救解の方策
関門長は罪から逃れるために馬鹿なことを報告したのだろう。
「鳥じゃあるまいし、私が飛べるわけがない」と慧海があきれて言うと、「でも、できると評判になっているのです。死んだ人さえ助けたならば、飛ぶくらいなんでもないでしょう」と商人。頭が痛くなって慧海は関所でもらった帰国用の通行券を見せてやった。
商人はその旅券が本物だと認めはしたが、これは関門長の目をくらませて取ったのだろうという。正しい事を信じず、真実をまげて不思議なことであるように信じたがるのはチベット人の癖である。
慧海は投獄された人たちを救う方法を考えた。前大蔵大臣は敵も多いので、陥れられる可能性もある。手紙を運んでくれたツァ・ルンバやセラ大の教師や保証人が責め苦を受けていると聞けば、慧海は枕を高くして寝ることができなかった。
そして、中国政府、ネパール政府のどちらに助けを求めるのが得策かを考え、ネパールに決めた。仮に中国政府に願っても、チベットでは既に清国そのものを信じていないからだ。清国王は、英国の貴婦人を皇妃にもらってから英国と親密である。清国から申込みがあってもチベット政府はほぼ反対するだろう。
ネパールは兵士が英国の訓練を受けて非常に強く、チベットでは恐れを抱いている。またネパール政府は日本に好意を示し、留学生を送ってもいる。
ネパールに行くとなれば金が必要だが、慧海の手元には一文もないどころか借金もあった。幸いに日本の諸氏が300円の金を送ってくれたので、これを使うことにした。
すぐに出発したかったが慧海にはダージリンでやりかけの仕事があった。それはサラット居士から依頼されたチベット文法書の編纂だ。これに三か月くらい費やしたが、はかどらない。おそらく3〜5年はかかるだろう。
文法書のほうは後回しにして、ラサの疑獄事件の解決と帰国のために慧海は11月下旬、カルカッタへ向かった。




