大谷、井上、藤井三師の切諫
慧海はカルカッタの仏教徒の会で2、3日滞在する間、サンスクリット語研究をしている同窓の大宮孝潤君を訪ねた。彼は小ぎれいな商家の二階を借りている。階下の接客室に行くと大宮君がいたが、慧海は日本語がうまく話せなくなっている。言葉も出せずに突っ立っていたら、大宮君が「トム・カハー・アドミヤハー(お前はどこの人か)」と聞いてきた。
慧海が「君は大宮君ですか」と聞き返すと、「あなたは日本人ですか」と椅子を勧めてくれた。慧海が名乗ると、「いや、こりゃどうも失敬」と大宮君。どうも滑稽でおかしい。慧海がチベット人のように変わってしまったと驚いていた。彼は天台宗の方で、洒落な人である。
12月14日、井上円了先生が大宮さんの所に着いた。慧海は井上先生とは哲学館で教えを受けた師弟関係にあり、再会を喜んだ。
慧海は先生とダージリンに行って、翌朝3時頃にタイガ・ヒルへ案内し、ヒマラヤの世界一の高山を御覧に入れた。先生は「只、唯我独尊山を看る」とエベレストをたたえた。
23日にカルカッタに戻り、その夜ブッダガヤに参詣に行くことにした。
慧海はその足でデリーに行って、インド皇帝の戴冠式に出席している日本の奥中将にネパール国王を紹介してもらうつもりだった。ただ慧海は奥中将と面識がないので、大宮君のはからいで、ボンベイの三井物産会社の支配人から紹介状をもらって出かけた。
ブッダガヤを参拝した後、慧海と井上先生は汽車に乗ってデリーに向かった。乗り換えのバンキープールという停車場で汽車を待っていたら、英語の話せるインド人が「あなたはチベット人ですか」と聞いてきた。
「そうではない」「チベットから来たのにチベット人ではないのですか」「そうとは限らないだろう」などと話していた所で、便所の方から飛び出してきた人がいる。「話を聞いていたが、やはりそうだった」と手を握ってきたのが、なんと文学士の藤井宣正師だった。
井上先生とも奇遇を喜び合って、さて、これからどうしようかとなった。
ここからガヤに向かっても宿所はない。ダルバンガローまで向かえばあるが、満室だろう。藤井師は「大谷光瑞さんがダルバンガローにいるから、夜通しでも構わないから行こうではないか」という。早速、電報を打って、ガヤ行きの汽車に乗り込んだ。
深夜だったが駅には大谷さんの迎えが来ていて、馬車でダルバンガローへ連れて行ってくれた。大谷上人も交えて話していると、慧海がこれからどこに行くのかという話になった。
井上先生が「困ったことに、ネパールの方へ出掛けるというんですよ」と言うと、藤井師は「どういう事情があるか知らないが、それはもってのほかだ」と憤った。
井上先生は慧海に代わって、書物をネパールに取りにいかねばならないこと、そしてラサの疑獄事件を救いたいという事情を話した。すると大谷上人も藤井師も「チベットのことは気の毒だが、まず日本に帰ってチベットの事情を紹介してもらいたい。それが最も大切なことだ」と言う。
そして三人から「君はもう世界の河口慧海なのだ。途中でマラリア熱にかかって殺されたらどうするのか。身を大切にして早く日本に帰られるのが相当だ」と強く言われた。
けれども慧海は「それでは日本人の義気が失われてしまう。恩人が残忍な責め苦に遭い、夜には寒い牢獄に入れられていると思うと、はらわたが切られる思いだ。因縁があり、恩を受けた人が災いの中にいるのを知りながら、自分が大切だとうち捨てて帰国するなどできない」と断然として答えた。