中将を軍営に訪う
チベットの恩人をすてて帰国はできないという慧海に、藤井師は、「それは小仁を知って大仁を知らぬ者の言葉だ」と説いた。
「チベットの人が死刑なり財産を失うなりして、それが世界にとってどれほどの害を及ぼすか考えてみなさい。一方、君がネパールに行って死んでしまったらどうか。チベットを世界に紹介することが、どれくらい世界の学者の利益になることか。チベットへの小さな義務のために、世界に対する義務をすててはならない」
それでも慧海は「たとえ世界に対する義務を果たせたとしても、自分が自分に対する義務を果たせぬようでは何にもならない。それに己の功をなすために恩人を捨てるというのが日本人の気質だと思われるのは残念だ」と言った。
三人は何度も繰り返し繰り返し慧海を説得してくる。時間は午前3時を回り、慧海は眠くてたまらなくなったが、藤井師は「行かないと言わないなら今夜は寝かさないぞ」と言う。
そこで慧海は、対案を出した。これから奥中将に、ネパール国王から法王への書状を取り次いでくれるよう計らってくれるようお願いに行く。それが叶ったなら、あなた方の言う通り、帰国しましょう、と。すると大谷上人が、「日本の軍人は親切なのでそのくらいはやってくれるかもしれない」と言うので、ようやく寝られることになった。
翌日は皆でブッダガヤを参詣し、井上先生と慧海は、大谷上人の一行と別れてベナレスへ向かった。ベナレスにはダージリン時代に知り合ったロシアのマッチンセン博士がおり、宿を借りた。
翌日は釈迦が初めて法を説いた鹿野苑を参詣し、英国女性演説家ベザント嬢の演説を聞きに出掛けた。井上先生はその晩ボンベイに行き、慧海は翌朝、ベナレスからデリーの方に向かった。
慧海がデリーに着いたのは夜の2時頃だったが、ひどく混雑して宿屋もなかった。夜中だが、奥中将のいる場所に近づいておこうと馬車を呼ぶと、法外な値段をふっかけられた。仕方ないので巡査に頼むと、荷物持ちを世話してくれた。ところがこれも高い。巡査がやかましく言ったので、3ルピーになった。
奥中将の滞在先までは3キロほどだが、慧海がチベット服を着ているので、荷物持ちが勘違いしてシッキム王のところへ案内された。
「ここは違う」と荷物持ちに言ったが、疲れて動けない様子。ようやく昼前になって奥中将のいるテントにたどり着いた。テントを訪ねると、伊藤大尉が「どうもお気の毒なことであった」といって外に出てきた。