラス同士が触れ合う微かな音が聞こえた気がした。


 落ち着いてなどいられるかと思いながらも、エステルはその場で大きく深呼吸をし、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。呼吸を整えるために口を噤んでいると、ハロルドは空にした自らのカップに温くなったハーブティーを注ぎながら、エステルを一瞥した。


「……わ、私には無理、です」

「なぜ?」

「伯父様のような貴族ではありませんので」

「では、君を私の養女として迎えよう」


 自分は夢を見ているのだろうかと、エステルは思う。咄嗟に自らの手の甲を抓ると、強い痛みを覚えた。どうやら夢ではないらしいが、だからこそ、まざまざと現実を突きつけられる。


「そ、そんな、そんなことは、母が、許さないと思います」

「どうしてだい? これまでの様子を鑑みるに、彼女は君に対して、ある種の特別な感情を抱いているように見受けられるのだが」


 ハロルドは言葉にすることが憚れるようなことを、実に遠回りに、そのように表現した。


「だ、だからこそ、です」疎んでいる娘が貴族になるなど、あの母親にとっては屈辱に他ならないはずだ。「わ、私が、エスメラルダよりも豊かになることを、は、母は、許しません」

「エステルを私の養女にするにあたって、彼女の許しなどは必要ないのだよ。私が君を欲しいと言えば、それで終わりだ。私は貴族で、彼女は平民なのだからね」

「私も平民です」

「君はエインズワース姓を名乗ることが許された高貴な女性だ。もちろん、エスメラルダ嬢も」


 父のモーリスと母のレイチェルが結婚するとき、モーリスはエインズワースの姓を捨て、レイチェルの実家に婿入りするつもりだったと聞いている。実際問題、そうするのが筋なのだ。だがしかし、それを阻止したのがハロルドだった。自分の身にもしものことがあった場合に備えて、保険をかけておきたかったに違いない。


「……わ、私を伯父様の養女に、というのは、じょ、冗談です、よね?」

「いいや」ハロルドはにっこりと笑う。「私は本気だよ、エステル」

「ど、どどどうして……」

「私の娘になるのは嫌かい?」

「いっ、嫌とか、そういうことではなく」エステルはカーテンのような前髪がバサバサと揺れるほど強く首を横に振った。「ど、どうせなら、私なんかよりも、エスメラルダを養女にむ、迎えた方が……良いのではないか、と、思って……」

「どうしてエスメラルダを迎えた方が良いと思うのだろうか」

「エ、エスメラルダは、美人です」

「そうだね」

「それに、気立ても良くて、明るくて、ま、周りの人たちを、笑顔にします。エスメラルダの周りにいる人は、みんな、とても幸せそうで──」

「君は幸せかい?」

「え?」

「君の言葉が正しければ、エスメラルダの最も近くにいる君が、最も幸せでなければおかしい」

「そ、それは……」

「私はね、エステル」エステルと真っ直ぐに目が合うのを待って、ハロルドは続けた。「この温室は、今の君には狭すぎると思っているんだ」

「せま、い……?」エステルはそう言いながら、温室の中をぐるりと見回す。「た、確かに、最近は植物も増えて、手狭になってきてはいますが……」

「そういう意味ではないよ」


 きょとんとしているエステルを見て、ハロルドは肩を震わせながらくつくつと笑った。


「君は前に、人の役に立つのが好きなのだと、そう話してくれたことがあったね」

「はい」

「秘密の郵便箱のことも、私には打ち明けてくれた」

「……はい」

「君は今でも充分に人助けができている。だが、更なる知力を身につけることができれば、より多くの人々を助けることもできるようになるはずだ。現に、エステルが開発した新薬は、重度の火傷を負い、なす術なしと匙を投げられた大勢の人々を救っている」

「ですが、あの魔法薬は偶然の産物で──」

「だとしても、だよ」


 あの火傷の治療薬は自分のために作ったものだ。しかしながら、ひょんなことから赤子を救うことになり、シャーロットから王都にある魔法薬学研究所に試作品を送ってみるように勧められたのをきっかけに、所長との手紙のやり取りがはじまった。


 だが、あの火傷の治療薬は誰にでも作ることができる、非常に安価な魔法薬だ。材料は簡単に手に入る上、煎じる手順も決して複雑ではない。

 それでも、研究所の所長からは定期的に火傷の治療薬の注文が入る。恐らくは、成人をしたら家を出ていかなければならないと打ち明けたエステルのことを哀れに思い、応援のために買い付けてくれているのだろう。


 しかしもし、エステルが煎じる火傷の治療薬が特別であるとするならば、その理由は一つだ。

 エステルの魔法薬のすべては、魔法の火を使って煎じられている。

 魔法の火──もしくは、はじまりの火と呼ばれるそれは、火の属性を持って産まれてきた子供が、産まれて初めて生み出した火のことだ。運良くその火を捕まえることができれば、その者は火の守り手となり、生涯をかけてその火を守り続けていくことになる。


 エステルは、この魔法の火を、五歳の誕生日に父親のモーリスから受け取った。この火は、エステルが産まれた日に産声と共に生み出された、お前のはじまりの火だよ、と。以来、エステルは十年以上もの間、自分のはじまりの火を守り続けている。


 魔法の火で煎じられた魔法役は、通常の火で煎じられたものよりも、効能が高まると言われている。その火の寿命が長ければ長いほど、効能はより高まっていく。今年で十八年目になる火の効果が如何ほどのものかは分からないが、通常の火で煎じたものよりかは、薬の効き目は強いだろう。


「考えておいてほしい、エステル」ハロルドの真剣な眼差しが、困惑に揺れるエステルの目を真っ直ぐに見つめていた。「君には、私の養女となり、王都の学院に通ってもらいたい。そうしてくれるなら、私は君のために土地を買い、住み心地の良い家と、これよりも大きな温室を建ててあげよう。卒業後は王都に留まり、魔法薬学研究所で働くも良し、田舎に隠れて今と同じように人助けをしながら生きていくも良し」

「……わ、私には分かりません、伯父様」


 エステルが萎縮しながら反論しようとすると、ハロルドは僅かに首を傾げて見せる。


「私が伯父様の養女になったとしても、伯父様には何の利益もないではありませんか」

「そんなことはないさ」

「ま、まさか、伯父様は私に、グリフォンバレー領を継がせようなどとお考えではないでしょう?」

「そのつもりだと言ったら?」


 平然とした面持ちでそのようなことを言うハロルドを見て、エステルはみるみるうちに顔面を蒼白にさせていく。だがしかし、すぐに真面目な表情を崩して破顔したハロルドを見やり、エステルは縮こまった心臓から、どっと血潮が送り出されていくのを感じた。瞬間的に強張った体中の筋肉が緩み、同時に微かな吐き気が襲ってくる。


 ハロルドは、あはは、と声を上げて笑っていたが「すまない、冗談だ」と言うと、軽く目を伏せてエステルから視線を逸らした。


「私はただ、君自身に多くのことを経験してもらいたいと思っているだけだよ。本を通して見る世界ではなく、君自身の目を通して、この世界を見てもらいたい。学院生活は基本四年、生徒は近隣諸国からもやってくる。君が独学で勉強している外国語を本格的に学ぶことも可能だろう。もしかしたら、魔法薬学以外にも興味を持てることが見つかるかもしれない。四年間頑張ってみて、それで得るものが何もなければ、元の生活に戻ればいい」


 人目に晒されたくない。人の目に映りたくない。誰かの視界に自分の醜い姿が映り込むのだと思うと、エステルは息が詰まり、体が硬直して、指先まで氷のように冷たくなってしまう。


 このままではいけない──そんなことは、エステル自身にも分かってはいるのだ。

 人は一人では生きていくことができない。そんなことは現実的ではない。今は両親と伯父の傘の下で不自由のない暮らしを送れているが、成人してこの家を出ていくことになれば、自力での人付き合いは避けられなくなるだろう。


 そのようなことを考える度に、エステルは大声で叫び出したくなるほどの恐ろしさを覚えていた。実際には、自室のベッドの上で枕に顔を押し付けて、声にならない声を上げることしかできないのだが。


「……家族は、知っているんですか」エステルは喉に力を入れ、震える声を何とか抑え付ける。「このことは、父や母も知っているんですか?」

「モーリスには話してあるよ。了承も得ている。もちろん、君が良しと言えばという条件付きだが」

「エスメラルダは?」

「彼女にも帰りの馬車の中でそれとなく尋ねてみたが、学校に通って勉強するほどの情熱はないようだね。だが、エスメラルダが一緒なら君の不安が和らぐというのであれば、彼女にも挑戦の機会を与えても構わない。二人まとめて養女に迎え、学院に通えるように手配しよう。その前に試験を受けて合格する必要はあるが」


 エステルとエスメラルダの姉妹は学校に通ったことがない。一番近くの学校は隣町にあり、毎日何時間も掛けて馬車で通うか、家族で移り住むか、子供たちだけでどこかに下宿するかの選択を迫られることになる。


 幸いなことに、エインズワース家はモーリスが士官学校を卒業しているので、子供たちに勉強を教えることができた。しかしながら、勉強熱心だったエステルとは違い、エスメラルダはおろそかにしがちで、モーリスから出された宿題を自分で解いたことはなく、いつもエステルの答えをノートに写していたくらいだ。試験を受けても合格する可能性は限りなく低いに違いない。


「私は明日王都に向かい、一月程で戻る予定だ。エスメラルダをもう一度エルフィンストーン公爵家に連れて行く約束をしているからね。君からの返事はそのときに聞かせてもらおう」

「一ヶ月後……」

「そう、一ヶ月後だ」


 十八年近くも拗らせてきた精神的なわだかまりを、たった半月で取り除くことなど、エステルには不可能に思えた。


 変わりたい。変わらなければならない。

 だが、現状に甘んじ続けていると、この頭と心は変化を拒絶し、停滞を選択させようとする。そうすれば今以上に傷つくことはないと知っているからだ。外の世界を知らなければ、自分の世界はそこで終結する。何も知らずにいる方が幸せでいられるのではないかと強く思い、恐ろしいことには蓋をして、思考することを放棄したくなる。


 唯一見える口元に不安が表れていたのだろう、その様子を目の当たりにしたハロルドは、どこか困ったような面持ちを浮かべたまま、酷く穏やかに微笑んでいた。

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