チベットに別る
慧海がたどったルートをここで振り返っておきたい。
まずダージリンからラサ府まで、約4000キロを歩いた。
明治32年1月5日にダージリンを出発して、汽車でセゴーリまで行き、そこから185キロほど歩いて2月5日にカトマンズに入った。3月7日に出発してポカラに着いたのが11日。14日にポカラを出て4月16日にロー州のツァーランに着いた。カトマンズからツァーランは418キロである。
ツァーランには1年ほど滞在し、明治33年4月6日にダウラギリの東谷にあるマルバ山村に出で、6月12日にダウラギリの北の中腹を越えて西北原に進み、7月4日にホルトショ州の山峡に達した。ツァーランからマルバまでが112キロ、マルバからホルトショ州までが250キロだ。
12月5日にシカチェのタシ・ルフンプー寺に着き、数日間滞在して明治34年3月21日にラサ府のセラ大寺へ着いた。ダージリンを出てちょうど2年3カ月だった。ホルトショ州からラサまでは回り道をしたので、2050キロも歩いている。
慧海たちは翌朝、テントを出発した。この日は何も食べられないだろうというので、しっかり食べて山に入った。10キロほど登ると一軒家があった。
この家はダージリンから怪しい者が来た場合、ニャートン城に知らせるためにある。家には老婆ともう一人住んでいて、息子はカリンポンへ商売に行っていて留守だという。ここで茶を飲み、ひどい坂を登った後にもう一度飲み、それから山に入って麦焦しをかき込んで、坂道を登った。
しばらくいくと雪山となった。坂の名はゼーラという。麓のほうを見ると広原の谷間から雲が立ち、それが大森林に飛んで行くさまは実に美しい。
雪山の頂上が英領インドとチベットとの国境である。慧海はチベットの方を眺めてはるか東北に雪の山が雲に見えつ隠れつする様子を見た。あの雪山のかなたにはまた雪山があり、そのはるか向こうにラサがあるのである。
慧海がツァーランに着いてからほぼ3年の月日が流れたのだ。釈尊の加護の力に礼拝し、「みほとけの護りの力我れなくは ゆき高原に我れ失うせけんを」「あまつ原深雪の山をふみこえて 妙の御法の会にも逢ひけり」「万代に変らぬ雪の深山路を ふみ別けにしは法の徳にそ」と詠んでチベットに別れを告げた。
雪の中を4キロ程下ると石造りの道が現れた。これはチベットでは夢にも見られないほど立派な道だ。この辺りはトモからダージリンへ商売に出かける人の往来が多い。
ここは鳩や鶏の卵大の信じられないくらい大きなヒョウが降るので、一月半くらい通行止めになっていたのが、ようやく通行できるようになったそうだ。
しばらく行くとナクタン駅に着いた。ここには兵舎として使われた20軒ほどの家があり、今は羊毛の荷物などを入れてある。ある家に泊まり、6月16日午前五時に豪雨の中を出発した。うっそうとした林道を20キロほど行ってリンタム駅に泊まった。
翌日また6キロほど行くと暑くてたまらない。着物を脱いで薄着になったが、汗が全身にしたたる。そこから西南に登り、ツォムタクバに泊まった。
翌18日はまた雨の中を進んだ。この辺りはシッキム人や、移住してきたネパール人が開墾した田が広がる。これらの租税は英領インドに収まる。
ここの田で作る米は日本の米のようでとてもうまい。インド米はまずいのが多いが、このヒマラヤ山中の米はつやがあって、粒も日本と同じようで、香ばしい。ちょうど田植えをしていて、慧海は「五月雨のヒマラヤ山の稲植に 大和のさまのをしと思はる」と詠んだ。
ボェトン駅に着いた。ここには欧州人も住んでいるし、郵便局も教会も学校もある。郵便局は立派な家で、その縁側で通りを眺めるチベット紳士がいた。
紳士は慧海の顔を見るなり「こちらへお上がりなさい」と声を掛けてきた。これはおかしいと上がっていくと、英語で「あなた、私を忘れたのですか?」という。よく見ればダージリンの学校にいたチベット語の教師だった。郵便局長もやっているのだ。
紳士は「あなたがチベットに居るという噂を聞き、殺されはしないかと心配していた」という。ふとテンバに気が付いた。英語で話すのを見て、呆けた顔をしている。紳士はチベット人だが、ダージリン生まれなのでラサの言葉が分らない。チベット語で話しかけてもすぐに英語に代わってしまう。一方、慧海はもともと英語がうまくないので、チベット語が出てしまう。
テンバはこの様子を見て疑いを持ったらしく、局長の奥さんに慧海の事を尋ねると、「彼は、ジャパン・ラマだ」と返された。奥さんが「日本は英国のような強国だ」と告げると、テンバは青くなって「大変だ、私は殺される」と恐れ、ぶるぶる震えている。
その夜は立派な西洋風のベッドで眠り、慧海はラサ府を離れてから久々に人間らしい休み方をした。